7.シオン寮
寄宿舎が建ち並ぶエリアは、チャペルを出てすぐだった。エマと景が歩く中央の道を挟んで、左右に四棟ずつ。その八棟の寄宿舎は、レンガ造りの古風な西洋建築だ。三階建てくらいだろうか。世間に「お嬢様学校」と言われているだけあるな、とエマは思った。
八つの建物の丁度中心に来た時、道が二股に分かれた。「シオンはこっちだよ」と言って景は右手に折れた。今度は、左右に二棟ずつある道を歩く。
「あ、そういえば私の荷物って」
「もう私が運んだよ」
「……すみません」
「うん、いいよ。でもこれからはしちゃダメ。わかった?」
「わかりました」
しっかりと怒られ、エマはしゅんとしながら景に付いていく。
太陽はもう景の髪を照らしていなかった。
「もう、だから後ろ歩かないでって」
景が振り返ってそう言った。もう何度目になるかわからない謝罪を言って駆け足で景の横につく。
二人は一組目の建物を通り過ぎ、二組目の右側の建物の前で止まった。
「到着!ここが私たちの寮、シオン寮です。向かいは教員棟だから、悪さはできないよ」
道を挟んで向こう側の建物を指して、景がそう言った。エマは教員棟を一瞥してから、自分の寮に視線を戻す。見上げると、一階の右側と三階の一部屋だけ灯りがあって、他はない。エマは今から上級生に挨拶しなきゃいけないことに気が付き、突然憂鬱になった。どんな人がいるのだろうか。他の一年生は誰だろう。絢とゆりはいませんように。そう願いながら、景が開けた玄関扉を通り抜けようとしたその時。
何の前触れもなく、悪寒がした。風も吹いていないのに、冷気に全身を舐められるような感覚がして、鳥肌が立つ。エマは思わず振り返ったが、周りには何もなかった。誰もいなかった。しかし、誰かに見られていたような、そんな嫌な感覚だ。エマに背後を取られることをあんなに気にしていた景は、何も感じなかったようだ。寮に入らないエマに怪訝な顔を向ける。
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
エマの様子が気になったのか、エマが中に入ると、景も一度周囲に目をやってから扉を閉めた。
「エマっち!」
靴を脱いで室内履きに変えると、何者かが勢いよく突進してきた。エマは嫌な予感がして自分から引き剝がす。悲しいかなそれは的中したようだ。絢だ。エマはわかりやすくげんなりした。
「あ! ごめんね、体調悪いんだよね! 大丈夫?」
「大丈夫。仮病だから」
エマがそう伝えると、絢は信じられないものを見たように口をあんぐりと開けて動かなくなった。
「あらあら、仮病だったの。いけない子ねぇ」
おっとりした声が聞こえ、そちらを見る。そこは寮の共用スペースだろうか。ソファや椅子、机、そしてテレビなどがある、リビングのような空間があった。声の主と思われる人物は横に長いソファに座り、隣の誰かの頭を膝に乗せている。背中までの長い黒髪を下ろし、目元にはほくろがある。高校生にしては色気のある少女だった。
エマは謝罪の会釈をそちらに向けてした。ついでにリビングルームにいる人を確認してみる。膝枕をしている、されている二人の他には、エマに興味津々なツーサイドアップの可愛らしい少女がいる。そして、笑顔でエマに手を振っているのは、昼に食堂で遭遇した留学生のエヴァ。根暗オタクの千穂は、部屋の隅の椅子で気配を消している(消せていないが、恐らく本人はそのつもりなのだろう)。エマは安心した。不幸中の幸い、どうやらゆりは違う寮に配属されたようだ。
「もう、私がちゃんと注意したからあんまりいじめないであげてね。あ、エマちゃん、こっちで手を洗って」
エマが手を洗い終わると、景はエマの手を引いてリビングに連れて行った。絢はツーサイドアップの少女の横にいた。
「皆さん、この子が各務エマちゃんです」
景に紹介される。
「か、各務エマです。よろしくお願いします」
「二年の塔島伊緒。エマちゃんよろしくねぇ」
「姫はね、星野姫唯、二年生なの。姫って呼んでね」
おっとりした色気のある方が伊緒、ツーサイドアップの可愛らしい方が姫唯と言うらしい。伊緒に膝枕されている少女は、どうやら寝ているようだ。
「よろしくお願いします、伊緒先輩、姫唯先輩」
流石に初対面の先輩を「姫」と呼ぶ度胸はなかったので、エマはそのまま名前で呼ぶことにした。苗字に先輩と付けるか一瞬迷ったが、中学の時は名前に先輩を付けるのが主流だったことを思い出したのだ。 姫唯は「姫」と呼ばせることに失敗し、残念そうにしている。
「エマ、サッキぶりです!」
「さっきぶりですね。エヴァ先輩」
エマがそう言うと、「セ、センパイ……」と胸を押さえて呟いた。エマは、エヴァが日本のアニメが好きだと言っていたことを思い出した。自分が先輩と呼ばれるのがよっぽどうれしいのだろう。
「そっか。千穂ちゃんとエヴァちゃんには会ったんだってね」
景がエマに言う。どちらかが景に伝えたのか、どうやら既に知っていたようだ。
「エマちゃんもめちゃめちゃ思春期っぽくて可愛い!」
「かわ、え、は?」
「あー、ごめんね。姫ちゃんはこの世界のものなんでも可愛いと思うらしいの。気にしなくていいよ」
景が言った。エマは自分が思春期だという自覚がないので、思春期と言われたことと、それを可愛いと言われたことの両方が気に食わなかった。気にしないことはできない。
「ホントに可愛いのに。絢ちゃんは~、いい子で、元気で可愛い!」
「姫先輩もかわいいです!」
「ホント? 姫可愛い?」
「すごくすごぉく可愛い!」
エマは二人の会話を聞き、その空間だけ幼稚園になったように錯覚した。
「姫嬉しい! ゆりちゃんも思春期っぽくて、可愛いよね」
「え? ゆり?」
姫唯から発せられた名前に、耳を疑う。
「ゆりっちはね、眠いって言って一人で部屋に戻っちゃったよ」
「うわ、アイツも一緒とか最悪すぎる」
不幸中の幸いだと思っていたのだが、実際は幸いなど何一つなかった。エマは思わず頭を抱えて嘆く。
「あらあら、エマちゃんはもうゆりちゃんと仲悪いの?」
伊緒が面白そうにエマに聞いた。
「まあ、あんまり仲良くないです。違う寮がよかったくらい」
「同じ寮に配属されるのは同じクラスの寄宿生だからね」
景がエマを慰める。
「うふふ、ゆりちゃん教育しがいがありそうで楽しみだわぁ」
「伊緒先輩は、ゆりの<姉>なんですか?」
「ええ、可愛い<妹>ができたものね」
「あんまりやりすぎないでね」
景が苦笑いをしながら伊緒に言った。
「姫は絢ちゃんの<姉>なの! あ、エマちゃんと景ちゃんもこっち座ってね。姫、みんなでもっとおしゃべりしたい」
姫唯のその言葉で、隅にいる千穂と部屋にいるゆり以外はソファの近くに集まって座った。
・吸血鬼 vampire
遥か昔から存在している、人間に最も近い生物。処女の生き血を吸い続ければ半永久的に生きながらえることができる。害獣の扱いをされてきたが、近年は吸血鬼を保護し、共存を目指すべきだと訴える人間も多く出てきている。
・ヴァンパイアハンター
吸血鬼を駆除する者たちのこと。肌や髪、目の色などが極めて白に近い。
・<姉妹>
カラニット女学院高等学校寄宿寮に存在する制度。一年生の<妹>に二年生の<姉>が付き、マンツーマンで寮生活を一年間サポートする。<姉妹>である一年間、同室で過ごす。
・各務エマ Kakumu Ema
本作の主人公。カラニット女学院高等学校一年A組。シオン寮。宗教を毛嫌いしている。
祖母と母もカラニット出身である。景の<妹>。
・来栖景 Kurusu Kei
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。白く長い髪に灰色の瞳を持つが、顔立ちは日本人。
ヴァンパイアハンター。エマの<姉>。
・和泉絢 Izumi Aya
エマのクラスメイト。友好的で天真爛漫。吸血鬼迫害を疑問視している。姫唯の<妹>。
・星野姫唯 Hoshino Kii
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。セミロングの黒髪をリボンでツーサイドアップにしている。何にでも「可愛い」と思う気質がある。絢の<姉>。
・今見ゆり Imami Yuri
エマのクラスメイト。入学早々、校則で禁じられているカラコンやメイク、染髪をしてくる不良少女。伊緒の<妹>。
・塔島伊緒 Toujima Io
カラニット女学院高等学校二年生。おっとりしているが、Sっ気がある。色気のあるお姉さん。ゆりの<姉>。
・安曇千穂 Azumi Chiho
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。長い前髪とマスクで顔のほとんどを覆っている。根暗オタクで陰謀論者。エヴァの<姉>。
・エヴァ・ローズ Ava Rose
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。留学生で、寄宿生としては一年目なので、二年生だが千穂の<妹>である。
・伊東蘭花 Itou Ranka
一年A組の担任教師の女性。担当科目は地理歴史。
・箱田メアリ Hakoda Mary
カラニット女学院理事長。若々しく美しい黒髪の女性。