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6.二人きりのチャペル

 保健室には、中年の女性の養護教諭が一人いた。体調が悪くて入寮ミサに行けないことを伝える。すると、クラスと名前を聞かれた後、ベッドを借りることができた。

 養護教諭がどこかに電話している声と、優しいオルゴールの音を聞きいていると、エマの意識は早々に闇の中へ――。


 落ちていく。落ちていく。吸い込まれるように闇に落ちていく。真っ暗で、底が見えない。底が存在するのかもわからない。そんな奈落へ、エマはただひたすらに落ちて、抵抗することができない。どうにかして体を動かそうとすると、何の前触れもなく、電気ショックを浴びたような衝撃が、エマの身体に走った。


「へぇあっ」


 間の抜けた声が聞こえて、エマは目が覚めた。今は、何時だろうか。一分も経っていないような気がする。もう少し寝たかったのに。エマは、まだ寝ぼけた頭でそんなことを考えた。

 腹の方で何かが動き、反射的に体を起こす。


「寝ちゃってたのね、私」


 見覚えのある白いふわふわが、「んー」と声を出しながら上に伸びた。


「……え、なんで」


 目はもう冴えているというのに、頭はまだすっきりしない。そのせいなのか、思った言葉がそのまま口に出てしまった。ラグドールのような瞳が、エマを射抜いた。


「今朝会ったの、覚えてる? 私、来栖景(くるすけい)。各務エマちゃん、貴女の<姉>なの。改めて、よろしくね」


 景はそう言って、エマに右手を差し出してきた。エマの<姉>は来栖景。つむじから爪先まで真っ白の、猫のような少女。そして、この学院の生徒は誰もが噂する、ヴァンパイアハンターなのだ。そんな景が、エマの<姉>。つまり、一年間同じ部屋で生活するということだ。

 とんでもない有名人に当たったものだ。これは偶然なのか、はたまた必然か。

 エマは、景が差し出した手を取った。


「よろしくお願いします、先輩」


「貴女がエマちゃんだったのね。会ったとき、教えてくれればよかったのに」


「すみません、遅刻だったんで、急いでて」


「まったく、とんだ問題児に当たったものね……。それで、体調はもう大丈夫なの?」


 景が小さくぼやいたのを、エマは聞き逃さなかった。若干の申し訳なさで、エマは返答に迷ってしまい、慌てた結果、「あー」とか「んー」とか言葉ではない音を繰り返す。


「……なんちゃって。サボりでしょ、わかってるわよ」


 図星だった。エマは曖昧に微笑んでみたが、誤魔化せているとは思えなかった。

 景は、自分が座っていた椅子から立ち上がると、それを壁に寄せて言った。


「それじゃあ、もう行くよ」


 保健室の時計を見ると、十七時を過ぎた所だった。


「え、十七時?」

 

 思わず声を上げてしまった。景の様子から、入寮ミサはもう終わったのだと察していたが、まさかそんんなに経っていると思いもしなかった。


「そうよ、本当に体調が良くなかったら悪いと思って、起きるの待ってたの」


 その間に景も寝てしまった、ということなのだろう。

 エマは、ベッドから降りて上履きを履いた。景と二人で保健室を出る。裏の扉から西日が差し込んで、誰もいない教室棟のホールを、穏やかなオレンジ色に染めていた。静かだった。二人分の上履きが床に当たる音以外は、何も聞こえなかった。エマは景の斜め後ろを歩く。景の歩行に合わせて、彼女の髪がふわりふわりと跳ねている。

 エマは、もう今日だけで三回目の、教室棟の裏の扉を通った。その時、景が突然止まり、振り向いた。


「横、歩いてよ。私たちはもう<姉妹>なんだから」


 景は、「手がかかる」とでも言いたげな、可愛らしい困り顔で微笑みながら、そう言った。返事をして横に並ぶと、続けて話しかけられた。


「ミサ、どうしてサボったの?」


 二人で並んで歩く。食堂に行く階段ではない、もう一つの緩やかな坂の道を、真っすぐ上った。景は左に、エマは右にバッグを持っていたので、時折、少しだけぶつかった。


「宗教とか、そういうのあんまり好きじゃなくて」


「……そっか」


 景からは、それだけしか返ってこなかった。


「すみません、ヴァンパイアハンターにこんなこと言って」


 景は目を丸くしてから、軽く吹き出した。何がそんなにおかしいのか、エマには理解できなかった。


「お気遣いありがとう。でも大丈夫」


 景は辺りを見回す。それから、少し声のトーンを落としてエマに耳打ちした。


「私だって、心から信仰しているわけじゃないの」


 「内緒ね」と景が微笑んだ。エマはそれを見て、景に親しみを覚えた。ヴァンパイアハンターは、生まれた時からヴァンパイアハンターになることが決まっている。人間から人間が、吸血鬼から吸血鬼が産まれるように、ヴァンパイアハンターからはヴァンパイアハンターが産まれるのだ。


「洗礼、受けてるんじゃないんですか?」


「受けてる。だから、内緒ね」


 景の微笑みが、一瞬だけ愁いを帯びたように見えた。景を染める橙色の光が、切なさや儚さを演出している。この人は真っ白だから、何色にも染まってしまうのだ。エマは、景のその横顔をしばらく盗み見ていた。

 景が立ち止まった。確か、寄宿舎が並ぶ道はもう少し先だ。景の目線を辿ると、そこにはエマが最も入りたくない建物があった。


「先輩、ここチャペルですよ」


「うん、チャペルに来たの。簡易的にはなるけど、私と貴女の二人で、入寮ミサをやるのよ」


「もしかして、騙したんですか」


「そんなつもりはないし、さっきのは本心よ。でも決まりなの。入寮ミサをやらないと、貴女は寮に入れない。それに、これから三年間ずっとミサを避けて過ごすつもり? 言っておくけど、そんなことは不可能よ」


 景の正論に、エマは返す言葉もなかった。そんなエマの様子を見た景は、また「やれやれ」とでも言うように微笑んで、チャペルの扉を開けた。エマは渋々景の後に続いた。

 エマはチャペルに一歩足を踏み入れると、その燦爛たる内装に思わず息を呑んだ。この時代の、しかも日本では滅多に見かけない、ゴシック様式の建築だった。外観も中々に荘厳な雰囲気のあるものだったが、中は格別だった。祭壇のある場所は、巨大な鳥籠のような空間だ。その鳥籠をステンドグラスが囲んで、西日を受けてチャペルの中を色とりどりに染め上げている。緑、赤、青、そしてオレンジ。エマは、それを()()()()()()、美しいと思った。

 祭壇の前に辿り着くと、景が「ロザリオとベールを出して」とエマに言う。景はまるで原色の絵の具だけを落としたキャンバスのようだった。


「……ロッカーに置いてきました」


「まったくもう。仕方ないわね、私のを一緒に使いましょう」


 景は一番前の長椅子に腰を下ろすと、バッグからロザリオとベール、そして聖書と聖歌集を取り出した。そして立ったままのエマを見て、腕を引いて腰掛けるように促した。


「ミサって、二人でできるものなんですか」


「大丈夫。元々、入寮ミサだって本当のミサとは違うもの。エマちゃんは何も言わずにそこにいるだけでいいよ」


 最後の悪あがきも空しく、景はエマも入るようにベールを被った。一人用のベールなので、二人で被るためにはかなり密着する必要があった。景がロザリオと一緒に両手を組む。それを横目で見たエマはこっそりベールから抜け出そうとしたが、しっかりと腕を掴まれてしまった。そのままエマが逃げないように、景はエマの腕を組んで、再び祈りを捧げるポーズをした。


「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたと共にありますように。アーメン」

 

 エマは「アーメン」を唱えなかったが、景は「何も言わずにそこにいるだけでいい」と言った手前、何も言うことができなかった。そして、景がエマの腕を組んだまま、器用に聖書を開く。


『初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。

「光あれ。」

こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。(創世記1:1~5)』*


 景が読み上げたのは、エマでも知っている聖書箇所だった。聖書によると、世界はそうやってできたらしい。

 その後、景は一人で聖歌を朗々と歌い上げた。ヴァンパイアハンターは幼少から歌の教育もされるのだろうか。エマにそう思わせるほどの歌声が、二人きりのチャペルに美しく響いた。

 そして、景によってエマの寄宿生活の安全が祈られる。今日で何度決まりが悪い思いをするのだろう。景の「アーメン」でいたたまれなくなり身をよじったとき、ようやくエマは解放された。

 

「よくできました」


 景が、逃げ出さずに最後まで耐えたエマを褒めた。景はそのままベールを取ると、エマの頭を軽く撫でる。エマは気恥ずかしくなって、景に質問した。


「ベールって、なんで被るんですか」


「……教会が、祈りを捧げる私たちが、キリストの花嫁だからよ」


「げぇ、きも! いですね」


 エマは思わず出た正直な感想を、咄嗟に敬語に直したが、暴言がほんの少し丁寧になっただけだった。


「ちょっと、静かに。言葉遣いにも気を付けて。本当は絶対に被らなきゃいけないってわけじゃないんだけどね。この学院のミサでは被るの」


 エマは自分から聞いたくせに、興味がなさそうに返事をした。

 二人でチャペルから出る。オレンジ色に燃える太陽は、もう少しで西の空に沈むところだった。



*日本聖書協会『聖書 新共同訳』

・吸血鬼 vampire

遥か昔から存在している、人間に最も近い生物。処女の生き血を吸い続ければ半永久的に生きながらえることができる。害獣の扱いをされてきたが、近年は吸血鬼を保護し、共存を目指すべきだと訴える人間も多く出てきている。


・ヴァンパイアハンター

吸血鬼を駆除する者たちのこと。肌や髪、目の色などが極めて白に近い。


・<姉妹(シスター)

カラニット女学院高等学校寄宿寮に存在する制度。一年生の<妹>に二年生の<姉>が付き、マンツーマンで寮生活を一年間サポートする。<姉妹>である一年間、同室で過ごす。


・各務エマ Kakumu Ema

本作の主人公。カラニット女学院高等学校一年A組。シオン寮。宗教を毛嫌いしている。

祖母と母もカラニット出身である。景の<妹>。


・来栖景 Kurusu Kei

カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。白く長い髪に灰色の瞳を持つが、顔立ちは日本人。

ヴァンパイアハンター。エマの<姉>。


・和泉絢 Izumi Aya

エマのクラスメイト。友好的で天真爛漫。吸血鬼迫害を疑問視している。


・今見ゆり Imami Yuri

エマのクラスメイト。入学早々、校則で禁じられているカラコンやメイク、染髪をしてくる不良少女。


・安曇千穂 Azumi Chiho

カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。長い前髪とマスクで顔のほとんどを覆っている。根暗オタクで陰謀論者。エヴァの<姉>。


・エヴァ・ローズ Ava Rose

カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。留学生で、寄宿生としては一年目なので、二年生だが千穂の<妹>である。


・伊東蘭花 Itou Ranka

一年A組の担任教師の女性。担当科目は地理歴史。


・箱田メアリ Hakoda Mary

カラニット女学院理事長。若々しく美しい黒髪の女性。

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