(4)想いにつけた名前〜私だったらよかったのに〜
眠れなくて、レイラはベッドから起き上がった。
歩み寄った窓の外は月夜で、星も出ていた。
涼しい風が頬を撫でる。
この国に来てからから既に5ヶ月目が終わろうとしている。
半年という滞在期間も終盤だ。
祖国が桜満開のタイミングで、レイラは婚約破棄と求婚をされた。
そしてその後、一週間で実家である公爵家を出た。
まさに怒涛の展開。
しかし、その後この国で訪れた日々は、平和で穏やかなものだった。
やることはそれなりにあったが、レイラの主要ミッションであった妃教育のおさらいは問題なく終わり、王太子妃教育もほぼ完了した。
最近は王妃様の勧めもあり、彼女に付き添って社交に力を入れている。
(お父様やお母様、ラルフは元気かしら)
ラルフはレイラの弟で、3歳年下の15歳である。
思えば今日まで、このようにゆったりと祖国を懐かしむ余裕もなかった。
心が疲れていたのか、新しい環境に適応するのに必死だったのか、今となってはもうわからなかった。
しかし、弱るとか、泣き言を言うとか、そういう暇がなかったのは事実で、優しい家族に余計な心配をさせずに済んだのは良かったと、レイラは満足していた。
レイラはドレッサーから、ガブリエルに町で買ってもらった指輪を取り出した。
左手の薬指そっと嵌め、レイラは指輪を撫でた。
(ガブリエル様……)
ガブリエルはカイル、レイラはルーナとして、1日だけ城下町へ出かけた日のことを思い出す。
その後、人気のない隠れた野原で、二人きりでお花見をした。
桜がたくさん咲いていて、時々ひらひらと花弁が舞う中、クローバーや白詰草がぎっしり生えた緑地面に敷物を広げ、二人で食べたサンドイッチはとても美味しかった。
いかに変装して騎士と町娘風になっているとはいえ、中身は王太子とその婚約者である。
よって、少し離れた場所に護衛はいただろうけれども、きちんと気にならないように配慮されていた。
あの時は、虫除けに指輪を贈らせてくれとガブリエルに言われた。
宝飾品を買ってもらうなんて申し訳ないと思いつつも、眺めたショーケースの中に、大きめのアメジストが1つ、サイズの違う小ぶりの2つのダイヤが右に並ぶプラチナの指輪をレイラは見つけた。
一目見て、ガブリエルの瞳と、その銀の髪のようだと思った。
物凄く心が惹かれて、レイラは迷わずそれを選んだ。
あの日からこの指輪が、レイラの一番のお気に入りで宝物だ。
レイラは普段、基本的に毎日王城にいる。
ガブリエルの婚約者としてだんだん顔も名前も知られて、ここ1ヶ月は社交に力を入れた結果、おいそれと虫など寄り付くはずもなかった。
それでもレイラは、基本的に毎日、アメジストの指輪を身に着けた。
ガブリエルに会える日も、会えない日も。
無論、社交に行くときは、ドレスに合ったものをつけるし、入浴や就寝の際は外していたが。
ガブリエルに会えると嬉しい。
声をかけられて、笑いかけてもらえるともっと嬉しい。
髪を撫でられ、手が触れ合うと胸が高鳴る。
そして、ガブリエルに会えないと寂しい。
気づいたときにはもう、ガブリエルが心に住み着いていた。
毎日、暇さえあればガブリエルはどうしているかな、ガブリエルはどう思うかなと考えてしまう。
(これが恋?私は、ガブリエル様のことが好きなのかしら)
いまいち確信が持てないまま、レイラは悶々としていた。
*****
その数日後、レイラは広い王城の庭の片隅にいた。
春の見頃の最盛期よりも幾分か花を減らした薔薇達が、また秋の花をつけ始めている。
この薔薇たちが秋の満開を迎える前に、レイラは一旦ここを去る。
(後1ヶ月と少しで、この国と一旦お別れなのね。
まぁ、また3ヶ月後にはここに戻ってきて、今度は結婚するのだけれど)
この国を離れる寂しさと祖国の家族に会える嬉しさが綯い交ぜになって、最近のレイラは複雑な気持ちだ。
婚約してから1年での結婚。
本当はもう少し期間があってもいいのかもしれないが、ガブリエルもレイラも適齢期を迎えており、ガブリエルの希望もあって、来年の春には、盛大な結婚式が予定されている。
王城の庭の片隅にある通路を抜けると、人気のない緑に囲まれた場所に、小ぢんまりとした白いガゼボが見えた。
最近のレイラのお気に入りは、このガゼボだった。
夏に庭を散策したときに見つけ、涼しくなってからたまにくるようになった。
今日も、レイラ付きの侍女にガゼボにいるからと伝え、部屋を出てきた。
侍女も心得たもので、「では後ほど紅茶をお持ちします」と言っていた。
(誰かいる?)
ガゼボそのものは無人である。
しかし、ガゼボからほど近い場所に、至近距離で向かい合って立っている男女の姿があった。
少し首を傾け、まるで口付けをしているようだった。
男性は、キラキラと陽の光に煌めく銀髪だ。
(銀髪、ですって?)
しまった、もしかしなくてもこれは、王族の密会に出くわしてしまったかもしれない。
内心滝のような汗を流し、レイラは息を呑んで後ずさる。
そのタイミングで、パキ、と枝か葉を何かを踏んだ音が出てしまった。
その僅かな音と気配に、男性が気づいてこちらを向く。
「し、失礼致しました。先客がいらっしゃるとは知らず、……!?」
まずいと思い、咄嗟にレイラは詫びる。
しかし、銀髪の男性と目があった瞬間、息を呑んだ。
何故ならそれは、ガブリエルだったからだ。
ガブリエルは、急に現れたレイラの姿に目を見開いた。
「レイラ!?これは」
「失礼します」
何かを言おうとしたガブリエルの言葉を遮り辞意を述べる。
レイラは綺麗に一礼し、踵を返した。
「レイラ!!」
呼び止める声は、聞こえないふりをした。
兎に角その場にいたくなくて、猛烈な早歩きから駆け足になり、気づけば全力で走っていた。
自室に飛び込み、ドアを閉め、レイラはドアを背にずるずると座り込んだ。
先程見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。
すごくモヤモヤして、胸が苦しい。
乱れた呼吸も、ドクドクと脈打つ心臓も、熱くなる目頭も。全部、走ってきたせいならよかったのに。
「……っ、うそつき……」
涙で視界が歪む。
胸が痛い。どうして他の人とキスするの。
愛し合う夫婦になりたいっていったくせに。
嘘つき。嘘つき。うそつき。
(待って。違うわ。私、そもそもガブリエル様に好きだと言われたことなんて一度もない)
思い返してみると、結婚してほしいとか、妻になってほしいとか、2年間諦めきれなかったとは言われた。
あとは、余程のことがない限りはレイラが一番で、唯一無二の妻であるとも。
(もしかして、妻は私一人だけど他に愛する人は作るということ?それとも、私がモタモタしてる間に他に目がいってしまった……?)
最早、屁理屈とか言葉遊びの世界に突入している気がしないではない。
しかし、婚約破棄からの求婚という怒涛の展開のあと、いきなり始まった隣国での生活に慣れるのにいっぱいいっぱいで、たまに心臓が騒ぐことはあっても今日まで確信が持てないでいた。
しかしレイラは、今やっと、自分の中にあるガブリエルへの想いに名前をつける。
「好き」
ポツリと零れ落ちた一人事は、切なく響いた。
レイラは、己の気持ちを認めた瞬間に絶望する。
自覚した瞬間に失恋なんて、馬鹿みたいだ。
「ガブリエル様が、好き」
涙がボロボロと零れ落ち、想いを乗せた声は震えた。
しかし、その声を聞く人はいない。
好きだと口にすればするほど、胸が締め付けられる。息が苦しい。
だけど、行き先を失った想いが溢れて止まらなくて、レイラはここにはいないガブリエルを想い、しくしく泣いた。
結局、自分は、夫となる人からまともに愛されない運命なのかもしれない。
ガブリエルの婚約者になってから、第一王子との柵は断ち切れた。
周囲にもガブリエルの婚約者として認められ、持ち上げられ、丁寧に扱われてきた。
ガブリエルに至っては、レイラを優しく甘やかすような素振りすらあり、ついうっかり絆されてしまった。
けれど、所詮レイラは、可愛げがないと一度は捨てられた女なのである。
ガブリエルは元婚約者と違って、冷たくしたり、蔑ろにすることはないのだから、そういう人の隣で、本妻としてどんと構えることができるのは、かつて想像した未来よりも何倍もマシではあるが。
(私が、ガブリエル様の一番で唯一の女性になりたい)
レイラは、生まれが公爵令嬢で、祖国の第一王子に嫁ぐ者として相応に育てられてきた。
だから、正妃として申し分ないと判断して、あの時――求婚のタイミングで、レイラが一番で唯一の妻だと、ガブリエルは保証したのかもしれない。
言い方を変えれば、丁度お手頃でお手軽な女が都合よく手に入ったから確保しておきたい、とでも思ったのだろうか。
そもそも貴族は愛人を囲えるし、王族は側妃を合法的に持てる。
よって、ガブリエルに恋人なり愛人がいても、本来であれば全くおかしくないし、責められることでもないのだ。
(ガブリエル様の想い人が私だったらよかったのに……)
妻として唯一無二でありたいと思いつつ、心も体も全部まるごと独り占めしたい。
欲張りな自分の願望が溢れて止まらなくて、レイラは唇を噛んだ。
二人で町へ出掛けた時、手を繋いでお喋りできて楽しかった。
ガブリエルの色を持つ指輪を贈ってもらい、嵌めてもらえて嬉しかった。
馬車で抱き締められたときも、息が詰まりそうなくらい緊張したけど、不思議な安心感と心地よさに酔いそうになった。
あの時は、かつて経験できなかったことを経験できて浮かれていたような気がしていたが、多分それは思い違いだ。
本当は、好意を寄せていた男性と恋仲になったような時間になったから、とても幸せに思ったのだろうと今更気付く。
(これから、どうしよう)
自覚してしまった以上、これまで通りというのはなかなか難しいように思えた。
大変遺憾であるが、レイラは、10年前に祖国による政略的な婚約を結ばされ、少女から女性へと羽化し始めた頃にはすっかりその婚約者に素っ気無くされていた。
その結果、男女間の機微や色恋沙汰は勿論、そもそも異性に優しくしてもらったことすらないのだ。
恋愛という意味では、免疫ゼロどころかマイナスと言っていいくらい初心者だった。
(想いを隠して生きていく?当たって砕ける?
いずれにしろ、ガブリエル様の心は私にないのかもしれないけど、黙っていれば来年には正式な妻なのよね……)
権力者の正妻とは、寛容であればこそ手に入る地位なのかもしれない。
もし二番目の女性の存在に気付き、それについて咎めたら、もしかしたら婚約者というポジションを失うのかもしれない。
そう思うと急に怖くなって、レイラは気持ちが萎んでいくのを感じた。
自問自答しても答えは出ない。
何だか自分が惨めで、格好悪くて、小さく自嘲してレイラは瞳を閉じた。
長年婚約していたのに、第一王子に婚約破棄された時はここまでのダメージは受けなかった。
それなのに、今回は悲しくて悲しくて、いつまでも涙を止めることができなかった。
レイラは、ほぼ一晩中、一人で泣いた。