(3)契約結婚のようなもの〜ご令嬢を私にください〜
桜満開の季節。
穏やかないい天気とは裏腹に、朝から公爵家は、百年に一度の嵐が来たように慌ただしかった。
「レイラ、本当にいいのね」
使用人達に来客の準備の指示を出し終えた実母のクロエが、自らの身支度を終え、レイラの私室にやってきた。
ドレッサーに腰掛け、漆黒のストレートの髪を侍女に結い上げられながら、レイラが鏡越しにクロエを見ると、明らかに心配しているのが分かった。
もしかしたら昨夜、レイラのために泣いてくれたのかもしれない。少しだけ目が赤い気がした。
「はい、お母様」
レイラは、小さく微笑んで肯定した。
心配性で気の利く母と、賢くて家族思いの父。
2つ年下の弟とも仲は良く、レイラは、温かく恵まれた家庭環境で生まれ育ってきた。
(家族に恵まれていたから、婚約者があんなのだったのかしら)
あんなの、とは、性格のことである。
見た目はそこそこ良かったし、格は王家の第一王子、つまり抜群だった。
思い出すだけで気分が下がるが、昨日レイラに婚約破棄を突き付けてきたのは、一応この国の第一王子であり王太子候補である。
「無理しなくていいのよ?何も今すぐに婚約しなくても、暫くゆっくりして、これからのことを考えてみてもいいと思うの」
「ありがとうございます、お母様。でも、もう決めたのです」
「レイラ、本気なの?自棄になっていない?」
「本気です。お母様、心配してくれてありがとう」
レイラは温かい気持ちになり、心からの謝意を述べた。
確かにクロエの言う通りかもしれない。
しかし、もしそれで後手になると、一番望まない未来――つまり、婚約破棄がなかったことになる未来が来てしまいそうで恐ろしい。
それほどまでに、王家の力は強い。
幸い、第一王子は王太子ではなかったから、レイラの妃教育も、王族しか知り得ない極秘情報にまでは至っていない。
もし極秘情報を知ってしまったら、仮に結婚は免れたとしても、生涯にわたり王家の監視下に置かれる。
他国へ嫁ぐなどと問答無用で却下されるに違いない。
だからこそ今すぐ、他国の王家の庇護下に入るというのは、非常に理に適ったもののように思えた。
(自棄というよりは、契約結婚のようなものよね。
合法的に第一王子と関わらない方法を隣国の王太子殿下に提案してもらった、お互いの利害が一致した、というだけだしね)
その王太子――ガブリエルが、本日午後、公爵家に来るらしい。
レイラは、あまりの手際の良さに目眩がしそうになった。
しかし、もしガブリエルが本気なら、このくらい造作もないことなのだろうと思い、何だかちょっと楽しくなってきた。
人はこれをヤケクソというのか、ネジがとんだというのか、それとも切り替えが早いというのかは分からない。
しかし、国が決めた政略結婚に向けて、レイラはたくさんのことを長年我慢して、諦めてきた。
婚約者たる第一王子の横暴や冷遇、厳しい妃教育、年頃の令嬢らしいお洒落や自由な時間。
それなのに第一王子は。
(これは千載一遇のチャンスよ。
今なら運命が変えられるかもしれない。
私は、第一王子の妻にはならない。なりたくない。絶対に)
レイラのプライドにかけて、第一王子のような器の小さい最低野郎のために、泣いて暮らすとか、引き籠もるなどという選択肢は取りたくない。
あのように公衆の面前で婚約破棄宣言をされたのに、元鞘または険悪なまま結婚など、その五百倍は有り得ない。
ここまできたら逃げるが勝ちである。
(本音を言うと、王妃の座に興味はないわ。間違いなく大変だから、正直なりたくない。
けれど、どの道王族と結婚する運命なら、相手が第一王子ではない上にもう顔も見なくていいというのは、すごく素晴らしい条件よね)
この先、一般的なご令嬢のような自由はあるのか。
おそらく答えは否である。
寧ろ、第一王子の婚約者よりも王太子の婚約者へとレベルアップしてしまうため、ますます自由はなくなる可能性が高い。
しかし、それは身体的または物理的な話であって、レイラの望む自由とは、どちらかといえば精神的なものであった。
昨夜、舞踏会の開始時刻から一時間程で、泣き腫らしたレイラが隣国の王族の馬車で帰宅した。
公爵家の使用人達はざわついたが、少し経ってから帰宅した公爵夫妻が慌ててレイラの部屋へ飛んでいったことで、更にざわつきは大きくなった。
公爵夫妻、つまりレイラの両親は、事の一部始終を舞踏会の会場で見ていた。
その結果、第一王子や王家への怒りと失望に満ち満ちるべきところ、急に登場した隣国の王太子の言動の真意を測りかね、何がどうしてこうなったのかよく分からなくなった。
しかし、とりあえず我が娘レイラは不憫である。
昨夜の時点では、一旦そういう状況であった。
しかし今朝、隣国の国王から公爵、つまりレイラの父ザイール宛に、ガブリエルとの正式な婚約の打診が届く。
通常では有り得ないスピード感だ。
恐らく、婚約破棄と求婚の一幕の直後にガブリエルが隣国、つまり自分の国へ至急扱いの使者を出したのだろう。
そこまでの想像はつくが、その翌朝、つまり今朝には、確りと隣国の国王陛下の勅命を握りしめた正式な使者が隣国から到着するとは驚きである。
そしてその数時間後には、本日午後にガブリエル本人が公爵家に挨拶に来るという先触れがやって来て、更に公爵家は大騒ぎになったのだった。
*****
ガブリエル本人が公爵家に来るという先触れの数時間後、レイラとその両親は応接室に並んで座っていた。
向かい側の上座にはガブリエルが座っており、レオナルドが斜め後ろに控えている。
銀髪と金髪を持つ隣国の美形二名は、窓から差し込む春の陽光に照らされているせいか、昨夜よりも更にキラキラ度が増しているように見えた。
レイラは、婚約破棄からの求婚という怒涛の展開のせいで、一時的に自分の目がおかしくなったのかと昨夜は思った。
しかし、どうやらおかしくなっていないと、つい先ほど確信した。
なぜなら、ロビーで控えていた女性の使用人達も、クロエでさえも、華やかな二人に見惚れていたからだ。
「急な来訪を受け入れていただき、感謝します」
まず口を開いたのはガブリエルだった。
昨日の親しみやすい雰囲気とは異なり、非常に王族然とした雰囲気を出していた。
レイラの父ザイールは公爵であり、この国では王族に次ぐ地位を持っているため、恐らくはそれを意識してのことだろうとレイラは思った。
「とんでもないことでございます。
こちらこそお礼を申し上げなければなりません。
昨夜は、娘の窮地に手を差し伸べていただき、ありがとうございました」
余所行きの顔で、レイラと同じ色彩――黒髪にガーネットのような瞳――のザイールが、礼儀正しくガブリエルに応対する。
「ふむ。昨夜は公爵閣下もあの会場にいらっしゃったと」
「はい。少し離れた場所からではありましたので、全てが聞こえたわけではないのですが」
「なるほど。では、単刀直入に申し上げますが、公爵閣下のご令嬢を私にください」
「!?ゲッホゲホゴホッ……」
「あなた、大丈夫ですか?」
ザイールは、少な目に紅茶を口に含んでいたが、衝撃のあまりゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ結果、それが気管に入って咽た。
慌ててハンカチを差し出したクロエ。
「ふはっ、大丈夫だ。すまない。ちょっと、あまりにもストレートな言葉で……」
ザイールは面白そうに笑いながら答え、クロエからハンカチを受け取って口元を押さえ、探るようにガブリエルを見る。
ガブリエルは、静かな湖面のように悠然とした様子で腰掛けており、そこに焦りや情熱といった色は一つも見えなかった。