(4)遠距離恋愛〜私が王太子でなければ〜
国王陛下の登場と詫びの一言に、レイラ、その両親、そしてレオナルドは、一瞬真っ白になった。
王族が気軽に謝罪することは、通常ありえないからだ。
周りの貴族たちもシンと静かになり、固唾をのんで見守っている。
「公爵令嬢レイラ。そなたは正式な隣国の王太子の婚約者であり、挙式と結婚は3ヶ月後に決定している。
両国により成されたこの盟約は、愚息の横槍などでは到底覆らない」
周囲は、国王陛下の台詞に息を呑んだ。
第一王子は茫然自失状態で、目を見開いたまま立ち尽くしている。
国王の実子であり、第一子であり、これまでは王位継承権第一位と言われてきた第一王子の言動を、国王自らが横槍と蔑んだからだ。
「私は、そなたを義理の娘として迎え入れられず残念だ。大変な后教育に何年も励んでくれたのに、すまないことをした」
「国王陛下、そんな、おやめください」
二度目の詫び。
ついには頭まで下げそうな雰囲気の国王に、レイラは慌てて声を上げた。
その瞬間、レイラを見つめる国王の目が不意に微笑んだように見えた。
しかし次の瞬間には、国王は凛とした様子で、会場全体に聞こえるように朗々と言い放った。
「これからは王族同士、外交という形で関わっていくことになるだろう。我が国と隣国の友好の証として、そなたの活躍を期待している」
その言葉に、レイラは思わず涙ぐみそうになる。
第一王子は曲者だったが、国王陛下夫妻は素晴らしい人達だった。
忙しい人達なので沢山の接点があったわけではないけれど、節目節目では、まるで娘のように良くしてもらったと思う。
「勿体無いお言葉、ありがとうございます」
返事をしたレイラは、つま先から頭の天辺までに神経を行き渡らせ、指先まで美しいカーテシーをした。
これが、2日前の夜の舞踏会の出来事の全貌である。
*****
舞踏会の翌日の夕刻頃、執務室にて、ガブリエルは忸怩たる思いをしていた。
レオナルドと共に隣国、つまりレイラの祖国へと送り込んだ数名の王家の影の内の一人が、レオナルドの判断により、夜を徹してガブリエルの元へ舞い戻り、舞踏会での出来事を報告したからだ。
「遠路遥々ご苦労だった。
明日の同じ時間、またここに来てくれ。その後、その足でまた隣国へ行ってもらいたい。
それまで確り眠って、身体を休めてほしい」
ガブリエルは影を労い、寝ずの業務に当たった点を考慮して丸一日休暇を出す。
影が部屋から退室したあと、一人になったガブリエルは自分を落ち着ける目的で大きく息を吸って吐いた。
(あいつ、またレイラに関わったのか)
第一王子が何もしないわけがないとは思っていた。
一言で言えば、想定通りである。
想定通りであるがしかし、腹は立つ。
(私が王族でなければ――いや、王太子でなければ、今すぐ駆けつけられるのに)
ガブリエルは強く拳を握りしめた。
失いたくない。どうしてもレイラがほしい。
だからこそ、一番の腹心の部下であるレオナルドを護衛兼エスコートとして、しかもレイラの両親の了解も取り付けた上で、真正面から送り込んだ。
王家の影も、自分についている倍の数を送り込んだ。
その様を見た両親や側近たちに、過保護だ溺愛だと言われようとも、一向に構わなかった。
周囲の言葉など気にしていられない。
恐ろしいのは、レイラがこの手をすり抜けてしまうこと。
何処か、手の届かない所へ行ってしまうこと。
もしも他の男に取られてしまったら、すぐさま取り返すまでではある。
しかしそれでも、嫉妬に狂って理性を失う自信がある。
もしかしたら相手の男を殺して、城の何処か安全な場所にレイラを閉じ込めてしまうかもしれない。
そんなことは望んでいないのに、もしもを考えるとそんな最悪の未来しか想像できなくて、ガブリエルは自嘲する。
(私は、こんなに酷いことを考えるタイプだったか……?)
自問自答した答えは、ノーだ。
思い返してみても、こんなに腸が煮えくり返るような苛立ちは知らないし、果てしない胸のムカつきを感じたこともない。
「大分重症だな」
はは、と乾いた笑みを零し、ガブリエルは片手で顔を覆った。
愛しいと、この上なく大切だと、たった一人の女性を思う日が来るなどとは思ってもみなかった。
ガブリエルはもう一度溜息をついて、疲れたように執務用の椅子に腰を下ろした。
「レイラ。早く戻ってこい」
するりと、囁くように唇から紡ぎ出されたガブリエルの願いは誰にも聞き届けられることはない。
ただ、広い執務室に寂しく響いた。
*****
「レイラ様、こちらをどうぞ」
「?」
ラルフがレオナルドに懐いた数日後。
ラルフと約束した朝の稽古を終え、公爵家の用意した湯で汗を流した後のレオナルドから、レイラは封筒を手渡された。
「殿下からです」
「!」
レイラは、驚きに目を見開き、手にした封筒を食い入るように見つめた。
幾ら見つめても中の文字が見えるはずもなかったが、レイラへ、と書かれた表面を、ガブリエルの印章が押された蝋で封じられた裏面を、穴が空くほど見た。
レオナルドは、いつも通りの無表情でレイラを見ていたが、明らかに封筒を意識しているレイラを見て、少し安心したように瞳を細めた。
その後、レオナルドを交えての家族揃っての朝食は、レイラにとってはほぼ味がしないものとなった。
手紙の内容が気になって仕方なくて、完全に心ここにあらず状態だったからだ。
家族たちは、まだ舞踏会のことが尾を引いているのかと心配しつつ気を遣い、ぼんやりとしたレイラの様子に触れることはなかった。
ただ一人、直接的な主因を知るレオナルドだけは、しまった朝食のあとに渡せばよかったと、内心後悔していたが。
なんとか朝食を終えて部屋に戻ったレイラは、躊躇うことなく、すぐに封筒を開けた。
カサ、と音を立てて二つ折りの便箋を開くと、そこには、ガブリエルの自筆で書かれた文章が並んでいた。
『貴方が傷付いている時に、すぐに駆け付けて抱き締められなくて申し訳ない。
貴方と婚約できた時は、自分の王太子という肩書に感謝したのに、今は肩書などなければ良いのにと思う。
レイラ、愛している。早く会いたい。
貴方を妻にできる日が待ち遠しい。』
決して、長くはない手紙。
けれど、ガブリエルの真摯な想いが伝わってくるようで、レイラは瞳を潤ませる。
何度も何度も便箋に並ぶ文字を目で追って、泣き笑いみたいな顔になる。
「私も、あいたいです」
ポツリと漏れたレイラの本音は、部屋の静寂に溶けていった。
レイラは大事そうにカードを持ったまま、少しだけ泣いた。
ガブリエルは、いつもレイラがほしい言葉をくれる。
求婚された時からずっと。
「ガブリエル様のことが、好きです」
数日前に起こった第一王子という元婚約者との接触により、一気に息を吹き返してしまった不安や心配。
しかし、それらを上回る存在感をした温かな持ちが湧き上がる。
レイラは思わず手紙に向かって想いを告げ、切なげにはにかんだ。
愛してるはまだ言い慣れないけれど、好きならば大丈夫。ちゃんと言える。
隣国で過ごした日々を思い出そうとすると、浮かんでくるのはガブリエルのことばかりだ。
早く私を好きになれと言われたこと。
第一王子とのことは全部忘れてしまえ、貴方は悪くない、と言ってくれたこと。
二人で街へでかけて、指輪を買ってもらったこと。
可愛いと、好きだと、言ってくれたこと。
初めてのキスをしたこと。
甘酸っぱくて優しい思い出たち。会えたときの喜び。
抱きしめられたときの安心感。
仮にもう二度と会えなくても、この幸せな記憶達さえあれば、この先もそれなりに頑張って生きていけそうだとすらレイラは思う。
勿論、願わくばガブリエルの隣に在りたいけれど。
それにしても、これはまるで小説に出てくる遠距離恋愛中の恋人達のような気分ではないか。
そして、もしかしなくてもこの手紙は、恋文というものではないか。
そう思うととてつもなく胸が震えて、レイラは一人でドキドキしていた。
(こ、このお手紙は、私の宝物にしなくては……!)
手にしている紙に踊るガブリエルの自筆をもう一度、丁寧に読んで、レイラはその紙を封筒の中に大事そうにしまった。
ガブリエルに忘れられてしまうのではないか、とは、流石にレイラも思っていなかった。
しかし、こんな風に恋しく想ってもらえるとも、思っていなかったのだ。
(嬉しい。好き。大好き)
涙に濡れた頬は、もう乾いていた。
レイラは幸せそうに微笑んで、窓の外を見た。
冬の寒空は青々と晴れ渡っている。
レイラがガブリエルの待つ隣国へ出発する日まで、あと3週間を切っていた。