5.
本編最終話です。
「お疲れさま!」
「お疲れ〜」
未だ熱気の燻る教室に放置されたダンボールの隙間を縫って、ひんやりとした風が通る廊下に向かう。なんとなく、火照った体を冷やしたかったのかもしれない。だが思いのほか窓から差す柔らかい残り陽が心地よくて、今日が夢心地になる。
すれ違った人たちにしばし思いを馳せる。予想通りコンテストは失格になったが、アンコールを先導してくれた上級生に「なかなか良いエンターテインメントだったよ?」と優雅に微笑まれ、むすっとした表情の楓果に「すぐ指に頼るんじゃなくて頭で考えることね」と苦々しげに言い捨てられた。名も知らない、後片付けを中断してひと息ついているのであろう他の生徒たちも、皆どこか浮き立っていた。
財布を片手に自動販売機に降りたはいいものの、何を選んだらいいのかが分からない。以前楓果が、柑橘系の炭酸が好きだと教えてくれたが、奇抜な黄色のレモンスカッシュはあの人に似合わないように感じてしまう。
そのままその左隣を視界に捉えて。そして、不意に理解する。
────これは、楓果からの挑戦状だ。
あの孤高で、孤独な演奏家を、どこまで理解しているのか。それだけを問うだけの問題。
長くはないが短くもなかった練習期間の記憶に交じった、涼やかな音。足下で弾けて光るその水面。
水色のラベルが貼られたサイダー。迷わずボタンを押すと、カタン、と勢いよく落ちてくる。釣り銭口に、十円玉がじゃらじゃらと出てきた。また増えた小銭を財布に流し入れて、構わず外の階段をテンポ良く下る。
「香月!」
小高い丘のようになっている校舎裏の土地に、腰を下ろした晴人に声をかける。
「ああ、お疲れ」
「……ほんとに好きね」
つい数時間前まで弾いていたというのに、まだ大事そうにヴィオラを抱えている。
目測で七十五センチ、晴人の左隣に並んで座り込んだ。それから少し躊躇って、もう十センチほどだけを詰める。
「それは?」
佳音の手元に目を留めた晴人が、ヴィオラを撫でるのをやめて背を仰け反らせた。
「香月よく飲んでるでしょ? 私もなんだか飲みたくなったから」
「貰っていいの? じゃありがたく貰うわ」
晴人が晴れやかに破顔した。その表情からは疲れも見て取れるが、それよりずっと満ち足りたような様子だ。しゅ、と快い音がふたつ重なる。暑い気候でもないのになぜかこの地に根付いているヤシの木が、夕暮れ前の水色とオレンジの入り混じる空にたゆたう。
「やっぱり、これなんだよな」
一口含んで喉を鳴らした晴人が、ふとそう呟いた。それを横目に眺めて、佳音も遅れてペットボトルに口をつける。
幾多もの小さい針が舌に刺さるような、鈍い痛み。その後で、じわりと広がる仄かな甘みと、わずかに残った炭酸が喉の奥で爆ぜる感覚。でも不思議と、それほど甘ったるい後味を感じない。
どさり、と草に倒れ込んだ晴人が、夕焼けの眩しさに手をかざす。
「なあ、内原」
「何?」
「あのさ。弾いてみる?」
まさか、晴人まで今日の雰囲気に酔っているのだろうか。それとも知らないうちに、彼の分身とも言えるその楽器に触れることを許されるほど、佳音は晴人のテリトリーに入り込んでいたのだろうか。たとえ勘違いだったとしても、少し舞い上がりそうになる。
「いいの?」
「だから良いって言ってるじゃん」
「本当に? 後で文句言わないでよ?」
「あーはいはい、言わないから大丈夫」
あしらうような軽い笑みを浮かべて見せた晴人が起き上がって、楽器ケースから本体と弓を取り出す。大事そうに手渡されたそれをどう扱えば良いのかわからなくて、ひとまず膝の上で支える。
四十五センチよりも明らかに距離を詰めてきた晴人が、佳音の膝から弓を取り上げた。
「これは右手で、親指と人差し指を少し曲げて持って、あとは添える感じかな。ちょっとバランスが取りにくいかも」
その言葉通り、一見軽そうに見える弓は意外と重く、油断すると今にもぐらりと傾きそうだ。
「楽器は左手で持って。下にかちゃかちゃ、って鳴る場所あるでしょ? そこに顎のせて」
言われた通りにすると、佳音の心に言葉にできない高揚が生まれた。それからほんの一瞬目を閉じて、今日まで見てきた晴人の構え方を思い返してなぞる。
弦に弓を優しく載せると、晴人が位置を微調整してくれる。触れる温い吐息と体温がむず痒い。
「良い感じ。そのまま弾いてみて」
首を振る代わりに、ゆっくりと弓を自分の方に向けて引く。佳音自身、ヴィオラなんて弾いたことはなんてなかったからノイズが多いけれど、それでも清麗で、優しい音がした。弓をずらして隣の弦を弾くと、高さの違う音がする。それに感嘆する傍ら、取り落としそうになる弓をなんとか指で支える。
「楽しい」
思わず呟いて隣を見上げる。晴人が綻ぶような優しい笑みを見せた。
「俺さ。今まで、俺から自分の音楽を取ったら、何も残らないんじゃないかって思ってたんだ。お堅い楽団とか、楽譜に忠実にとか、楽典とか。そういう不自由さを知らないと本当の意味での自由は得られないっていうのは、分かってたんだけど」
佳音の膝の上で、楽器がふるりと震える。
「俺は音楽で食べていく。所詮、俺もそんなに振り切れた人間じゃなかったんだ。音楽と同じくらい、普段の生活も、このサイダーも、内原との二重奏も失いたくない。俺がもし音楽を失くしても、大丈夫だって思えるから」
まだ冷たいサイダーのボトルを首に当てながらに、その強い瞳は、夕陽より遠い何処か一点を映している。
────やっぱり、遠いことには変わりない。
時間とともに甘みを増すだけの、綺麗な思い出一つを残しておくのでも良かった。むしろその方が正しい。
だがそうはできなかったのは、結局人間本来の欲深さゆえか、己の弱さか、偶然か。何だって結果はひとつだけれど、ただ。
この浮き立つ熱を、染み入る音を、覚えておきたいと思うから。
「……気が向いたらだけど、練習くらいならまた一緒に弾いてあげても良いよ?」
そこそこの確率で実現できるかもしれない、直近の未来の話だけを期待していたい。
「練習だけなんて心狭いこと言うなって」
「……え?」
「いや。実は十二月にミニコンサートの誘い貰ってるんだよ」
断るつもりだったけど気が変わった、とあくびをしながら晴人が言う。
「どこでやるの?」
「……兄貴の友達の親がやってる店。だから最初は受ける気なかったんだけどさ」
晴人の兄。その言葉にいくつかの記憶がフラッシュバックした。
「もしかして、今日アンコールって叫んでくれた人?」
晴人に似た容姿の、より活発そうな一つ上の学年の生徒。晴人が苦々しげに頷く。
「いつも厄介ごと持ってくるんだよ、あいつ。今回の文化祭発表の申込書も俺の名前勝手に書いて出そうとしてたし」
「そ、それは確かにどうなのかって思うわ……」
ということは、今回企画書を押しつけたというのは彼の兄なのか。どちらも押しが強い、というか自分の意見一直線な兄弟の会話を想像すると少し笑えた。
「で? やってくれる?」
そう問いはしつつも、もう決まった事項のように確信を持ってボトルを傾ける晴人の姿に、ふと気がつく。多分最初から、こんなつもりだったのだろう。
「成功報酬としてサイダーを要求しても?」
「そんなもので良いならいくらでも。ついでにアイスクリーム載せてやってもいいよ」
「……文字通りのクリームソーダね」
目蓋の裏で、痛いくらいの青い空が、二酸化炭素が、メロディが。弾けては、消えていく。
夏が、終わっていく。
頭上の空を映したサイダーに、白い雲がほんのりと溶けていった。
これにて本編完結となります!
初投稿に加え、真逆の季節になってしまった本作ですが、ここまでお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。
番外編を1話、近々投稿したい!……と思っておりますが、もう少しかかりそうです。が、もし思い出していただいたときに見ていっていただけたら嬉しいです。
最後に、配布冊子に Special Thanks として掲載した内容を。ただしプライバシーの都合上、個人名は伏せさせていただきます。
音楽考証として、ヴィオラ奏者のUさん、チェロ奏者のIさんを始めとする音楽団体の方々に、大変なご尽力をいただきました。本当にありがとうございました。
また、佳音と晴人の演奏風景を繊細で素敵なイラストで表現してくださった すやすや さまにも。配布の関係上、モノクロでとお願いしたにも関わらず、思わず見惚れてしまうようなイラストに仕上げていただきました(すやすや さまによるイラストは許可を頂いた上でこの下に掲載します。複製、加工等は一切禁じさせていただきます)。
その他も、非常にたくさんの方々にご協力をいただきました。この場を借りて、心より御礼申し上げます。
天城 早雪