3.
教室の掃除を終えたあとの外の渡り廊下で、どんよりとした灰色の雲が横たわっているのが目に入った。朝見た天気予報では雨が降るとは聞かなかったし、家を出たときにはまだ青空が広がっていたのに、と回想する。
突然、さあ、と佳音のそばを駆けていく誰かの風。佳音は無意識のうちに胸に手を当てて立ち止まる。
「おい、早く! 部活始まっちゃうよ!」
「分かってるって。……てか大体こんなに急がなきゃいけなくなったのって海人のせいじゃん」
ユニフォームを抱え、颯爽と風を切るその姿。
どきり、とした。一瞬、本当に一瞬。この頃ほぼ毎日のように顔を合わせているその人と見紛った。
そのすれ違いざまに振り向いて、横顔を見る。似通ったところもあるにはあるが、それより雰囲気は全く別物だ。どう見ても別人なのに、ほんの数秒でも晴人だと思い違いをした自身にひどく動揺した。
室内シューズの色から上の学年だということが分かった。そのまま階段を駆け上がっていくその手で黒い炭酸飲料が暴れていることに目が止まって、他人事のようにその結末が平穏であることを願った。
いつもの練習場所に着くと、そこには幾度か見かけたことのある、他クラスの女子生徒がいた。背の半分ほどまであるのを束ねた髪をたなびかせて座る彼女にどう声をかけたものかと迷いながら歩を進めると、彼女が顔を見せずに話しかけてきた。
「あんたが、内原佳音?」
「うん、そうだけど……えっと、楓果ちゃん、だよね?」
「あたしのこと、知ってたの?」
それはこちらの台詞だ。こんな何の特徴もない佳音の名を、楓果が覚えている方が不思議でならない。
とはいえ、少々ぶしつけな楓果の物言いには若干ひっかかる。
「確か、同じ委員会だった?」
「あー、委員会ね、そんなのもあったわー。まあべつにあんたがあたしのこと覚えてるかどうかなんてどうでもいいんだけど」
クッション性に欠ける可動式スツールに腰掛ける楓果の隣に並ぶべきか、いつも通りピアノの椅子に陣取るべきか。どちらも違うような気がして、結局ピアノの掛け布に手を添えて立ち止まる。
「それは、チェロ?」
晴人の腕の中で歌うその楽器を大きくしたような艶のある木目の楽器が、楓果の足元に横向きに置かれている。
「……そ。あたしの中で三番目くらいに大事な相棒」
三番目。妙にリアルな数字だ。
「マイ楽器持ってる全員が全員、あいつみたいに命に代えても! とか、寝る時も一緒! みたいな奴じゃないんだから」
何も反応を示さなかった佳音を訝しんだのか、楓果が皮肉げに言い捨てた。
既になんとなく察しがついていた。楓果がいうあいつとは晴人のことだろう。どういう関係なのかは知らないが、それなりに深い付き合いではあるのだろう。それで今日の練習に飛び入り参加しにきたとか、そんなところか。
「寝る時も一緒、って?」
かといって晴人が来るまで何も話さないのも客に失礼だろうと思ったので、先の楓果の発言でやや気になったことを尋ねる。
「知ってる? あいつはあの楽器買ってもらったばっかの頃、ベッドのすぐ横に置いとかないと寝付けなかったんだって。ホントは布団の中まで一緒がよかったらしいけど、さすがにそれは落として壊すかもと思ってやらなかったんだって」
異常だ。いや、そういう世界で生きている人たちからしたら異常でも何でもないのかもしれないけれど、佳音には理解できない感性だった。大事なのは分かる。だがそこまで執着してしまうと心配で済むレベルではない。
「それって、何歳くらいの時?」
「凄く昔ってわけでもない。それをあいつが習ってた先生から聞いたのが五年くらい前だったと思うから、それぐらいじゃない?」
五年前。楓果は小学生の頃の晴人のことを知っているのか。色々と突っ込んだことを聞いてみたい気持ちを抑えて、まず目の前の疑問をぶつける。
「今の楽器って、それは身長が大きくなったからとかそういうこと?」
「そんなの見越してちょっとくらい大きめのやつ買うでしょ。そうじゃなくて、ヴィオラ自体、ある程度大きくなってからじゃないと弾けないの。小さい子供用の楽器が作れないとか何かで」
そんなことも知らないの? という風な呆れと矜持を含んだ目が振り返った。佳音の胸の奥にちくりと刺さる。
「四、五歳の頃からヴァイオリンはやってたらしいけど。あたしもその頃のあいつは知らない」
「……チェロって、ひとりで弾いてるの?」
なんだかそれ以上聞きたくなくて、話題を変えた。
「あー、いや。あたしはこの辺の地域でやってるアマチュアのオケ楽団に入ってる。半分以上社会人だけど、中高生も大学生もいるから」
「オーケストラ⁉︎」
「まあね。この辺の会社で社長やってた人が、趣味でお金提供してくれてるみたい」
おかげでたまにその社長の知り合いだっていう下手な楽人の指揮で演奏させられるんだけど、と楓果がかちり、と楽器ケースのロックを手遊びのように開け閉めする。
「まあうちはコンミスがしっかりしてるし。……あ、コンミスっていうのはオケで、ヴァイオリン奏者のなかで指揮者の代わりに指示とか補助とかする人のことね。その下手な指揮してるおじいちゃんが本番ぎっくり腰になったときとか、めっちゃ冷静に指示してくれるから助かる」
おそらく尊敬しているのだろう、剣呑だった楓果の目線が和らぐ。
オーケストラ。そうだ、弦楽器を弾く人ならオーケストラに所属するのはごく一般的なことなのだろう。晴人はそういう意味でも特殊だ。
「あれ、楓果?」
ちょうど晴人のことを考えていたところに、本人のご登場だ。下の名前を呼び捨てにしているところをみると、やはり晴人と楓果は旧知の仲なのだということを印象付けられる。
「最近、ハルがここで練習してるって聞いてさー」
「ああ、そう。……そのあだ名はもう止めろって言ったろ」
晴人が珍しく苦い表情を浮かべる。対する楓果はなんでー、と楽しげだ。
「いいじゃん、ハルも前みたいに『ふー』でいいんだよ?」
「楓果、やめろ」
鋭い刃のような目で晴人が楓果を睨む。これには楓果も驚いたようで、勢いよくスツールを下りる。
「なんだ、つまんないのー。せっかく人が久しぶりに練習付き合ってやろうと思って楽器持ってきたのに。……あ、そっか、さして上手いわけじゃない女の子でも楽器さえ弾ければ良いってこと? ちょっと見ない間にずいぶん落ちぶれたのね」
ピアノを覆っていた黒布が、佳音の指をすり抜けて床に落ちる。
「いいかげんにしろ。……だいたい、俺らの曲を聴いたわけでもないのに分かったような口を聞くな」
晴人が声を上げて強めにまくし立てた。練習以外で感情的になった晴人はおそらく見たことがない。それからはっとした様子で慌てて辺りを見回す。
────そりゃ、私だって分かってる。
楓果が指摘したのは決して愚問ではないということ。技術のある晴人のような奏者が、完全に教養程度の能力しか持たない佳音と組むのは負担になっている筈なのだ。文化祭さえ終われば、佳音は周囲の目からもこの重荷からも解放されるだろう。
それは、望むべきはずの近い未来。
楓果の案ずるまでもなく。その先に期待など、あるわけがない。
「ごめん」
楓果が去ったあとで、晴人が乾いた小声で呟いた。その謝罪の言葉は、何に向けられたものだったのだろう。
「……別に、いいから」
「うん。……始めよっか」
晴人が普段通り開始を促したことに、一抹の懐疑と安堵を覚える。
────こんなにも、心にぱちぱちと冷えた泡が弾けるのは、いったい誰のせいだ。