1.
初めまして、天城早雪と申します。
不慣れな点も多いかとは思いますが、温かく見守っていただければ幸いです。
誤字報告や感想などもいただけたら嬉しいです!
午後四時三十分、チャイムが鳴る。部活動にいそしむ生徒たちのざわめきが、遠くからかすかに聞こえた。その日も無事役目を終えた教室が、廊下の蛍光灯を浴びて淡く光って見える。
昇降口に続く階段を駆け降りて、佳音はどっしりと重たい鞄を抱え直した。
────よりにもよって、駐輪場まで行ったあとで忘れ物を思い出すなんて。
まあでも、傾斜のきつい校内を走り回ったおかげで少しは運動不足が解消されたかもしれない、とポジティブな方向に考えながら息を整えていると、ふと、校舎から耳慣れない音が聞こえた。
靴を履き替える手を止めて耳を澄ますと、案外近い距離で何かの楽器が奏でられているらしいことが分かる。
佳音はそのまま辿り着いた教室のドアを細く開けて、中を覗き込んだ。
まず目に飛び込んできたのは、白いワイシャツに九分丈のスラックス、ヴァイオリンを構えた男子生徒の後ろ姿だった。薄明るい教室に浮かび上がるようにして、こちらに気付く様子もない。
佳音は思わず耳をそばだてて、そっと目を閉じる。
それは、どこまでも澄んだ空だった。少しずつ、少しずつ青に染まってゆく朝の空のような、それでいてどこか懐かしい感じのする、心地良い妙音。
ヴァイオリンのことはよく知らないけれど、落ち着いた音域で奏でられるメロディは、なぜだか薄い青空を連想させる。
「何してるの」
気づいたらもう曲は終わっていた。つい先ほどまで美しい音を奏でていたそのクラスメイトが、佳音を怪訝そうに見つめている。
「あ……。
ごめん、あんまり綺麗だから聴き入っちゃって。
忘れ物を取りに来ただけなの」
練習の邪魔をしてしまった。口早に言い訳めいた弁解をする。
「忘れ物って、これ?」
自分の机を覗き込んだところで突然掛けられた確信を持った声。
振り向くと、一度通り過ぎた彼の右手に一冊のスケッチブックが握られていた。
「そ、それは、」
「……違う?」
どうしてそれを。やや年季が入って裏表紙の外れかかったそれを受け取ろうと手をのばして、
────その寸前、「ちょっと待って」と躱された。
弾いていた弓を左手に持ち替えてスケッチブックを開くまでの流れの素早さに身をまたたかせていると、彼が顎に手を当てながらそれを物色し始める。
「ちょっと、返してよ」
「うん、……あー、ごめん何さんだっけ?」
ほぼ面識のない人に対してそれはないだろう、と言ってやりたい。だが、まだ同じクラスになってふた月ほどもたっていないし、ただでさえ影の薄い佳音のことを覚えていないのも、まあ仕方がない。
「内原佳音だよ」
「へえ、よろしく。俺は香月」
知っている。香月晴人。ほっそりと長い手足を持ちながら、教室の最前列で体を縮めている姿はいささか異彩を放っていた。
「内原って、ピアノ弾くんだね」
じっとりとした、まるで興味を持ったと言いたげなその口調に、思わず背がぞくりとした。
「う、うん。
あ、でも香月くんのヴァイオリンの足元にも及ばないっていうか。
なんとなく続けてきただけで」
「ああ、これ、ヴァイオリンじゃない。
ヴィオラだよ」
「あっ……ごめん」
大事な大事な自分の楽器を間違えられていい気持ちのする人はいないだろう。自分の楽器はおろか楽器ケースにすら他人に触れられるのを嫌がる演奏者もいるくらいだ。
そっと表情を伺うと、「別に、慣れてるから」とそっけない答えが返ってきた。
確かに言われてみれば、ヴァイオリンにしては若干低めの音、合唱でいうアルトに近い音だ。楽器本体もやや上部が大きいと聞いたことがあるが、傍目には分からなかった。
佳音がピアノを辞めなかったことにたいそうな理由があるわけではない。
ただ辞める機会を逃してきただけで、佳音自身、ピアノは嫌いではないけれど特別好きというわけでもなかった。だから自分の演奏技術が極めて一般的、むしろそれより少し下に位置することくらいは知っている。
でも、晴人の音は、もう、そんなものじゃない。同じ音楽を嗜む身であっても、天と地ほどの距離がある。
模範演奏じゃなく、誰かの真似でもない、独自の世界観を持っていることがひしひしと感じられる音。
「クラシックを弾いたことは?」
晴人がさも当然の世間話のように尋ねる。分かりきってはいたことだけれど、そう表立って聞かれると技術の差を突きつけられたようで空しい。
「さすがに、あるよ。
ランゲ、パッヘルベル、ベートーヴェン、ショパン。
リストも少し」
「そう」
今までに弾いた曲の作曲者を思いつくまま挙げてはみたけれど。正直、作曲者の作風や何かがどう違うのかはよく知らない。
だが晴人が神妙な顔をしつつも頷いたので、間違ってはいないと思いたい。
「九月に文化祭があるじゃん。
その有志発表で一曲弾いてみろって企画書押し付けられたんだよ。
あんま気乗りしなかったけど、断れなくて」
文化祭といえば、毎年恒例のあれだろう。希望する生徒がなんでも────本部に企画書を受理されたものに限るが────屋外の特設ステージで発表できるという企画だ。
晴人に声を掛けた人、おそらく本部役員か企画担当者あたりだとは察せられるが、ともかく当たりだ。こんな稀有な才能を、大勢に知られないまま埋もれさせるのはもったいない。
「前から弾いてみたかった曲があって。
一応他人に聞かせるものだからちゃんとした楽譜がないと、って思ったんだけど、無伴奏の楽譜が見つからなくてさ。
でも丁度良いから、やってみたい」
無伴奏楽譜がないから、やってみよう? 誰か伴奏ができる人を探すということか。
「内原、伴奏頼める?」
晴人の言葉を反芻するのも待たずに。文字通り、心臓が跳ねた。
「あの。私、下手だって言ったつもりなんだけど」
おずおずと晴人の方を見やると、強い意志を帯びた切れ長の茶目と視線がぶつかった。
「上手いか下手かっていうのは問題じゃない。
……簡単だよ、同じクラスの方が連絡とか楽じゃん。
あと変に勘繰られないし」
「そういうこと?」
そんな短絡的に決めてしまって良いものだろうか。
「もう少ししたら企画書出さなきゃいけないし、早めに決めて練習したいんだよ」
それは確かにそうだ。
合奏は一朝一夕でできるものではない。個人練はもちろん合わせを上手いこと組み入れなくてはならないし、今回は伴奏とはいえある意味デュエット(二重奏)だ。二種類の音しか響かないだけにごまかしが利かない。二人の奏者がぴったりと息を合わせる必要がある。
果たしてそんな大役が自分に務まるだろうか────やっぱり数日間よく熟考して、それから判断した方がいいんじゃないか────。
「じゃ、そういうことで。
譜面は今度渡すから」
「え、あ、うん────え?」
突然の展開に脳がついていかず、少しの間呆然としていた。当の本人である晴人は言いたいことだけ言って佳音を混乱させたまま、ヴィオラの弓のねじを調節し始める。
────はっきりと了承したわけでもないのに、ずいぶん勝手な言い分をしてくれるものだ。
対抗するように、佳音も素知らぬふりで教室を出る。
でもついさっき、ワイシャツ越しにぴんと張られた肘と肩が、なんとなく寂しげに見えた気がして。
「全く、何てことに巻き込まれちゃったんでしょうね……」
一人廊下で呟いた佳音の独り言は、泡のように弾けて、消えた。