完全犯罪編 【R15】 (推理)
【R15】です。やや残酷な表現と人が亡くなるシーンがあります。
※作中に出てくる『塩化ナンゾニウム』は架空の薬品です。ですが良い子の皆&良い大人の皆様は決して真似しないで下さい。
「あれ? これちょっとしょっぱすぎない?」
妻が不審に思わないよう敢えて自分から言ってみたのだが、これは失策だった。
妻、由未子は俺の言葉に味噌汁を一口飲み、眉間に僅かにシワを寄せた。
「……本当だわ。いつも通りに作ったのに……? 飲まなくて良いよ、作り直すわ」
由未子がお椀を片付けようとするので、俺は内心の焦りを表に出さないように必死に取り繕う。
「いやっ! 大丈夫だよ! ほら、ご飯と一緒に食べれば平気だしさ、作り直してたらせっかくの料理が冷めちゃうよ!」
「……そう? まぁそうね。今日は久しぶりにご馳走だし」
腰を浮かせかけた妻がまた椅子に座ったのを見て、計画が破綻しなかった事にほっと胸を撫で下ろす。
このチャンス、千載一遇のチャンスが次にいつ来るかわからないからだ。
先程、妻の愛犬がリビングのテレビ棚の所でイタズラをした為に妻は慌ててキッチンを離れ、俺に「鍋を見てて」と言ったのがそのチャンスだった。俺は前々から準備していた『塩化ナンゾニウム』という薬品を5g、味噌汁の鍋にそっと溶かしたのだ。
勿論味に異変は起きるが、塩化している塩気の方が強いから本来のナンゾニウムの味は誤魔化せる。
また、もともと塩化ナンゾニウムは食品添加物にも使用されているものなので、ネットショップでも購入できるし0.1g程度の微量なら人体には全く影響がない。
今、味噌汁のお椀に入っている一人あたり2.5gという量は適正量の25倍だ。明らかに過剰摂取になる異常な量だが、それだけでは死に至らない。
せいぜいナンゾニウムの成分を肝臓が無毒化するのに大きな負担がかかって、ちょっと気分が悪くなる程度だと書いてあった。
だから、ここまでは殺人ではない。
俺は今から行う完全犯罪を由未子に覚られぬよう、一世一代の演技を続けた。
「なあ、結婚記念日の祝いなんだからさ。これ、開けて飲まないか?」
俺は結婚した時に買ってずっと保管していたワインを出してくる。
「あら、良いの? これ高かったのに」
ワインに目の無い由未子が嬉しそうにするのは想定内だ。俺はワイングラスを二つ用意し、俺のグラスには一口ぶんだけ、妻のそれにはなみなみとワインを注いだ。
濁った血の海のような赤いワインをグラスの中で回して空気に触れさせ、香りを嗅いでうっとりとする妻。
この顔とも今日でおさらばだと思うと、自然と良い笑顔で乾杯できる。
「ああ、美味しい……。ほら、あなたも飲んで」
「いや、俺はどうせ味がわからないから一口で良いんだ。いつものこっちを飲むよ」
俺は普段まとめ買いしている一本500円くらいの激安ワインを開け、手酌で飲む。
葡萄の皮の渋みが舌に残るうちに料理を食べ、味噌汁を飲んだ。
「ああ、味噌汁は濃くて良かったよ。ワインのつまみだと思えば旨い」
「そう……?あら、悪くないわね」
自然な雰囲気で味噌汁を薦めて飲ませる。俺自身同じ味噌汁を飲んでいるから疑いもしないだろう。いつもの妻の表情だ。
「今年一年、色々あったけど……こうして仲直りして記念日を迎えられて良かったわ」
由未子が言う。当てこすりをされた気がしてイラッとしたが、それも今夜までだとグッと腹に納めて笑顔を作る。
「それは俺が悪かったって。もう言うなよ」
「そうね。……ごめんなさい」
色々、とは俺が今年の春、マッチングアプリでちょっとした浮気をしていたのを妻に見つかったのだ。
本当にちょっと、一回会っただけだ。それなのに由未子は錯乱してうちの両親にまでバラした。
お陰で俺は実家でも針の筵に座らされた気分だったし、今でも時々夫婦仲良くやってるのかと聞かれる。俺はその度に浮気を許してくれた妻に感謝するフリをしなければならない。
おまけにアプリもアンインストールさせられて、今も定期的にスマホをチェックされている。まるで全くの自由もない囚人だ。
……まあT●itterの裏アカウントまではバレてないがな。毎回ログアウトしているから。
でもマッチングアプリとは違ってなかなか会うまでは行けずストレスが溜まるばかりだ。
相互フォローしている中でも一番のお気に入りの人妻の『サエ』ちゃんに会わないかとダイレクトメッセージを送ってみたが無視された。
が、その翌日にこんな呟きが投稿された。
『サエ、旦那君のソクバクが激しくてつらすぎ~☆自由になりたいょ~』
『旦那君にサエのお味噌汁がマズイって言われたぁ~死にたぃ~』
『「自殺 味噌汁がしょっぱい」で検索したら、なんかホントにお味噌汁で死ねる方法書いてあってウケる~☆』
それを見て、なんとなく検索してこの方法を知った。その瞬間に閃いたのだ。もう愛情も何もない、束縛する妻から逃れる方法を。
後はいかに由未子の死後、俺が疑われないか手順を考えれば良いだけだった。
リビングのテレビの横には遠隔監視カメラがある。
共働きの俺たちが日中家を空けている間に愛犬が無事か見るためのものだが、リビングから食卓までカメラには写る。さらに最大24時間前まで録画保存も可能だ。
そしてこの録画に音声が含まれるか設定を選べるのだが、今は音声をオフにしている。つまり、俺が積極的にワインや味噌汁を飲んで見せつつ、口ではそれらを由未子も飲むように薦めている事は後で録画を見てもわからないように振る舞っているのだ。
そこにはいつも通りの夫婦の食卓と愛犬が写っているだけだ。
由未子は旨い旨いと高級ワインを飲み、俺にも薦めてきた。俺はそれを回避するために手酌で安物のワインを一本空けた。
流石にちょっと気分が悪いが、妻はもっと気分が悪そうにしている。
「大丈夫か?もう寝ろよ」
「うん……ありがとう」
妻がフラフラと寝室に向かったのを見て、遠隔カメラに写らないように気を付けながら共用のパソコンの電源を入れる。
以前パスワードをかけて、ダミーのフォルダに隠しておいたテキストファイルをデスクトップに保存し直す。
中身は遺書だ。『今年の春に夫婦関係にヒビが入り、修復しようとしたが私がどうしても耐えられなかった。心中も考えたが直前に相手を巻き込むのは不毛だと気づいた』という内容が既に打ち込んである。ファイルを開き、最後に今日の日付と『由未子』と打ち込んだ。
「これで終わりだ……フフ……フ……」
満足して笑みが漏れる。が、呼吸が浅く苦しい。やっぱり塩化ナンゾニウムの影響か。しかし俺は安物のワインを飲んでいるから死にはしない。
「自殺 味噌汁がしょっぱい」の検索上位の結果にはこう書いてあった。
『味噌汁に塩化ナンゾニウムを2.5g混ぜれば、少々の違和感で簡単に飲むことができる。
そのままでは体調不良程度で死ねはしない。だが同時に亜硫酸塩とアルコールを摂取すれば、肝臓の解毒機能が亜硫酸塩により鈍くなり、アルコールとナンゾニウムの混合急性中毒症状を引き起こす。
お勧めは高級ワインだ。亜硫酸塩は酸化防止剤として、高級なワインほど多く含まれる。逆に安物のワインはほんのちょっぴりしか添加されていないのでワインボトル一本丸々飲んでも死に至らない。』
ワイン好きだが普段は安物で我慢している妻が、最後の晩餐を記念日と決め、結婚の記念の高級ワインを飲んで自殺する。俺を巻き込むのは直前で思いとどまり、安物のワインを飲ませた……という筋書きだ。
塩化ナンゾニウムは食品庫に保管した。俺がネットで堂々と買っているが「料理とワインが好きな妻に料理で使うから買ってと頼まれた」と証言すれば辻褄が合う。
これで明日の朝、死んだ由未子を見つけて慌てたフリをしながら救急車と警察に通報すれば良い。
……しかし頭が痛い。遺書をあらかじめ準備しておいて良かった。俺は自分のベッドに潜り込んだ。
由未子が隣のベッドで身動ぎをしたように見えたが、もう俺は頭痛と睡魔に抵抗できなかった。
◇◆◇◆◇◆
「うん、どう見ても自殺だな」
翌日、現場検証をした二人組の刑事はそう結論付けた。
鍋に僅かに残った味噌汁や、ワインボトルもそのまま片付けずに食卓に残してあるから回収して鑑識に回さなければ確定できないが、遺書にも味噌汁に入れた薬品とワインの飲み合わせで自殺するときちんと書いてある。
通報してきた配偶者も体調不良を訴え、今病院で検査を受けている。おそらく味噌汁に盛られたのと同じ薬品が検出されるだろう。
おまけに確たる証拠として遠隔カメラの録画が残っていた。
犬がこちらに来てカメラを覗き込む。飼い主である妻が慌てて犬の方に来る途中、夫に何かを言った。次の瞬間に犬がイタズラをしたのか、カメラの角度がほんの少し変わる。
カメラはキッチンまで写し、自殺した夫が鍋に何かを入れた瞬間を残していた。
その直後カメラの角度がおかしいことに気づいた妻が角度を直し、その後の食卓の様子も写っていた。
妻は普段通りのようだが、夫は若干挙動不審な動きを見せている。
「んー、この遺書の最後の所だけ、ちょっと微妙ですけどね」
遺書の最後に、日付と『由未子ごめん』の文字。
「まあ、この遺書のファイルの保存時間を見れば完全にワインを飲みきった後だ。フラフラしながら打ったんだから文脈がおかしくても不思議はないな」
「いや、前半は丁寧でしっかりした文面じゃないですか」
「大分前から自殺を計画してた雰囲気だからな。多分遺書も用意してたんだよ。後半だけ昨夜打って上書き保存したんだろ」
「ああ、なるほど……」
◇◆◇◆◇◆
由未子は泣いていた。夫を想っての涙である。
「あなた……何故、思い止まってくれなかったの……」
本心から溢した言葉と涙に、由未子の周りの人間は深く同情を覚えた。
しかしその言葉の意味するところは、周りの考えとはいささか違っていた。
彼女は夫を試した。捨てアカウントを作り、いかにも夫好みの女性の写真を見つけ、無断転載して『サエ』と名乗った。
「自殺 味噌汁がしょっぱい」等という変わったキーワードで検索できるページなど殆どないから、本物っぽいWebサイトを作って、幾つかのネットカフェから検索してそのWebサイトをクリックすれば検索上位にすぐ上がるようになった。
そのWebサイト内に、一点だけ間違ったことを記載した。
実はワインの酸化防止剤である亜硫酸塩は、高級ワインほど少ししか添加されておらず、大衆向けの安物のワインは多く使われている。
安物のワインが悪酔いしやすいのは、亜硫酸塩がアルコールの代謝をする肝臓の働きを鈍くするから……と言われているのをワイン好きな由未子は昔から知っていた。
Webサイトには実際と逆の記載がされていたのだ。夫がそのページを閲覧してから、正しい情報に修正済みである。
夫がその修正に気づいて……いや、気づかなくとも由未子を殺すことを思い止まってくれたなら、由未子は許すつもりだったのだ。
ワインに含まれる亜硫酸塩について
古代から伝わる食品添加物です。
大衆向けの大量生産される安物のワインに多く含まれるのは事実ですが、高級か安物かに関わらずワインに含まれる程度の量では人体には影響はないというのが多くの人の見解で、私も同じ見解です。
亜硫酸塩を悪者にする意図はなく、あくまでもフィクションとして、架空の薬品『塩化ナンゾニウム』をあり得ないほど大量に、かつ同時に亜硫酸塩とアルコールの摂取をすると危険だという"設定"だとご理解下されば幸いです。
お読みくださりありがとうございました!