流離いの旅人編 (純文学)
「ん? しょっぱ……すぎる?」
味噌汁を飲んだ俺の言葉に、間髪入れず妻の声が返って来る。
「それはおかしいわ。ちゃんといつもの味噌、いつもの分量で作ったんだから」
妻はサッと冷蔵庫に向かうと、タッパーを取り出して見せた。中には俺の母親が手作りした味噌が入っている。
「これをきっちり大さじ1.5杯。出汁もいつもの鰹と昆布よ」
「……いや、飲んでみろよ? いつもと違うから」
妻は不満げに一口飲み、口がへの字になる。
「確かに……言われてみればすこーし、違うかも? よくわかったわね」
「だろ!?」
俺は家庭の味噌汁だけには一家言を持っている。
今時、鰹と昆布の併せ出汁を取るなんて手間も金もかかる贅沢だとわかってはいるが、結婚当初に「毎朝味噌汁だけちゃんと作ってくれれば、他のおかずは納豆と漬け物でも文句は言わない」と俺は妻に言った。
そしてこの3年、妻も俺もその言葉通りの行動を取っているのだ。今朝の食卓は白いご飯と味噌汁、納豆と梅干しだけが乗っている。
「じゃあ味噌か? それ、さっき新しいの出したよな」
「先週お義母さんが送ってきてくれたのよ」
俺は母親に電話をする。
「はいはい~、ヤス?どうしたの?」
「なぁ、今回送ってくれた味噌で味噌汁飲んだんだけどさ」
「うんうん」
「なんかいつもよりしょっぱくない?」
「あ、わかっちゃった? ごめんね~。今回作る時にいつもの材料が揃わなくて~。そのぶん、お塩をいれちゃった~」
電話の向こうであっけらかんと母親が言う。くそっ。
「そういうことは先に言えよ!」
「はいはい。ごめんね~」
乱暴に電話を切り、顔をあげると妻が渋面を作っていた。
「ちょっと今のは無いわぁ。いつもお義母さんにタダでお味噌を送って貰ってるのに、お礼もナシで文句言うなんて」
「……いいんだよ。親子なんだから」
そうは言ったが、後々考えてみると妻の方が正しい気がした。
確かに味噌を作るのには材料費も手間もかかるのに、俺の態度はいかに親子と言えどいささか失礼だったかもしれない。俺は母親の携帯にメッセージを送る。
『さっきはごめん。いつもありがとう。今度、良い大豆と塩を送るからそれで味噌を作ってよ』
あれから2か月。
俺は今、アフリカのマリ共和国に居る。
そして現地の人たちと一緒に汗水を垂らしながら岩塩を求め地面を掘っていた。
あの後、どうせなら最高の大豆と最高の塩を手に入れて母親に送ってやろうと考え、色々調べてインターネットサイトをあちこち流離った。結果、ここのT村で取れる岩塩がとても希少で、日本ではなかなか手に入らないと知ったからだ。
俺はネットではなくその身で世界を流離う事にした。旅の手配をし、言語を勉強して旅立ち、現地で交渉して、作業を手伝う事で最高品質の岩塩を少しだけ分けて貰う約束を取り付けた。
全ては最高の味噌を作るためだ。
容赦なく照りつける太陽がチリチリと俺の肌を焼く。辺りには地面を掘るシャベルの音だけが蔓延する。普段は陽気な筈の男たちはほぼ無言だ。
余計な事を喋れば口から唾液が蒸発するからだ。ここでは飲み水は貴重。望めばいつでもガブガブと喉を潤せる日本とは訳が違う。
やがて地面を掘るシャベルの手応えが変わったのがわかった。思わず顔をあげ一緒に作業をしていたボニさんと目を合わせる。ボニさんは嬉しそうに頷き、周りの男たちを手招きで呼んだ。
全員で手応えが変わったところを広く、丁寧に掘っていく。暫くして岩塩の地層が現れた。
「やったな! ヤス!」
俺とボニさんはハイタッチをした。
翌週。
俺は山形県に居た。
流石にアフリカへの旅で有給休暇を使い切ってしまったので、今回はリモートワークで仕事をしながら、ある大豆農家に住み込みで働かせて貰っている。報酬に最も良い出来の大豆を分けて貰う約束だ。
全ては最高の味噌を作るためである。
「ふんしょっ」
俺は枯れた豆の木を畝から引き抜く。一般に卸す物とは違い、この畑だけは完全無農薬でわずかに生産している特別な豆だ。一粒の取りこぼしも無いよう、機械ではなく手で豆を収穫する。
乾いたさやを開くと中にははちきれんばかりに豆が詰まっていた。丸い大豆はまだほんの少しだけ潤いを持っているように照りを持って黄色く輝いている。
これがあれば理想の味噌が作れるだろう。
しかしここまで拘ったのなら、究極の味噌を追求したい。
「次は……麹だな」
俺は麹を求めてまた、流離う。
全ては最高の味噌を作るためなのだ。
「ただいま」
岩塩と大豆と麹の詰まった鞄を玄関に置いた俺に、妻はご機嫌でこう言った。
「お帰りー。やっと帰って来たね。手を洗って座って待ってて」
彼女は台所に引っ込み、やがてニヤニヤしながら味噌汁の椀を持ってきた。
「ちょっとこれ飲んでみてよ」
椀の中に入った味噌汁の湯気を頬に感じながら口に含むと、味噌と出汁のうまみが舌の上に広がった。
「ああ~、やっぱこの味だよ。久しぶりだなぁ」
俺がしみじみとそう言うと、妻はニヤニヤから笑いを堪えられないといった風情になった。
「ふふっ。それさぁ、こないだのしょっぱかった味噌を使ってるんだよ?」
「え? 嘘だろ?」
俺は思わず左手の椀を見つめた。味噌汁は赤い椀の中で対流し、水面近くまで上がってきた味噌は駱駝色の雲を生み出している。まるで小さな惑星の表面を眺めているようだ。
この味噌汁は、あのしょっぱかった味噌汁よりもマイルドで旨味が強く、今まで慣れ親しんだ母親の手作り味噌の味がする。
「くっ……ふふふっ、実はそれ、味噌を少し減らして『味な素』を入れたのよ」
「『味な素』って……あの、旨味調味料のか?」
妻は遂に笑いだした。
「あはははっ! お義母さん、いつも味噌に『味な素』を混ぜてたんだって!」
「えっ!!」
「アナタが小さい頃、味噌汁が美味しくないって言うから……くくっ……や、ヤケクソで味噌に『味な素』を混ぜて出したら、凄く美味しいって……ぶくくっ……そ、それからずっと……あはははは!」
妻の笑い声をBGMに、俺は約3ヶ月前の母親の言葉を思い出す。確か「今回いつもの材料が揃わなくて」と言っていた。……あれは旨味調味料を切らしていたという意味だったのか。
「ひいっ……信じられないぃ……あんなに、味噌汁に拘って……出汁も……くくく……ちゃんと取れって……言ってたのにぃ……ぶふふふっ……『味な素』が足りなかっただけなんてぇ……あひゃひゃひゃ!」
妻は文字通り笑い転げ、涙まで出ている。
俺は味噌汁を飲み干し、お椀をキッチンの流しに置くとこう言った。
「そっか。教えてくれてありがとう。じゃあ、また暫く留守にする。宜しくな」
「……えっ?」
帰って来たばかりで荷解きもしていなくて丁度良かった。俺はそのまま荷物を持って家を出ようとする。後ろからドタバタと妻が追いかけてきた。
「待って……また出掛けるの!? なんで!? 笑ったのが気に触ったのなら謝るから!」
「なんで……って。材料が増えたから」
「は!?」
何故か妻は呆然としていた。おかしいな。俺がこの3ヶ月間、究極の味噌の材料を求めて各地を流離っていたのを、誰よりも理解してくれていたのは妻なのに。
本当に妻には感謝している。
「さて。次は沖縄か」
旨味調味料は、確かサトウキビの汁を発酵させて作る筈だ。
俺は最高のサトウキビを手に入れるべく、沖縄に向かうことにした。
全ては最高の味噌を作り、食すためにある。
うまみ調味料はね。やみつきになるからね。しかたないよね。うんうん。
お読み頂き、ありがとうございました。