心の魔法
ミチコは私の額に右手を置き、短い詠唱を行った。普通、抗うつ剤などが効いてくるまでには二週間から一ヶ月かかると言われているが、魔法は瞬時にその効能がでてしまう。
これも、私にとってはとてもキツイ。突然、真っ暗な部屋から、雲ひとつない晴天の路上に連れ出されたようだ。
「う、うくっ、うっ」
私は右手で口を押さえ、急いでトイレに駆け込んだ。なんとか食べていた少量の食事は、吐瀉物となって便器に消えた。
「ひ、ひどいわ。最悪の魔法ね。これ」
「ごめんなさい。分かっていたのよ。気力が戻り、ちゃんと思考が働けば、忘れたい記憶も蘇る。直視せざるを得なくなる。これは、とても残酷な魔法。でも。一ヶ月も部屋に引きこもり、日に日に、やつれていくルナを見てられなかった」
「一ヶ月? え、そんなに時間が経っていたの?」
「ええ。そうよ。ごめんなさい。これは私、私たちの我がまま。この魔法、今後、決して使うことはないと思うわ。貴女だからこそ。貴女を愛しているからこそ使ったの」
申し訳なさそうに下を見ていたミチコは、真っ直ぐに私を見つめ決然とした顔で続けた。
「愛することって独善的で独りよがり。貴女の気持ちなんて関係ない。私は貴女を失いたくなかった。ただ、それだけ。本当にごめんなさい」
そう言って、ミチコは私を優しく抱きしめた。
「いいえ。一ヶ月もみんなに心配をかけていたなんて。こちらこそ、ごめんなさい。それすらも考えることができなかった」
ああ、そうなのだ。そんなことすら気付けずにいた。
「そうね。きっとこの傷が癒えることなんて一生ない。私が死ぬまで血を流し続けるのでしょう。だからといって悲劇のヒロインを気取っていても、何も解決しないし、誰も喜ばない。ありがとう。元の私に戻してくれたミチコに感謝するわ」
ミチコのショック療法で、私は一応「普通」に戻れたようだ。辛く苦しい自責の念、悔恨の念は決して消えない。強制的に直視させられる分、その厳しさが増しているようにすら思える。
だけど、人は誰しも仮面を被って生活している、という側面があることも否めない。なんとか外面だけは取り繕えた。一週間後、私は簡単な冒険者ミッションなら、こなせる程度にはなっていた。
周りは、私が無理をしていると感じて遠慮していたようだが、その気遣いも日を追うごとに薄れていった。大きかったのはタマコの存在だ。ミチコ、パートナーとは愛情を示す角度が違うと表現すればいいだろうか。
我が子が与えてくれる癒しは何物にも代えがたい。彼女を抱きしめるだけで、少しだけ、ほんの少しだけだが、心の傷口が小さくなるように感じる。
もちろん、ミチコやタマコだけではない。リベカもエドムもジャムもリリスも……。すべての人たちが私を支えてくれた。少しずつ私の心は快方に向かっていった。
「なぁ、ルナ。やっと、ご飯、二人前食べれるようになったなぁ。よかったなぁ〜なんて、安易なことは言うつもりはない。そやけど、安心したわ」
「そうだ、今夜、久々に海豚亭へ行きませんか?」
「いいわね」
「そうね。もう半年も行ってないかしら」
「是非、行きましょう!」
五人、いや、早めに帰るとしてタマコも同伴することにしたので、六人は冒険者酒場の暖簾を押した。
「ル、ルナ。大丈夫なのか? 噂は聞いていたけどな」
「野暮なことは言わないの。おかえりなさい。ルナ。あら、そちらがタマコちゃん?」
いつもの指定席にリリスがいた。
「はい。フヨウから来ました。よろしくお願いします」
「お、ミチコ姫二世かい! よろしくな」
「マスター、久々にサラトガクーラーを。あ、タマコにもね。ジンジャー少なめで」
ああ、何があろうとも。家族は仲間はいい。そうか。忘れていた。甘えることを。自分の弱さに向き合うこと。そう。いいんだ。タマコにさえ、甘えていいんだ。
「皆さん、いろいろご心配をおかけしました。なんとか立ち直れたのは。って、もういいよね。一曲聴いてくれるかな?」
今まではギターでコードを弾いて伴奏するだけだったが、アルペジオでメロディーラインも弾く練習を密かにやっていた。まだまだ虚勢を張っていたけれど、この程度のお返しはしないと。
で、例によって著作権切れ名曲「ムーンライト・セレナーデ」。
♪〜
I stand at your gate
いつも、私は、貴女のそばに
……
The roses are sighing a moonlight serenade.
貴女の吐息は薔薇の香り
The stars are aglow
And tonight how their light sets me dreaming.
星は瞬き、今宵、私を夢の国に誘う
……
A love song, my darling, a moonlight serenade.
貴女に送るラブソング、宇宙で一番愛しい人へ❤︎
〜♪
グレンミラーのトロンボーンが有名だけど、ギターソロもなかなかよいよ。ネットを検索!
本当に酷い魔法といえばそうだし、ミチコが躊躇うのはよく分かる。だけど、悪魔に立ち向かうのは、それも含めて覚悟が必要だってことよね。やっと、そう思えるようになってきたわ。
心の病への対処は、周りの人の協力がとても重要です。中の人も家族や友人に随分助けられました。そこまで酷くなくて、SOSを出せる程度だったという点も大きいですが。
まったぁ〜昔、昔の曲ですが、ジャズの定番としてのグレン・ミラーは、結構、好きなんです。たまたまYouTubeでギターバージョンを見つけて。え! これ、いいじゃん! 訳詞は、漱石の「月が綺麗ですね」級意訳、というか、ルナ→ミチコをイメージしています。




