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ヨアソビ  作者: 良正儚
3/4

Chapter1 ひとりかくれんぼ

既に中途半端な二話が投降されていますが、こちらはまだ途中までです。

そのうち書き足します。

 私が記憶を失ってから一週間が過ぎた。

 

 じりりりりり! とどこか間の抜けた、けたたましい音が部屋に鳴り響く。

 スマホのアプリを目覚まし時計にする生活にも慣れたものだ。

 ただこのアラームはあまりにもイライラするので、同じボリュームで何か良い曲や音楽がないか探そうといつも思うのだが、その使命を思い出すころには、既にこの音を聞く羽目になる朝を迎えている。

 ……うるさいな、と思いながらもノロノロと体を動かし、毛布の中で少しづつパジャマ代わりのジャージを脱ぎだす。

 アラームアプリをオフにするために指紋認証させなくちゃいけなくした馬鹿どこのどいつだよ、私だよ。

 ゼロ秒でセルフ突っ込み終わらせて、ようやく音が鳴りやむ。

 一月二十五日、火曜日、七時六分、……出勤時間まであと二十四分しかないけれど、出勤時間は破るものだってばっちゃの知り合いが言ってたから、多分大丈夫。はい馬鹿。ゼロ秒セルフ突っ込み。

 時折体が毛布からはみ出て少し寒い。

 少しでもはみ出ないよう四苦八苦しながらどうにかジャージを脱ぎ切り、中で下着姿となったまま腕だけを昨夜セットしておいた自分が今日着る服に手を伸ばす。

 ――スカッ

「ん?」

 手が空を切った? おかしいな。確かにここら辺に……。

 仕方ないので顔を寒い毛布の外に出して、枕もとに視界を張る。

 やはり、ない。

 昨日置いたという記憶は、勘違いだったのだろうか?

 うーん、私はよく忘れ事はするけど間違った記憶を思い出すことはあんまりないと思ってたんだが、と自分の脳内で愚痴りながらジャージの下だけ履きながら外に這い出る。

 やはり三月は春と呼ぶには寒過ぎるという事実を痛感しながらノロノロとベッドから立ち上がり、ベッド周りを上から改めて見渡すが、やはり着替えはない。寝ぼけて飛ばしたというわけでもないらしい。

 ともかく今日は普通に平日なので時間のあるうちに探さなければいけないだろう。

 タンスは私の部屋にないので、いつも着替えのストックは、洗濯された後に角ハンガーに大体服はぶら下がったままになっている。

 リビングを経由して物干し場に行こうと自室のドアを開けると、なぜ私の服が姿を消したのかという謎が解ける。

 

 彼女は私リビングの食卓用テーブルの上で、私の服にクレヨンで落書きを施していた。

 

 テレビを見ながら手元の赤のクレヨンを私の鼠色のシャツの上でぐちゃぐちゃと走らせている。

「…………」

 少し絶句。

 あまり時間をかけないよう気を付けて声をかけることにする。

「何の絵を描いているんだ?」

 問いかけてみる。

「…………」無言。

 だが目は雄弁に語りかけてくる。

『今オデン・オブ・ザ・デッドがいいところだから黙って』と。

 初登場のセリフがそれでいいのかと思ったが、まあまだ声になってないからいいかと思い、勝手に彼女がどんな絵を描いたのか覗き込むことにした。

 ――はて、絵画の絵師とキャンバスの持ち主、所有権はどちらにあるのだろうかと思いながら。

 

 …………。

 見なければよかったと思いながら、江津緒(えずを)市の可燃用のごみ袋を新たに用意することにした。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

『全部夢だったんだよ!(棒)』

『な、なんだってーーー(棒)』

『……全てはオデンの見ている夢でしかないということか』

『それじゃ俺が食べさせられていたあのアツアツの三角こんにゃくは一体……?』

『それはタピオカだ』

 

 …………。

 なんなんだろうな、あのB級映画。

 タイトルは『オデン・オブ・ザ・デッド』。

 ちょくちょくあのディスプレイで再生されているのを遠目で見るくらいで、まじめに見たことは一度もない。

 一応ホラー映画で、熱々のおでんを拷問で食べさせるシーンのリアルさが売りらしい。

 ちなみにその売りのシーンは、今食卓の上にいる変なのが何度も巻き戻しして見ていたので私も見たことはあるが、上手い棒読みと美味そうながんもどきしか印象に残らなかった。

 言っている意味が全く理解できないのは確かに不気味なので、ホラー映画としては多分成功していると思う。

 SAN値が減りそうな名状しがたい絵が描かれた私の着替えを可燃ごみに詰めながら、もう聞き慣れてしまった役者の棒読みを右から左に流していると、


 ――ぷつっ。

 そこで唐突に映画の再生が止まる。毎回いつも勝手に切れているのだが。

 ガーンという効果音が聞こえたような気がする。

 某電気ネズミの実写映画のように顔面をしわくちゃにさせながら、彼女はごろごろと転がって食卓から落下した。

 一応頭から落ちようとしていたので右足を伸ばし、わざと落下する彼女の頭に足の甲に当てて少し勢いを殺しておいてやる。まあ、軽いのでやらなくても多分大丈夫だとは思うが。

 がん、と少し鈍い音。頭に続いて足が床に追いついたらしい、べちゃっという音。

「…………」

 初登場の第一声を『痛い』とか泣き声にしないためなのかは知らないが、無言で耐えているというのだけは空気で伝わってきた。

 大丈夫かと聞くと、彼女は頭を抱えながら痛そうな顔でよろよろと立ち上がる。私を視界に入れるとドヤ顔に切り替わりピースサインを送ってきた。

 平和なバカそのものに癒されながら、インスタントみそ汁の入った茶碗を食卓に移動させ朝食を始める。

 ……私はテレビアンテナもビデオレコーダーの類も買ってないから、ちゃんとセッティングをしなければあのディスプレイに映画とか映るはずないのだけれど……、深く考えないことにした。

 彼女のいる生活を正常な精神で見つめてはいけないと、私はもう学んだのだ。

 ……ずずずっ。

 今日もみそ汁が美味い。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 彼女の名前は龍堂雪月という。

 

 右側だけ長い黒髪をまるでマフラーのように首に巻きつけているのがやけに特徴的な美少女である。

 宝石のアクアマリンを思い起こさせる青い瞳は、じっと見ていると吸い込まれそうになるが、大体いつも眠いのか半開きなのでその真価が発揮されることは少ない。

 唇はどこか桜の花びらを思い起こさせるくらい可愛らしく小さい。

 そこから発される鈴の鳴るような声は、小さくとも聞き分けるのに苦労はなく、自然と聞いてあげたいと思わせる。

 確か身長は一五五センチくらいだったはずだが、少し猫背なのと普段の小学生ムーブのせいかもっと小さいように錯覚してしまう。

 年齢はよく知らないが、多分二十三の私とそう変わらないだろう。正直考えるだけ無駄なくらい謎の存在なのであまり興味がない。

 気が付いたら近くにいた存在である、と聞くと普通幼馴染と表現するべきだろうが、それは本当に言葉通りなだけで、彼女が私の目の前に()()()のはほんの一週間前の話である。

 私は彼女のことを、名前と容姿とアホっぽい言動と、……好きな映画を除くと何も知らないといっていい。

 ちゃんと喋るときは喋るが、色々とくだらない理由で彼女はあまり喋らない。

 なぜか目だけで話が通じるので苦労したことはないが。

『ファミチキください』

 そういうのもういいから。

 いい加減普通に喋ってくれ。

 何より、私が彼女に対して一番違和感を覚えるのは――、

 うーん、と一瞬少女は悩んだ後に、満面の笑みで口を開いた。

 

「■■のこと、ずっと前から好きだよ」

 

 …………。

 ―—思考を打ち切る。

 いろいろな意味でクソみたいな告白を聞くことになってしまったことを後悔しながら、ありがとうとだけ返して、仕事場に出かけることにした。

 余談だが、私は彼女のことを気味が悪いと思っている。

 

 私と彼女はそんな関係だった。

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

「それで、■■、お前はそこの女の子、……ユヅキだっけ? その子が好きなの?」

 

 仲の良い友人にそう問いかけられた。

 えーと、どうしてこう……、反応に困るような状態に至ったんだっけ?

 

 私と雪月の家は、京都の片田舎にポツンと建った集合住宅の一部屋を借りていて、仕事場から歩いて十五分とかからない。

 桜が散り始め、薄桃色に塗りたくられた下り坂の道路を二人で歩いていると、どこかで見た顔が反対側から一人で坂を上り歩いてくる。

 最初は、『あいつ確か今東京に住んでいるはずだし違うよな』と思いながら歩き続けたが、『いや、やっぱりアイツだよな』という確信に切り替わる前に、五メートルくらいの距離で、その男に声をかけられた。

 

「久しぶりだね、友人」

 その私としては一週間ぶり程度の彼の声に対し、私も――おそらく相手からは四年ぶりの――声を返す。

「……こちらこそ久しぶりだな、ポチさん」

 

 中学時代からの友人である大山幽(おおやまゆう)

 高校を卒業してから髪を薄く茶色に染めたらしい。それ以外は昔からよく知っている穏やかそうな顔、背は平均的だがスラリとしており、少し色白な肌だが、特別不健康そうという訳でもない。

 まあ、読モに載る程度にはイケメンということである。

 彼は私のことをなぜかあだ名で友人(ゆうじん)と呼ぶ。他にもアイツの友人はたくさんいるんだが、私だけそう呼ぶ理由はよく分からない。私より深い親友もいるはずである。


「ポチさん、ね……そう呼ばれるのは本当に久しぶりだな」

 彼は懐かしそうに目を細めながら答える。

「私はしょっちゅう文字で『ポチ』って呼んでるけどな。」

「あぁ、やっぱり声で聞くのと、文字で読むのでは、こう……新鮮さがね?」

「……、そう言えば誰だっけ? 確か大山の『大』を『犬』と見間違えてあだ名で『ポチ』とか呼ぼうとしたヤツ?」

「ははっ、そうだったね……俺ももう覚えてないよ、そんな八年も前のこと」

 軽く笑いながら雑談に興じる。

 そろそろ仕事場に行かなくていいのかって? どうせまともに機能してないからへーきへーき。

 昔話もそこそこに最近の近況を話しながら、彼が私の記憶の中のポチさんとあまり変わっていなくて内心ほっと胸をなでおろす。

 私は、高校の卒業式から一週間前までの約四年間の記憶をまるまる失っている。

 この一週間で得た空白期間におけるポチさんの情報は、高校卒業祝いで買ってもらったスマホに残ったLINEのトーク履歴のみである。いや、そのスマホももう既に台変わりしていたが。

 仕事場の人間には一瞬でバレてしまったというか、バラさずに済むわけないので自分からバラしたから仕方ないが、大っぴらに話したいことではない。

 誰かに可哀そうな目で見られるのは、あまり好きじゃないのだ。友人ともなれば尚更である。

 矛盾するように、相談して楽になりたいという気持ちがないと言えば嘘になるが。

 打ち明けられないまま会話は続く。

 

 どうやらポチさんはここら辺に近々引っ越すらしく、その下見に来たらしい。

「どうしてこんな片田舎にまた?」

 一応、確かにここは京都だけど馬鹿みたいに山奥なので、一ミリもメリットなんてないと思うけれど。

「まあ、そこは俺の仕事の都合でね……」

 そう言って彼は少し遠い目をする。どうも彼自身もあまり乗り気なわけでもないらしい。

 そういえば、LINEの履歴だとブラック企業に就職させられてから、再就職までは上手くいったあたりで一ヶ月くらいトークが途切れていたんだった。

 心配はしていたが、記憶を失っている私で力になろうとするのは、無謀どころか逆に忙しい中でポチさんに心配をかけかねないと思って何もしなかったが、……今考えると白状だったかなと反省してしまう。

 

「今はどんな仕事をしてるんだよ?」

 そう聞くと、

「……そんなことよりずっと気になってたことがあるんだけれど――、」

 あからさまにはぐらかされた。


「――君の後ろに隠れてる女の子は誰なのさ?」


 ……まあ、気になりますよね。

「話をそらさないでくれよ。そっちの仕事は一体何なんだよ?」

 できるだけ話題にしたくないので抵抗を試みるが、

「しがない公務員だよ、だからさっさと友人の彼女を俺に紹介してください。盛大に祝ってやるから」

 祝わんでいい。彼女じゃねえし。

 そこで雪月が私の背中から顔を出して無表情で言い返す。

 

「そうだー、ユヅキは■■の彼女じゃなくて恋人ですよー」

 

 全く変わらねえよな、それ。

 ポチさんヒューヒューやるのやめろ。そういうキャラじゃねえだろ、お前は。

「いやぁ、あの友人に恋人ができるとは! 高校時代じゃ教室から出るときに女子とぶつかりかけただけで全力の悲鳴を上げられていた、あの友人が!」

 うるせぇ、古傷抉り出そうとするのやめろ。

 本当に違うから。


「それで、■■、お前はそこの女の子、……ユヅキだっけ? その子が好きなの?」

 

 ようやく少しは真面目に会話をする気になったのか、声が半笑いから普通のトーンで問われる。

 よし、そうだな。私は雪月のことを……。

 …………。

 非常に言及しにくい……。

 

 わざわざ回想する意味なかったな。

 好きではないことだけは確かだ。

 こいつのことを気味が悪いと思っているのも確かだ。

 恨みもはっきり言ってたくさんある。出会ってたった五日しか経っていないのにだ。


 だが、ただ私が雪月のことを嫌いで、いやいや一緒にいると思われるのは、どうにも癪なのだ。


 何とか無理に「嫌いなところを挙げたらあり過ぎて霧が晴れやかなくらいだぜ」とか絞り出した。

「…………」

 ポチさんは私のことを無視し、腰を少しかがめて雪月と目線を合わせ、会話を始めだす。

 死にたくなった。

 

「えー……、ユヅキさん?」

「なにー?」

「今どこに住んでるの?」

「■■のうちー」

「同棲してんなら彼女確定じゃねえか!」

 

 おい、やめろ。確かに世間一般の目線からしたら100%付き合っているようにしか見えないのは自覚してるんだから、これ以上嫌な現実を私に再認識させようとするのをやめろ。

「じゃあ、何で一緒に住んでるの?」

「知らん、あいつを追い出す能力が私になくて、あいつが好きで私の家に居つくからこうなっている」

「どうして追い出せないのさ?」

 追い出したと思ったら背後にいると言ったら納得してくれるんだろうか?

 一瞬の葛藤の間で、ポチさんは雪月と会話を再開する。


「ねー、ユヅキさん?」

「なにー?」

「この男のどこが好きなのー?」

「ぜんぶー」

 

 おい、そこ、世界で一番あたまのわるい会話するのやめろ。

 

「具体的には―?」

「うーんとねー、」

 …………。

「私のことを――「はいはい、そろそろ仕事の時間だから行きましょうねー」、あーれー」

 いつも通り軽い雪月を、腰あたりで小脇に抱えてこの場を立ち去ることで、強制的会話を打ち切る。

 大山は私の顔から察してくれたのか、特に何も言わずに私を見送ってくれた。

 明らかに逃げた私を、どこか憐れんだような目で。

 …………、とりあえず、彼が四年経った今でも、変わらず私の友人だということが分かっただけでも今日は収穫だった。

 ――そう、彼女は、そんなものではないのだから。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 仕事場につくと既に八時半を回ったところだった。

 ざっと一時間遅刻してしまって、その上全く連絡も入れていない状態という訳だが、全くもって問題ない。

 なぜならここは――、

 

「おはようございます――」

「おはろー」

 挨拶もそこそこに古ぼけた小さな事務所の扉をくぐる。

 ちりーん、と来客ベル代わりに設置された風鈴の音が、中途半端に暖房の利いた部屋の空気に染み渡るように響く。

 ノートパソコンが一台ずつ置かれたデスクが五つ並んでおり、真ん中に来客用のテーブル、その両側に横長のソファが一つずつ、ウサギのぬいぐるみが乗った薄型のテレビが一台といったものが、ぱっと目に付く。

 一見整理されているように見えるが、その奥の扉には何が入っているのかよく分からない段ボールの山の一端がこちらを覗いている。

 節電のためか電気を点けていないせいで少し薄暗いが、すぐにその人影に気付く。

 見知った顔、メガネがよく似合うがどこか抜けた感じのする男が、手に持っていた段ボールを下において挨拶を返す。

「あ、■■さん、おはようございます。雪月ちゃん。おはよう、よく君も毎日来るね」

 それはこっちのセリフである。なんでお前は休みを取らないんだという突込みは抑えて、

「北口さん、今日はお客さん来た?」そう聞くと彼は、

「二日前に来ましたけど、……濱田がその案件を引き受けた後、帰ってきていませんね」

 濱田さん? ああ、確かこの会社だと新入りの人だっけ? 大丈夫?

「五味が監督で付いてるんで多分大丈夫でしょう」

 ……逆に不安が湧くのは私だけだろうか?

「ごみー、いいやつだし、モーマンタイよー」雪月が適当に口を挟む。多分何も考えずそう言っている。

 いい奴かどうかはこの際どうでもいいし、強いて言うなら確かに五味さんは良い人だし、性格も別に悪くはないけれど、……アレなのがなぁ……。

 北口さんも視線が自然と落ち、ぎこちない口調で、

「まあ、濱田も少しずつ成長していってるので……」と返す。

 おい、不安そうな顔になるのやめろ。自信無くしてんじゃねぇよ。私が不安煽っておいてなんだけど。

 と、そこで事務所の扉がまた開く。


「ただいまーっす」

 

 五味さんの声。

 どこか誰に対しても生意気な感じの目線。一七二センチと、そう高い訳ではないのだが、身長に対してやたら体が細いせいで、どこかノッポみたいな印象を受ける体格。

 客向けの黒いスーツ姿だが、普段のお調子者ムーブを思い出させない程度には似合っている。

 どうやら仕事から帰ってきたらしい。

「おかえり、五味。例の案件は達成できたか?」

 北口が、コップに麦茶を入れて五味に手渡しながら確認を取る。

 ありがとうございますと言いながら、そのコップを一息で煽った後、

「あぁー……、達成はしましたよ、達成は」

 と、わざとらしいくらい目を逸らしながら歯切れの悪い返事を返す。

「ごみー、だーはまはー?」

 雪月が来客用のソファに寝転がりながら質問する。

「あー、雪月ちゃんいるんですか……、ということは社長も……」

 北口さんから逸らしていた目線の角度を修正し、事務所のカウンターの壁にもたれかかっていた私に気付く。

 とりあえず、訂正しておかないとな。

「私が記憶を取り戻すまでは、『社長』と呼ばなくていいって前にも言ったんですけど?」と自分なりに軽く圧をかけてみるが、

 五味さんには、いつも通り「社長は社長ですし」とあっさり流される。

 まあ、これ以上問い詰めても無駄なので、諦めてさっきの話に強制的に戻す。

「それで濱田は結局どうなったの?」

 と聞くと、ようやく五味さんも無駄に重い口を開いて、こう言った


「来訪者殺した後、気分悪くなったとか愚痴りだしたんで、青木ヶ原樹海にスマホなしで放り込んできました」

 

 や ら か し や が っ た。


 リアルで遭難自殺の名所となる場所に置き去りに? いくらここにいる人間が()()()()()()()()()――

 北口さんは呆れ顔で、

「相変わらず五味は、……上手くギリギリを攻めやがって」とだけ非難した。

 ……そっちかーと思いながら、私はこの会社の天井に目をやる。

 私は内心の評価に今まで散々重ねてきた下方修正にさらに上塗りすることにした。

 ここにいる人間は()()()ではなく、()()()()()()()おかしい。

 普通に考えて殺人未遂というか現行犯と言われても、文句が言えない状態にもかかわらず、ただギリギリを攻めてるなぁという程度の感想しか返されないこの仕事場は――


 社会に認められていない闇の仕事場、基本業務内容は人殺し、『正義の味方』と名付けられたこの会社の社長が、私■■なのである。

 

 本当にこの私の空白の四年間にいったい何があったのやら。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「社長、ふと思ったんすけどー」

 すぐ側にいる雪月を気にすることもなく――実際アイツは全く気にしないだろうが――スーツを脱ぎ出し、自分たちの職業を偽装するために普段よく着る薄青い作業着を着ながら五味さんは私に問いかけてくる。

「社長じゃないってのに……、で何?」

 もう、訂正するのも面倒になってきたなと思いながら返す。

「社長って男じゃないですかー」

 聞くまでもない確認を取られた。私はどう考えても女顔ではないと自負してるんだが。「イラストついたらどうせ女装も行けるようになりますってー」マジで黙りなさい雪月。

「どこからどう見てもね。……どうしたのさ急に?」

 そこで北口さんが、私と五味さんの会話に気付いたのか抱えていた書類をデスクに置いて話に参加するために近づいてきた。

「なんで社長、自分のこと『私』って呼ぶんすか?」

 五味さんはそう聞いてきた。

「……、記憶のある時の『私』には聞かなかったの?」

「ああ、それ俺が五味のいるときに聞きましたけど、『大した理由はないよ、単なる癖だ』って、こう言ってはアレですが……、誤魔化されましたね」

 北口さんがここで会話に参加する。

「そっすねー、俺達は『癖』かどうかじゃなくて『癖になった理由』が知りたいにきまってるっすもん」五味さんがさらに便乗する。

 ……どうせ数日もしたら忘れてるか。

「お生憎様と、大した理由はないよ。高校一年だったか二年だったか、そう喋った方がカッコいいかなって小説か何かに影響されただけ」

 と、今まで通りの回答を返す。

「別にカッコよくないっすけどね」

 だから、五味さんや、アナタは一言多い。

 だからみんな五味はアレだからって言われるんやぞ。

 と言うのを我慢して説明を続ける。

「……、今じゃ、無意識レベルで出るからな。教官とか目上の立場に話しかけられた時に、素が出ない分助かってる」

「……あれ? なんかちょっと前に、雪月ちゃんに家事を押し付けられて大声で愚痴ってた時、『俺』とか言ってませんでしたっけ?」

「気のせいですね」

 嘘ですよね! とか五味さんが喚くが、まあ嘘だ。

 滅多に無いが、苛立って声を荒げた時は『俺』が出る時もある。

 そんな益体もない話に興じていると、


「それで、相変わらず社長の記憶は戻らないので?」本題に移る。


 まあ、この会社の存続にかかわる話だ。この会話は私の記憶が取り戻されるまで、何度でも繰り返されるだろう。

「その通りですよ、不本意ながらね」

 私はこの一週間で決まりきった答えを返す。

「原因のアテは……、まあ聞くまでもないですね……」

 北口さんが言いかけて、すぐにやめる。

 ああ、()()()が口を開かなかった以上、私の記憶を取り戻すには、雪月の協力が必要不可欠だ。

 当の本人はスイッチのポケ○ンの色乱数レイド調整とかやってるが。

「星五来いやー」黙っててくれ。

 

 着替え終わった五味さんが口を開く。

「ふうん、まあ、今のところ俺には順調に見えますけどね」

 はたから見ればな。

「違うんすか? 明らかに四日前初めて俺が会った時に比べると、表情も豊かになってよく喋るようになったように見えますけど?」

 …………。

「アイツが何もしていない時の表情を見たことありますか?」

 私は確認する。

「ええ、見たっすよ。……なんかまるでずっと子供の頃から大切にされていた人形がゴミ捨て場に捨てられたらあんな感じになるのかなってくらい、魂が無かったっすね」五味さんは答える。

 そうだった。アイツが消えて、あの場に残されていた雪月は、しばらくそんな虚無そのものみたいな感じで、私が引き取って二日後には今のような、どかバカげていて、どこか愛らしい振る舞いをするようになっていた。

「ともかく、原因は不明ですが、すごく落ち込んでいたのが、たった二日でここまで持ち直したってことでしょう? そのうち■■さんに対して完全に心を開いて、どうしてこんな記憶を失う羽目になったかの手がかりも話してくれるんじゃないですか?」北口さんは私を元気づけるようにそう言う。

 

「二人はさ、あれ、……いや、()()()()()()()()()()()って言われたら分かります?」

 

 私は再度確認した。

「「…………」」二人とも絶句する。

 信じられないのだろう。彼女の振る舞いはどう見ても普通の女の子にしか見えない。仕事柄、二人は人の演技を見分けるのに長けている。記憶を失った私なんかよりもはるかに。

 それでもどうして気付けたか――、

 

 私は彼女に近づいて話しかける。

「なあ、雪月」

「なーにー?」

 

「お前、()()()()()()()()?」

 

 彼女は黙り込んだ。目に(あお)がなくなっていくような錯覚。

 その瞳は相変わらず青いけれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()逆に不安になってしまうような虚無を感じさせる。

 何秒経ったかと聞かれれば、きっと三秒もかかってないだろう。

 彼女の目に再度(いろ)が戻る。ああ、確か青ってこんな色だったなと私もそこでようやく自信が持てるようになる。

「そんな訳ないですよー。もしかして■■君は逆にユヅキのこと嫌いになったですか?」

「……、ああ、いつも言ってるだろ? 私はお前が好きじゃないって」

「えぇー、酷いですよ……」「ウソ泣きはやめろ」「ちぇー」

 

 彼女は再び何事もなかったかのようにゲームをいじりだす。

 ここまでのやり取りで、彼女の振る舞いが作りものだと確信できるのはあのたった三秒程度の短い時間のみである。それ以外はどう見ても普通の少女なのに、そのたった三秒が、致命的までに不気味な歪みを引き起こす。

 私は二人に視線を送る。

 二人ともどうやら納得してくれたらしい。少し唖然としているが。

 北口さんが口を開く。

「納得は、できました。……、となると、雪月ちゃんは実際のところあなたに対して親しい振る舞いをしているだけで、あなたに記憶喪失の原因を話す理由を全く有していない可能性があると?」

「そもそも本当に何も知らない方が可能性として高いと思いますけどね」

 それは考えるだけ無駄という結論に陥ってしまうので除外するしかないのだが。

 ふうん、と先ほどまで神妙に口を閉じていた五味が口を開く。

「? 何か思いついたんですか?」と私が聞くと、


「いや、演技であんなにも絵を理解したムーブを雪月ちゃんに教え込んだ相手とはいい酒が飲めるかなって」


 聞いた私が悪かった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 京都の北西部の山奥の盆地にある江津緒市。その駅から五キロ離れ、寂れた市街地の立ち並ぶ辺鄙な場所にありふれた灰色のコンクリートで固められた建物。

 一階は質屋の看板がついているが、『金18K一グラム五千二百円』といった張り紙と一緒に『閉店しました』という紙も貼られており、その上の二階にその会社はある。

 有限会社江津緒産業廃棄物処理中間センター、というのが私の会社の表向きの名前。実際のところ、裏社会用の名前がある訳ではないが、『正義の味方』と呼ばれている。

 会社というか見た感じはザ・事務所といった。

 基本業務は、午前中はダミーとしてゴミ収集車の整備や実際の回収を行い、夜には()()()()人殺しを()()やっているらしい。

 人を殺す集団として普通イメージするであろう、別に殺人鬼だらけの会社という訳でも、殺しの依頼を請け負うお偉いさん御用達のアサシン集団という訳でもない。

 この世界から()()()()()()()()()()()()()()形として、()()()()()()()()()()()()()()、そんな意味不明の会社である。

 話し合いで解決することもたまにあるらしい。

 まだ、その仕事場を私は一度しか見たことはないのでよく分からないが。ちなみにその時は当然のように殺していた。

 一体誰が振り込んでいるのかは不明だが、お金は毎月会社の口座に振り込まれている。社長である私が記憶喪失では経費や給料を支払えないのではないかという不安があるだろうが、基本的に北口さんか今はいないが林さんが管理しているのに合わせて、その口座も(どう考えても防犯上おかしいが)会社員の()()が暗証番号含めて掌握しているので、問題ないらしい(大ありだ)。

 経緯は不明だが、私は四年前からこの会社の社長として私を含めてたった四人で立ち上げ、今は七名の従業員をこき使っていたのだという。

 理由は立ち上げに関わった四人しか知らず、私はまだその三人にこの一週間でまともなコミュニケーションを取れていないのだ。

 私が記憶を維持している高校の卒業式からほんの数か月後に、どうして、いったいどうして、こんな会社を立ち上げることになった?

 いや、マジで。

 一応断っておくが、私は少なくとも高校までは血生臭い経験ゼロの一般的な日本人家庭の子供だったのだ。

 

「あの、北口さん」

「何ですか■■さん?」

「記憶を失う前の私は、何か人を殺すのとか……、そうでなくとも弁舌や交渉が上手いとか、そういったスキルが秀でたりしてませんでしたか?」

 私は前に思いついて五味さんに質問したことを北口さんにも尋ねた。

 ええ……、と彼は言い淀んだ後に、

「ぶっちゃけそんなことは一切ありませんでしたね」

 と予想していた通り五味さんとほぼ全く同じ答えを返した。

 

 何でこの人たち私の会社にいるんだろう、と心から疑問に思う。

 私の、と言っても結成には他に三人いたそうだが、やはり最終的に私なんぞを人の生き死にが関わる会社の社長に据えたことが、本気で全く理解できない。

 お世辞にも私には人を率いるようなタイプではない。はっきり言ってコミュ障の部類だと自分でも理解している。たとえ数年経験を積もうが、所詮私が私であることに変わりはない。よほど変わった人間でもない限り、部下からの視点で私に命を預けたいと思うことはないと思うのだ。

 という訳で私の人柄で7人もの人間が集まっているとは考えにくい。

 なら、私には、今の私自身が気付いていない、未来の自分には使える特殊能力―—それは例えば誰も逆らえないような、心を惹きつけるような、そんな絶対的な何か――があるのではと思ったが、それも違うらしい。


「■■さん、コーヒー苦手でしたっけ? ミルクココアでも入れましょうか?」

 …………。

「ありがとう」とだけ返すと、北口さんは奥の冷蔵庫の方へ向かっていった。

 

 本当になぜこんな見るからに私よりも優秀そうな人たちが、私に対して一定の敬意を払ってくれているのか、全く理解できない。


「社長は社長っすよ。だから俺はここにいてあんたと話してる。理由なんて、金でも、義理でも、萌えでも、ロマンでも、何でもよくて、それでいいんじゃないっすか?」

 五味さんが私を見て心配(?)してくれたのか、声をかけてくれる。

 そうですかね、と自分でもどちらとも取れるような曖昧な答えを返すと、急に私の顔をじっとまっすぐ見つめ、はっきりと告げる。


「社長は無駄に気にしすぎっすよ。楽に考えればいいっす。人間なんてみんな、顔も見えない人にも頭下げるように、世界を学んできてるんすから」


 想定外のところから来た五味さんの言葉に一瞬たじろぐ。

 そのまま五味さんは言葉を繋げる。

 

「あ、SNSでは顔見えない人間に対する尊重の意思なんて見えないとか突っ込む気っすか? そんな世界も学ばず生きてこれたガキなんて人間に数えちゃダメっすからね? 人は、まず無条件に敬意を払えるようになって、それで条件を犯す外敵を自力で追い払えて、そこで初めて一人前なんすから」

 

 …………、この人こんなに深いこと喋れたのか……。

 正直、『能天気で特に考えてないけど人間的に強いタイプ』の人種かと思ってた。

「なんか失礼なこと思われてる気がするっす! 『キャラが解釈違いです、コミュ抜けるわw』とか思ってるんでしょ!」

 そこまでは思ってないけれど、ここは謝ろうかと口を開―—


「まあ、俺の最近の趣味は、楽しそうに話してるコミュニティにFF外から失礼して散々荒らした後に文句も聞かずに帰ることっすけどね!」


 ―—かせない彼はやっぱりどうしようもなくアレだった。

 

 別にそんな趣味の悪いことを本当はしないことも含めて。


 ことっ。

 そこで北口さんが私にミルクココアの入った……湯呑みを差し出してくれた。

 この人はどうなんだろう……。

 北口さんが私の目線に気付き、会話の流れを聞いていたのか、少し照れたように返す。

「俺がここにいる理由ですか? ちょっと家族のための野暮用……、といった答えで許してもらえませんか?」

 記憶がある時ならともかく、今の私にその野暮用とやらの詳細を無理に聞き出す権利はないと思うので許すも許さないと思う。

 ちなみに五味さんは暇つぶしと答えた。

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 時計が十二時に差し掛かり、近くのコンビニで焼き肉弁当と雪月用のチョコスティックパンを買って事務所に戻る。

「ほれ、餌だぞ」と言って雪月にパンの袋を投げる。

「ありがとー」と返しながら彼女は髪の毛でキャッチする。

 彼女がスティックパンをむしゃむしゃ頬張る音を遠くで聞きながら、焼き肉弁当の香ばしい匂いを堪能し、ふと気になったことを口にする。

 

「ところで、前にあんなところにぬいぐるみなんてあったっけ?」

「ぬいぐるみっすか?」

 五味さんがちょうどトイレから戻ってきて私の質問に反応する。

「ああ、あのウサギのぬいぐるみのことですか」

 北口さんが私の質問に気付き、作業の手を止めて、いつの間にやら確か……林さんのデスクに移動していたぬいぐるみを、手に取る。

「ふうん、俺はよく知りませんね。誰か仕事か趣味で持ち帰ってきたのかな?」

 不思議そうに首をかしげながら言う。

「一応言っときますけど、俺と、一応濱田は違うっすね。二日は仕事から帰ってきてねぇですし」

 五味さんが北口さんの手にあるウサギのぬいぐるみを見ながら口を挟む。

「うちの事務所は、雪月ちゃんとたまに来る先生以外だと男しかいませんしねぇ……。もちろんぬいぐるみ趣味もなさそうな奴ばかりですし。まぁ、今まで隠してたんなら俺も知りようがありませんけど」

 軽く私を一瞥(いちべつ)しながら北口さんが言う。

 記憶を失ってからまだ一週間しかたっていないため、長期で出張している彌吉さんという方とはまだ会ったことがないし、たまに来るらしい先生とやらも会ったことはない。先生とは電話で話したことはあるが。

 まあ、それを気にしての言葉だろう。

「その、こんなところに来る女性にしたって、先生はサイコパスで、雪月ちゃんのイマジナリーフレンドはボタンが最低12個以上付いてないとダメっぽそうっすしね」

 ぬいぐるみのウサギはオーバーオールを身に着けている。その服についた二つのボタンのうち右の一方を五味さんはつまんで持ち上げながら言う。

 そのボタンは服じゃなくて電子回路にひっかかってるしな。

「ははっ、上手いこと言いますね」

 上手くないよ。

「はっ? ラグで死んだんですけどー」

 無線で格ゲーやる方が悪いというか犯罪というか死ね。雪月はガチで処刑されろ。

「怖いよ■■君!」

 とりあえず無視して、「ヒロインに対する扱いじゃないやい!」安心しろ、お前は大体5ページ前あたりからとっくにヒロイン卒業してるから。新しい女性キャラ着たら自然と消えるから。「そんなー」「俺がもらってあげましょうか?」「ごみーはやだー」

 五味さんが事務所のベランダで夕焼けを眺め出すのをしり目に、私は北口さんに質問する。

「あぁ、女性といえば、前ここに来てた人はどうなんですか?」

「ここに? 女性の方が? 先生じゃなくてですか?」

 北口さんが慌てたような声で返す。

 確か……、先生とやらは白髪を短くまとめて右に流していると聞いている。そもそも電話越しで話した(せんせい)と私の目の前に現れた悪魔と呼びたくなるようなあの女の声や雰囲気は、違うどころか正反対と言っていい。

 彼女は長い金髪のツインテールを(なび)かせていた。

 そして、あの人なら別にウサギのぬいぐるみの一つくらい普段から持ち歩いていてもおかしくないだろう。別にスカイツリーの起爆措置も常時持ち歩いていると言うわれても違和感はないだろう。

「それ、いつの話ですか?」

 記憶を辿りながら返答する。

 この事務所で目を覚ましてすぐだったから……、ちょうど一週間前になりますかね。

「……、名前は名乗っていましたか?」

 北口さんが神妙な面持ちで聞いてくる。

 それだけ真剣な表情で聞かれると私も緊張してしまう。

 そう、確か名前は――


「上村……、風花って名乗ってましたけれど」

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

『あの『上村』と接触したんですか!?』

 

 結局本日一人も客の来なかった仕事場から自分の家へ、いつも通り雪月と二人で歩きながら、北口さんが今日行っていた言葉を反芻する。

 え? 何? 『上村』の名前が何かまずいの?

『まずい、なんて言葉で済むもんじゃないっすよ。俺なら今すぐにでも国外逃亡しながら残り少ない余生を楽しむために今まで貯めてきた財産を全て投げ打って遊びの限りを尽くしますよ』

 もう諦めてる!?

『大体一週間ですね』

 何がです?


『『上村』と名乗った人間で会ってから死ぬまでの平均時間です』

 

 ……死神か何かですか?

 私が会った女の人は、表現が難しいですが、すごい性格がねじ曲がっているだけでただの人間にしか見えなかったですけれど。それでも……、私はもうすぐ……、死ぬんですか?

『死にますね』

 

 もう顔と下の名前しか思い出せないお父さん、お母さん、息子の■■はもう駄目なようです……。

 

 軽く絶望してみたら、隣りを歩く雪月は察したのか慰めるように言う。

「住所は分かるんだから表札を読めないにしても、会いに行って声を聴くことはできるのでは? と雪月は訝しんだ」

 察しすぎでは? と思ったが、訝しむだけ無駄な気がした。

 改めて、彼女の言葉を受け止めて考える。

 ……そうだな。

 確かにやろうと思えば、私はポケットマネーでも実家に帰って親に顔を見せたり、今の状況やその不安を相談することだってできる。

 交通費とか諸問題があるにはあるけれど、それよりも今の私は、多分、親とか、古くからの友人といった誰かと、記憶を取り戻すことの役には立たないと分かっている時点で、全く会いたいと思えないのだ。

 別に友達に恨みはないし、親には感謝してるし、今のこの状況ははっきり言って雪月なんて正体不明の人外が側にいる時点で不安で仕方がない。あちらから私に会いに来たのであれば、相手によるだろうが、それなりに歓迎する。

 それでも、こちらから会いたいという気持ちは、自分でも不思議なくらい湧かない。

 いつの間に私はこんな薄情者になってしまったのだろうか。それこそ記憶ごと人情まで失ってしまったのか。

 まだ暗くもない夕暮れの坂道をフライングで街灯が照らしている。

 橙色の(ひかり)を白色の(ヒカリ)が濁しているかのような錯覚。

 濁った光なんてある訳ないのに――


「おや、今帰るところかい?」

 

 坂道を登り切ったところで声をかけられる。

「先生……」

「できれば名無しには、『ドクター』と呼んでほしいと言ったはずだが……、まあ記憶喪失してるやつに無理に呼ばせてもつまらんか」

 あ、すみません。どうにも慣れなくて……。

「気にするな、()()()()()()()

 …………。



 








































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