大賢者エアハルトとの契約
寝所の支度が整ったあと、食堂に集まって茶を飲む。
用意したのはエアハルトの分だけだったが――。
「飲みにくいから、君の分も用意して、そこに座って」
「え、しかし……」
「いいから」
「はあ」
ユマラは自分の分の茶を淹れて、エアハルトの前に腰かける。
「とりあえず、契約を確認しようと思って」
「はい」
「僕が主人で、君は召使い。そういう認識でいい?」
「はい」
エアハルトは羊皮紙を広げ、羽根ペンにインクを付けてサラサラと文字を書いていく。
ユマラはその様子を、じっと眺めていた。
「……何?」
「綺麗な文字だと思いました」
「別に、普通だから」
ぶっきらぼうに行ったが、頬は僅かに赤くなっている。照れているのは、一目瞭然だった。
年上の男性を微笑ましいと思ってはいけないのに、ユマラは頬が緩んでしまう。今度はバレないよう、口元を隠した。
「じゃあ、これ、契約内容を読んで、問題なかったら君の名前を署名して」
「はい」
初めて、ペンとインクを使って文字を書く。狐獣人の森で習った時は、大きな葉は紙代わりで、尖った石がペンとインク代わりだったからだ。
契約内容は、難しいことは書いていない。
真面目に働くこと。過干渉しないこと。仕事を放り出さないことなどと、基本的なことしか書かれていなかった。
村長の家のほうが、数百倍は厳しかったように思える。
最後の行に、この雇用は期間限定で、働きに満足しない場合は解雇となると書いてあった。
ドクンと、胸が跳ねる。
ユマラの働き次第で、これから先の暮らしがかかっているのだ。
頑張らなければならないと、気合いを入れる。
契約は問題ないので、署名をすることにした。
そっと、ペン先にインクを染み込ませる。どれくらい浸けたらいいのかわからなかった。
いざ、名前を書こうと思った刹那、羊皮紙の上にインクを落としてしまう。
「わあ!」
大失敗だった。紙は大変高価な物であると聞いていた。なので、ユマラの三角の耳はぺたんと伏せられ、サーっと顔色は青ざめる。
「あ、あの、私……」
「いいよ、別に。俺が管理する書類だし」
「す、すみません」
一度、インク壺の縁で余分なインクを落としてから書いた。
「あ、あの、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
「嫁入りじゃないんだから……」
「え、今、何か言いましたか?」
「なんでもない」
このようにして、エアハルトとユマラの契約は無事に結ばれた。
◇◇◇
エアハルトが暮らす神殿はとにかく広いらしい。
把握しているのは、礼拝堂に食堂、寝室に衣裳部屋、物置、地下、大入浴場が数か所。
「お風呂もあるんですか!?」
ユマラの里で風呂を持っているのは村長だけだった。当然ながら、ユマラは入れない。
夏は湖で体を洗い、冬は湯を沸かして、桶に張った湯で体を洗っていた。
「お風呂……いいですね……。憧れです」
「お風呂が、珍しいの?」
「それはもう!」
勢いよく返事をしたらエアハルトは少しのけ反り、驚いた表情でユマラを見る。
「あ、す、すみません。興奮して、つい……。私みたいな召使い風情が、お風呂なんて使えるわけがないのに……」
「え、なんで? 使いなよ。お風呂、三カ所くらいあるし」
「そ、そんなに!? それに、お風呂を使っていいなんて」
ユマラの目から、ポロリと涙が零れる。
「え、なんで泣くの!?」
ユマラの涙を見てぎょっとしたエアハルトは、さらに体をのけ反らせた。
「俺、なんか変なこと言った?」
「いいえ、これは、嬉し涙です」
「どうして、嬉しくて泣くの?」
「嬉しい時も、涙が出るのですよ」
「そ、そうなんだ……」
しかし嬉しいにせよ、悲しいにせよ、ユマラが泣いた理由がエアハルトにはわからないと言う。ユマラは涙を拭いながら、説明した。
「あの、お風呂を使わせていただけることが、嬉しいのです」
「え、入浴の許可だけで泣いたの?」
「はい。浴槽に浸かることなど、今までなくて」
「嘘でしょう?」
「嘘ではないです」
エアハルトは寝転がって傍観していたウラガンを見て、質問する。
「ねえ、ウラガン。お風呂の普及率って、そこまで低くないよね?」
『俺様に人の常識を聞かれても』
「そうだった」
「あの、私は森の奥地に棲む獣人ですので、文明はいささか遅れております。都の人達は、各家庭にお風呂を持っていると、聞いたことがありました」
「そっか」
エアハルトはユマラに、好きなだけ風呂に入るよう勧めた。
「あるよ。でも、昨日温泉の契約が切れたから、また行かなきゃ」
「温泉の契約、ですか?」
「そう。シトラスの森に、温泉の管理をしている妖精がいるんだ。そこで、一ヶ月契約で温泉を引いているんだけれど」
その契約が、ちょうど切れてしまったらしい。
「行かなきゃいけないんだけど、すっごく面倒」
「場所を知っていたら、私が行くのですが」
「そっか。次から、君に頼めばいいんだ」
「はい」
そんなわけで、ここから徒歩十分のシトラスの森に向かうことに決まったが――ユマラのお腹の虫がぐうと鳴る。
あまりにも大きなお腹の音だったので、エアハルトがビクリと肩を震わせる。
「び、びっくりした」
「ご、ごめんなさい」
お腹が空いたというユマラに、エアハルトは憐憫の目を向けていた。
「そんなすごい音が鳴るんだ」
「せ、僭越ながら」
そういえば、昨日も何も食べていなかった。
とりあえず、命が助かった。それだけで、胸がいっぱいになり何も食べることができなかったのだ。
一方で、エアハルトはお腹が空いていないらしい。半魔の彼は、三食食べる必要がない。
「大変だね。三食もたべなきゃいけないって」
「ええ、そうですね」
同じ半分人間でも、こうも違うものかとユマラは切なくなる。
「なんでしょう。契約を結んで安堵したのか。それとも、布団という日常の象徴のような物を手に入れて、ホッとしたからなのか」
「日常の、象徴……」
確かめるように、エアハルトは繰り返す。
「大賢者様、どうかしました?」
「いや、なんか、普通の日常とかそういうの、思いつかないなって」
ユマラは昨日のエアハルトの反応を思い出す。
素朴な焼きたてのパンに、感動しているようだった。半魔で、大賢者と呼ばれ、そして今、誰もいない森の奥地にある神殿で孤独に暮らす。
今まで、彼はどんな生活をしていたのか、想像さえできない。
ユマラにできることは、精一杯お世話をすることだけだった。
「どうしたの?」
「え?」
「ぼんやりして」
「い、いいえ! なんでもないです! あ、あの、食材を戴いて食べてもよろしいでしょうか?」
「別にいいよ。好きにしたら?」
「ありがとうございます」
ユマラはお辞儀をして、台所へと駆けて行った。
◇◇◇
台所にある食材の種類は多くない。
昨日作った丸パンが三つに、残りのホロホロ鳥の肉、木の実、ローゼマリー草。
あとは調味料がひと通りあるばかり。
野菜が欲しいが、召使いの身分で贅沢は言えない。肉があるだけでも、ご馳走だった。
とりあえず、ホロホロ鳥の肉に塩コショウ、ローゼマリー草を振って焼いた。
パンは半分に割って、焼いたホロホロ鳥を挟んだサンドイッチが完成した。
台所にある椅子に座り、サンドイッチにかぶりつく。
ホロホロ鳥の皮はパリッと焼かれていて、肉汁がじわっと溢れて旨味が口いっぱいに広がる。パンは一晩置いていたからか、しっとりなめらかになっていた。
あまりのおいしさに、足をばたつかせながら食べる。
大森林のホロホロ鳥は、今まで食べていた物の中で一番おいしかった。
エアハルトと契約してよかったと、心から思う。
腹ごしらえを済ませたあとは、エアハルトと共に温泉の契約に向かう。
まだ見ぬ湯船に思いを馳せ、ユマラはシトラスの森を目指すことになった。