後編
11
妙に浮かれていた。
それは夏の熱気によるものか、あるいは夜を明るく照らす、無数の提灯…その非日常的なコントラストによるものなのかは分からなかったが、私も他の者たちも皆一様に浮かれていた。
夏の盛りをより一層盛り上げる夜の祭り。
一般的に盆踊りと言われるそれは、十大弟子の一人、目連尊者の伝説に由来するとか、大陸的な先祖崇拝の影響であるとか、はたまた元は単なる収穫祭の名残りであるなど様々な謂れがある夏の風物詩であった。
もっとも…この村の盆には元々、そのようなことをする風習は無く、昨今の目覚ましい近代化の波に便乗して、周辺の村落から輸入された新しい伝統であった。
というのも、この辺りの村民の生活様式はいささか複雑で、文化も宗教も「表と裏」のある二重生活で成り立っており、本当の伝統的信仰は決して表には出さず、体面的な民俗行事は古いものも新しいものも、専ら周囲の村の「トレンド」を取り入れた、外来的な物であった。
「外来的な」とはいえ…急ごしらえの小さな櫓に灯をともし、熱気立ち上るままに皆で唄い踊るその光景は、まことに精霊神仏、舞い降り現れ、相踊るような、 巫術的神性を醸し出していた。
「巫術的」…我ながら言い得て妙だと思う。
各家持ち寄った取っておきの美酒を並べ、老若男女けんもほろろに踊り笑い合う。
まるで忘我の巫女のように恍惚として、乱れた身なりと息遣いが十六夜の光の中で妙に艶かしく、赤々と燃える提灯は、強い陽射しの中、草木蒼茫たる昼間の盛りとはまた違った風合いの「朱夏」を映し出していた。
夏の盛り…そうだ。
私と数人の道づれが、その輪から少し離れた場所でそれらを見つめているのには明確な目的があったからだ。
昼は嵐の様な蝉時雨が木々を覆い、夜は蛍が河辺で魂魄を燃やす。
夏を彩るこれらの事象の行き着くところは唯一つ、明日へ命を繋ぐためだ。
「飛んで火に入る夏の虫とはこのことだな」
暗がりで誰かがナンセンス極まりない発言をした。
「違いねえ」
その声にまた誰かが、下劣な笑みを浮かべながら返答した。
私たち若い者の視線の先には、薄明かりで笑い合う、妙齢の女性達がいた。
『天鈿女は神懸かりして胸乳かきいでも緒を陰に押垂れき』
一瞬、古事記の妖艷な女神の記述が頭をよぎった。盆の踊りとは違い、この村の…いや、この地域一帯の昔からある暗黙の風習。
酒と熱気に酔いしれたこの日だけは、どんな相手に何をしようと、その喧噪に掻き消され、祭りの夜の儚い夢として忘れさられ、一切不問とされた。
胸が高まり身体が火照るのを感じた。
遠巻きに見つめる暗闇で、同志達の荒い息が聞こえて来た。
嫌われ者の抜け作も、新婚の農夫も、皆一様に浮き足立っていた。
そんな様を見て少し呆れ返ってしまったが、ハタから見れば私も今はこの一群の無個性な背景に過ぎぬのかと、我ながら可笑しくなった。
そんな少しばかり冷えた心を再び加熱しようと、私は今一度、「夏の虫」の群れを見つめた。
夜の彩りのその先に、一際輝く青い着物があった。
そのたなびく羽衣に吸い寄せられて、いつしか私は走り出していた。
近づくにつれて露わになる、恥ずかしそうに微笑む瞳が、私の魂をその一点に縛り付けた。
心音高まるにつれ、絡み合う視線と視線の果てに、酒気纏う荒い吐息はピタリと重なりあった。
12
ぶぅぅぅぅん
「久々だなぁ…」
か細い、擦り切れた声でそう独り呟いた。
そう、久々だった。
久々に、昔の楽しい夢を見た。
今の私にはそれだけで、過去のその時と同じぐらい楽しかった。
ぶぅぅぅぅん
木張りの天井の下を小さな蝿が泳いでいる。
私は布団の中からぼうっとその遊泳を眺めながら、今一度夢の余韻に浸り、微熱のある病んだ身体を慰めていた。
実家である屋敷の片隅に、ちょこんと併設された離れ家。
座敷牢と呼んだ方が適切かもしれないその場所の、汚染された瘴気の下で私は埋もれていた。
ふと手を伸ばして、自由に動き回る小さなバアルゼバブに救いを求めても、彼は私を見下しながら、耳障りな羽音で嘲笑するばかりであった。
「蝿一匹にも見捨てられ、この手に止まることもないか…」
余りの自分の情けなさに、自嘲しながらそう呟いた。
集落の郷士である私の一族にとって、労咳に感染した人間など、死んだも同然…いや、それどころか、村一帯から皇国の栄えある一戦に参加する神兵を募っているこの時期に、一族からそのような者が出たとあっては、他の共同体に対し面目立たないとの理由から、国営のサナトリウムにすら入れられず、臭い物に蓋をするように新造の離れ小屋に押し込められて、まるで私という人間は最初から存在しないかの様に扱われてしまっているようだった。
今の私の手元にあるのは、生温い水瓶と家に絶対の忠誠を誓う村医者の調合した、迷信じみた生薬の粉末だけだった。
だがこれらも、私を癒すことは無いだろうし、癒そうとして手元におかれた物でもないだろう。
結局私はここで沈み、埋もれ、もう二度と陽の目を見ることはない。
ギシギシと渡り廊下を歩く音が聞こえる。
その音は少しずつ大きくなり、それと共に仄かな甘い香りが漂ってきた。
あぁ…思えば不思議だった。
あの祭りの夜以来、この女だけは私のそばを離れなかった。
無理やりに関係を持った後も、この無様な姿になった後もずっと、私に海面の光を見せてくれていた。
だが、君が手を差し伸べられるほど私の業は軽くはない。
だからせめて私から解き放たれてはくれないだろうか…。
13
突然の揺れで我に帰った。
びっしょりと嫌な汗をかいていた。
開き切らぬ瞼の中で霞んで消える前に、自分が見たであろう映像を反芻した。
…もっとも、ここまで鮮烈に焼き付いていれば、忘れようにも忘れ去れないであろうが…。
どうやら私はつい今しがたまで、「秦一郎」であった様だった。
その根拠として、私は様々な事象を彼の目を通して見ていく中で、意識の真ん中に構成されていた彼のアイデンティティをハッキリと自覚していた。
そしてそれは…記憶の想起という点を除けば、やはり私と極端なまでに似通っていた。
彼は…あの夢とも思いでともつかぬ世界で、あまり幸福とは言えない生活を送っていた。
だがその積もり行くルサンチンマンよりも先に、彼が見つめ求めていたのはあの女の艶やかな瞳のようだ…。
引きかけた汗が再び流れるのを感じた。
強い執着心が私を染め抜いた。
覚醒してもなお、彼と彼の世界と繋がっているような気がした。
今の私は誰であり、何を見ているのであろうか?
もし私が秦一郎であるとするなら…今の現状はどのようにして作られたのであろうか?
いずれにしろ、この一連の夢と何ら無関係で無いことは自明的であるが、今はそれ以上の詮索は難しいだろう。
私は再び、意識を五感に送り出し、今私を取り巻く世界の中に身を置くため、ゆっくりと眼を開いた。
視界が晴れてくるにつれ、見慣れぬ景色が私を出迎えた。
安っぽいステンレスの光沢が、まだ少し惚けている身体を揺さぶり起こすと、毒々しいまでに陽気な、何処かの百貨店の広告が、現状までの途切れた記憶を不愉快に思い出させた。
小さな如来像を携え、夜明けと共に駅を出発した私は、手紙に記載された場所へ一路、相も変わらず無人の鉄道で、孤独な街を走り抜けていた。
窓の外から流れる私の都市は、そのものが一つの悪趣味なバロック装飾のようであり、このグロテスクな脈打つコンクリート群に、人の蠢きを感じられないのが改めて不思議に思えてくると共に、何とも気持ちが悪かった。
だがしかし…「秦一郎の夢」を通してでしか他人を知らぬこの私が、そのようなことに違和感を覚えること自体、不可解な矛盾であったが…。
そんななんとも言えぬもどかしさを抱えながらふと窓の外を見ると、眩いばかりの夏の太陽の下、景色は一変していた。
14
走る色彩は雑多な灰色から輝く緑に変わっていた。
強い日差しの木漏れ日が、フラッシュライトの様に車内を光らせ、その度に私は目を細めながら、いささか困惑気味に窓の外を眺め続けた。
そっとガラスに手を当てると、その無数の命を支えている、恵み深き天照の無尽蔵な温もりが伝わってきた。
生い茂り、手招きする木々を尻目に、列車は這うように山あいを抜けていく。
時折斜面が開け、小さな村落や古い神社が顔を見せると、その困惑はいよいよ強くなっていった。
「この風景…私は知っている?」
過ぎ去る景色を目の当たりにして、また不可解な既視感を覚えた。
それに、窓の外は、私が昨日まで生活していたあの家周辺とは、余りにも掛け離れていた。
もちろん、下町とはいえ都心の駅前と、このような山路を比較すればそれは当たり前のことなのだが…もっと根本的かつ、あり得ない差異がこの窓の外に広がっていた。
「時間」である。
時折見える人工物の質感…と言うか些細なディテールから全体の雰囲気まで、おおよそ私が暮らしていた時代とは違うもののように感じた。
そう、例えば同じアジア圏の発展途上国に広がる風景を、やや蔑視して「1世紀前の我が国のようだ」と形容することがあるが、今私が見ている風景は正にその言葉がピタリと当てはまる。
舗装されていないあぜ道に茅葺き屋根の町並みは、おおよそこの国がとうの昔に通過してきたであろう原風景を綺麗に留めていた。
「キィー」
不意に不快な金属音が鼓膜を刺激した。
それと同時に列車は速度を緩めはじめ、身体はぐいと重くなり、流れる木々が私に追いついて来ると、前方に古い駅舎らしき物が見えてきた。
…当然、私が乗り込んだはずの都内を走る鉄道の沿線にはこのような駅はない。どころか、此処まで山深い場所を通ることもまずあり得ない。
先ほどの建物と言い、山の狐狸にでも化かされたか、はたまたまだ夢から覚めて居ないのか…。何れにしろ、現在地を確認することが急務であろう。
やがてガタンと重苦しい金属音が響き渡ると、列車は完全に停止し、アルミ張りの扉が一斉に開いた。すると外から真夏の膨張した空気と、狂おしいまでの蝉時雨が車内を駆け抜け、その不快な暑さにあらゆる窓ガラスがもうもうと白み、曇った。
何とか現在地を確認できる物を、最悪駅名だけでも分からない物かと、ベタつく身体を拭いながらふと、一歩外へ出た瞬間、先ほどまでこの暑さに、ぐったりしていた列車はまるで刃物の様に勢いよく扉を閉めきり、大慌てで発進していったのだ!
突然の出来事に、私も列車に負けぬぐらい慌てふためいたのだが…無駄であった。
完全に面喰らってしまい、締め出され、この小さな木造の駅舎に置いてけぼりにされてしまったらしい…。
まずいことになった。
此処がどこだか分からない上、次の列車がいつになるかもわからない…いやそもそも、次の列車が来ると言う保証も何もなかった。
外へ出たと同時により一層勢いを増した蝉たちは、私の失態を声を揃えて笑っているようで、感情をひどく逆撫でした。
その声を掻き消すぐらい大きな舌打ちをした後、ふらふらしながら駅舎の中を歩き回ってみた。
「えっ…!」
暑さも何もかも忘れて、声をあげてしまった。
見つけてしまったのだ。
私の視界の先には駅名が記された、木製の看板が建っていた。
その掠れた文字には紛れもなく、私が目指していた東北の駅名が記されていた。
やはりまだ夢を見ているのではないだろうか?
乗り継ぎもせずにここへたどり着くはずが…。
いや、あれこれ考えるのはやめておこう。
我が家で手紙を見てから、私の小さな常識など何の役にもたたないばかりか、かえって自分自身を混乱させる足枷にしかならないのだから…。何が起きてもそれを甘んじて受け入れる他、私が出来ることなど何もないのだ。
私は私の置かれた状況に少しずつ順応していることを自覚していた。
だが、同意と理解無き順応とは自己の抑圧、自意識の圧殺に他ならない。
それは同時にひたすら受動的にならざるおえないばかりか、ある種のエポケー、即ち思考の中断でもあり、私が今最も信頼し、私を私たらしめることへの自虐行為にはならないだろうか…。
だがしかし、何はともあれ一応、目的地には辿り着けたようだ。
頭は疑念と外気でいささかぼんやりしていたが、意外にも私の足は力があったようだ。
ゆっくりだが一歩一歩、進み、古い改札口を抜けていった。
15
駅舎を出るとそこは舗装こそされていないものの、木々が綺麗に剥ぎ取られた、ロータリーと呼ぶには少し小さすぎるほどの台地であった。
そこから細い街道のようなものが一筋、まるで緩やかに水が下へと流れるように、麓の方まで伸びているようだった。
私はしばし足を止めて、ぼーっと陽炎に歪むその光景を眺めていると、ふと誰かとすれ違ったように感じ、その気配は、すぐに駅の中へと消えていった。
はっとして辺りを見回したが、もちろん周囲には人の影などまるで無い。蝉の声と木々のざわめきだけが聞こえる、やかましい静寂がそこにあるだけだった。
眩むような暑さで変な感覚にでも取り憑かれたのかと思い、気力を奮起させるためにもと、私は再び歩き出した。
広場を抜け、なだらかな坂道を下り始めるとすぐに先程からの刺すような熱気は和らぎ、辺りは程よく影を落とした。
見上げれば太く立派な杉の木が鬱蒼と斜面一面に乱立し、その緑の天蓋は私の身体に僅かながらの休息をもたらした。
滝のように流れ出る汗の、不快な臭いに誘われてか、中空を舞う小さな羽虫の群れは、執拗に私に纏わり付いた。
その甲高い叫び声は、あたかも自分達の聖山を踏み荒らされまいと足掻いているようにも思われ、私は改めて、自分自身は今何故ここに居て、何故この土を踏んでいるのか考えさせられてしまった…。当然、答えなど思いつくはずもなかったが。
「また、小蝿に小馬鹿にされたか…。」
つい自嘲して、喉から出た言葉に私は今までとは違う、粘質の汗が身体から流れ出るのを感じた。
「また」とはやはり、車内で見た夢の光景を指しているのだろうか?
私はそっと後ろを振り返り、見回した。
誰も居ないのはわかっていた。だが、私の背後から『秦一郎』がにじり寄って来るような不気味な恐怖を感じた。
彼は音も無く、だが着実に私との距離を縮め、そしてその度に『私』は少しずつ彼の瘴気に触れ、衰弱していってるような気がしてならなかった。
私は無意識に歩みを早めていた。何から逃げたいのかは分からなかったが、とにかくその場から去りたかった。
そしていくらか降ると、道幅が少し広くなっており、そのすぐ傍に小さな川が流れていた。
私はその流れに渇きを癒し、しばしの涼をとりながら、小さな草花と、水の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込むと、おもいっきり吐き出した。
夏の小川と戯れる。構図はまさにそれかもしれなかったが、そんな古典浪漫のような穏やかな気持ちにはどうしてもなれなかった。
怖かったのだ。
先ほどから私の視線は畦道と並行して走る清流の対岸に専注していた。
そこには…朽ちかけた鳥居が、まるで死霊のように佇んでいた。
頭の奥が痛かった。
先ほど、足を止めたその時から、異様な気配が、敵意を持った姿見えぬ何者かが剥げた丹に彩られた黄泉の門からうじゃうじゃと湧き出て来るようなそんな印象を強く覚えたのだ。
自らの意思で歩みを止めたのではない。その強烈な気迫に膝が震え、動かなくなっていたのだ。
突然生暖かい風が、狂ったように木々をしならせた。
ピクンとして、風に押されるまま、本能的に走り出した。
断崖を降る山羊のように、あるいは黄泉醜女に追われる伊奘諾のように、無我夢中で細い街道を駆け下りて行った。
どのくらい進んだか分からなかったが、辺りは急に明るく開けた。
燦然と輝く太陽に反射する緑の田園風景と、居並ぶ茅葺き屋根は、私が目的の場所に限りなく近づいたことを示唆していた。
その懐かしき望郷の風景は、この矮小な意識を乱暴に引き剥がすと、瞼の裏から私の瞳を奪い去り、再び『彼』が目を開いた。
16
その夜は騒がしかった。
村の入り口に佇みながら私は辺りを見回した。
いつも以上に灯を落とした各家は、物忌みでもするように閉め切られ、物音一つしなかったが、その薄い戸口一枚隔てた向こうからは、緊迫した雰囲気と、高揚した熱気が伝わってきた。
光こそ漏れないが、まるであの盆祭りの夜のようだなと、弱り痛む胸をさすりながら独り微笑んだ。
祭り…そう、今宵は祭りなのだ。
数日間のあの華やかな盂蘭盆が終わり、秋風吹き始める夏の終わりに、私達の本当の夜祭りが始まる。
かつてかの大聖人が開いた浄土への道程。それは大地に等しく春が訪れ、西からゆっくり花が開くように、この山深い東の果てまで種子を落とし、やがて結実した。
だが遠く昔の戦乱の世に、時の為政者に虐げられ、その実はもがれ、花は散らされた。
しかし、私達の蓮華は決して絶えることはなかった。狭く浅い凶眼では決して見ることのできない泥の中で、数百年の間ずっと弛まず花を咲かせてきたのだ。
だから、この村の本当の祭は誰にも見られず、誰にも話さず、誰にも聞かれることなく深い闇の中で執り行われるのだ。
もっとも、とうの昔に政治は代わり、村の連中は皆等しく同志であるし、近隣の村の者達も、口には出さないが周知の事実として、誰もが黙認と非干渉とで消極的に、最大限の協力をしてくれている今となっては、こうもコソコソとやる必要があるのかと疑問が無いわけではないが…。だが何はともあれその家中の喧騒に紛れて、私は久々に離れの外から抜け出せてきたわけではあるが。
だが、あまり悠長に物見遊山もしていられ無い。あと一刻もすれば漆黒の闇に音も無く家々の戸口は開き、わずかな明かりの中、沈黙の行脚が始まる。
そうなれば私を幽閉した親族はもとい、村の連中にもこの哀れな体たらくを見られてしまうことだろう。
そしてそれよりも、私の病み衰えた肺胞は、この祈り満ち溢れ、飽和寸前の夏の大気の下ではあまり長くは持たないであろう。
それよりも前に…私は振り返り、背後に広がる山道を見上げた。
深山幽谷に囲まれた我が村では古来より、この小山から伸びる、一本の峠道だけが外界との唯一の玄関口であった。
…ちなみに、そのような隔絶された土地だからこそ密かな信仰と独自の文化が色とりどりに咲き誇ってこれたのであろうと、わたしは確信していた。
だが、その唯一の道も、冬季には真っ白な絶壁に囲まれ、アルプス山を踏破せしハンニバルよろしく、突破するのも至難の技になるのだが…。
もっとも今では文明開化様々、このような僻地にまで鉄のレールが敷かれ、連山を串刺しにしたようにぽっかりと開いた坑道は、危険と覚悟を伴う旅路を遥かに容易にしてくれた。
だからこそ、行けるのだ。この身体でも!
あとは道づれの手を、そっと引くだけだ。
私は胸に手を当て、長い坂道を登っていった。
17
一羽のカラスが私の目の前を横切った。
低い羽の音が低い空に響き渡ると、私は真夏の白昼夢から目を覚ました。
気づけば午後の日差しの中、かつて秦一郎が佇んでいたその場所で、私は不自然にも過去と全く変わらぬ町並みをぼーっと眺めていた。
流れ出る汗を拭いながら、あの男の幻影を追うように、後ろを振り返ると、相変わらず駅に向かう一本道が、上へ上へと伸びていた。
今や明確に夢は記憶へと変わり、ここは私にとって、勝手知ったる懐かしき場所である様に感じた。
私は再び視線を戻し、陽炎に歪む村を死人のように歩き出すと、戸口の隙間から重たい薫香が漂ってきた。
この村の極めて典型的な、やたら高低差のある田畑に並列した、大きめの平屋。
その北国の分厚い屋根の下、風雨と虫害で穴だらけになった引き戸は開け放たれ、ひび割れた土間には無数の足跡があり、僅かながらに人の匂いを感じさせた。
多少、気が引けたが座敷に上がらせてもらうと、使い古されたゴザの上に小さな香炉が置いてあった。
先ほどの香りはここから流れてきたのであるが、いつ誰が香炉に火を灯したのであろうか?
私は今一度部屋の中を見回した。
ちゃぶ台の上にはまだ冷めていない湯飲みや、乾いていない茶菓子が置かれ、まるで今さっきまで誰かがここで生活していたような雰囲気だった。
やはり誰か居るのだろうか?
それとも初めから、私が認識出来ないだけで、この村にも私の家のある街にも大勢の人々が、この時この瞬間を生きているのだろうか?
私は思い巡らせながら、壁の隅に貼り付けられてある真新しいカレンダーに目をやった。
『昭和十三年八月』
やはり感じていた違和感は当たっていた。
ここは、秦一郎が生きた世界。私の暮らしていたあの街より、80年もの時の隔たりのある村なのだ。
手紙を目にしてから追尾徹底、あらゆる事象が私の理解と常識を超えてしまっている。
まるで悪い夢でも見ているようだ。
そうか…夢か…!そういう事なのか。
「胡蝶の夢…。」
私は驚くより先に合点した。そして独りそう呟いた。
昨晩、ウィスキーを舐めながら時計を見つめ、あれこれと思案にふけっていたことを思い出したのだ。
まさしくこれは胡蝶の夢、いや秦一郎の夢なのではないのだろうか?
秦一郎は嘆き疲れて眠りこけながら、遠い時間の向こうを旅している。
…私という吟味な別人に成り替わりながら。
『夢を見る』とは即ち、『記憶の整理』である。
故に私という真っ白な人間が、彼を苦しめている彼自身の記憶を追想して、『誰かが見た自分』を瞼の裏の暗がりから傍観しているのではないだろうか。
そこまで考えてみると、背筋がぞくりと逆立ち、言い知れぬ恐怖に苛まれた。
古い神話で、かの偉大なヴィシュヌ神はこの宇宙の夢を見る。それこそが我々の生きる現実であり、大神が夢から目覚める時とは即ちこの世界の終焉を指すと、遠くインドの人々は考えていた。
…もし、本当に私が彼の夢なれば、彼が目覚めた時に私は何処に居るのだろうか?秦一郎に戻るとするなら、私というパーソナリティは彼の魂に食い破られ、その血肉となって終わってしまうのではないだろうか。
先ほどまでの軽快な歩調が嘘のように、私の身体は強張り震えた。
現実や真実とやらがどうあれ、すぐ近くに逃れ得無いエンディング、つまるところ『死』を感じたからだ。
どんな形而上の概念よりも、べっとりと脳髄にこびりつくものは、やはり生物的欲求であった。
消えたくはない。
何よりも強くそう願った。
ともあれその方法はもとい、全ては推測の域を出ない今、そうであるという確証は何もない。
だからこそ必要なものは一にも二にも情報と、そこから得られるエビデンスだ。
その第一歩として、そもそも件の秦一郎とは今何処に居るのだろうか?
今手近で、一番可能性があるのはやはりあの離れであろう。
私は早々にこの平屋を飛び出すと、村の外れにある小高い丘を目指していた。
…そこにあるはずだ。彼がこの村で暮らした生家が!
手紙と夢から出発した私の旅路は今や自己の生存を賭けた戦いへと大きく変容していた。
だからこそ私は歩き続けなければならない。例え鋭い槍衾が私を取り囲んで居ようとも。
18
小高い丘の上に陰鬱に横たわる大きな日本家屋。
この辺りでは珍しい瓦葺きの屋根を持つ、立派な佇まいは、古めかしく厳かであり、私は乾いた喉を何度も飲み込んだ。
間違いなくここが、彼が産まれ、そして縛り付けられていた懐かしき我が家だ。
だがこの屋根の下、いかに扱われようと、先の見えた彼は抗うことを諦めていた。自分はここに押さえつけられ、血を吐き死んでいっても一向に構わなかったのだ。
ただ、彼女だけが自由になれればそれで。
私はその門をくぐる前に、そっと後ろを振り返ると、汗つゆに濡れる前髪を優しくなでる小さな風が、丘を駆け下り、稲穂の海原を波立たせていた。
そこに小さな小島のように、ぽつぽつと家屋の屋根が浮かび、先ほど下ったあの峠の入り口まで続いていた。
「あの山を越えれば…連れていけたのだ」
ふと口から滑り出したこの言葉は、私の感傷か宿主の寝言か…。
どちらにせよ、私たちにはあの小山は大きな鉄条門であり、頂に伸びる入道雲は天橋立かヤコブの梯子のように白く光り輝き、美しかった。
いつまでも後ろを向いたままではいけないな。
そうだとも。
私は語ってもらわなければならない。この物語のその続きを。
扉を開くと耳鳴りがするぐらいの静寂の中、古木と僅かなカビの匂いが漂ってきた。
ガランとした広い廊下は、私のやや荒い息遣いをことさら煽り立て、チリひとつない掃き清められた床は、ヒステリックな重苦しさを一層際立たせた。
叫ぶような音を立てながら軋む床板を踏みしめながら、そっと居間へと続く襖を引くと、殺風景で無味無臭な床の間と、何代目かわからない家長の写真や肖像画がやたら高圧的に私を囲み、蔑んでいるだけであった。
ひたすら耳をそばだて、体面上の虚勢に満ちた、あらゆる方位からの攻撃に対しても鉄壁の守りを崩さない、冷たい石の要塞。そんな言葉がピタリと当てはまる家の雰囲気は、例え私が秦一郎とは全くの赤の他人でも、たちまちに気負いして辟易してしまうような、そんな場所だ。
…確かに一族から消されてしまった一郎の、そのまた血も繋がらぬ配偶者が、彼亡き後も暮らしていけるような和やかさはここには無さそうだった。
だが…。隣の座敷にも目を通したのだが、まだ夕暮れ前だというのに蚊帳が貼られ、やや乱れた寝具が敷いてあった。
てっきり、一郎以外の病人か、はたまた昨晩少し飲みすぎてしまったのかと、さして不審には思わなかったが、屋敷の中のあちこちに布団が出され、障子を燃やす午後の日差しが無ければ、夜半過ぎかと見まごうばかりの光景であった。
「白夜…なんてことは無いか」
あまりの異様さについ毒にも薬にもならぬ言葉が口から飛び出てしまった。…気を悪くしないでくれたら助かるのだが…。
だが、屋敷の突き当たり、小川沿いの粗雑な台所で幸いにもこのなぞに対する答えが見つかった。
暦である。
柱に打ち付けられた、当時の情勢とプロパカンダを如実に映し出すカレンダーに、八月の終わりを示す日付が記されていた。
そう、今日は一郎の言うところの『本当の祭り』が開催された日付。
つまるところ、私が最後に見た彼の夢の続きが、今ここに秦一郎ではなく私の目を通して映し出されているのだ。
夜通し行われた秘儀の後、明け方過ぎに帰宅した彼らは、疲れ果て白日の下しばしの安眠に耽っていたのだろう…。
そしてそのことを理解するとともに、ついに夢の境は崩れ去り、今や二つの世界が重なろうとしていることを否応が無しにも、自覚させられた。
賽は投げられ、決戦の時はすぐ近くまで迫っているのだ。
秦一郎が、欠伸をしながら日月の下に影を描くか、このまま私が羽を広げ、ひらひらと独り舞い続けるのか…。
19
そういえば…。
あらかた見回り気がついたのだが、あの女性はどこで暮らしていたのだろう?
見回った限りでは、それらしい部屋はどこにもなかった。
それとも離れで一郎につきっきりの看病をしているのだろうか?
いや、夢から続く私の奥底で眠る彼の心にある深い孤独感から察するに、それは考えられそうにない。
「ふふっ…。」
私はまた自嘲した。
それを気にしている自分が、いや、秦一郎の彼女への執着心が、根元の部分を通じて、垣根を越え、私の庭にまで芽吹いているその様が、何だかやはり、私の存在というのが、いかに吟味で薄っぺらく感じて笑えてきてしまったのだ。
そうやって、自分自身と彼を笑い飛ばす私の様子に、寝ぼけながらも宿主はやや立腹したのか、私の知覚の矛先をある一点に、やや強引に向けていった。
そこは今いる部屋とは廊下を挟んで対岸の、古い引き戸が設けられた、おそらく物置のような場所だったのだが、私の意識はそこに惹きつけられた。
あからさまに建て付けの悪い、粗雑なドアをやや苦戦しながらも開けると、意外にも小綺麗にされた3畳ほどの部屋には、狭いながらも活き活きとした生活感に溢れ、そして部屋いっぱいに、あの、夢に見た青い着物が大切そうに掲げてあった。
…恐らく、これは嫁入り前からの一張羅なのだろう。
私はただそこに茫然と佇み、あの堂々とした着物そのもののように気高い彼女と、そしてそんな彼女を命懸けで守り、連れ出そうとした秦一郎の、双方の深い気持ちを知ると共に胸が熱くなった。
…やがて朝が来て、私は彼と代わり、永久の眠りに就こうとも、彼がそれほどの人物であるなら、それでも良いような気もして来た。こうして結局、右往左往するだけで何も出来ぬ私より、病床の彼が遥かに美しく思えたのだ。
ほんの少しだけ、緩んだ眉間を乗せながら私は離れに向かうことにした。
改めて会ってみたくなったのだ。鏡の中の自分自身に。
渡り廊下を踏みしめるたびに空気はキーンと冷え込んでいった。
あんなにも騒がしかった虫の声は、身震いしながら進む私の様を見守るように、誰一人声をあげるものは居なかった。…あるいは、単に私の耳には届いていないだけなのかもしれないが…。
すぐに風雨で腐食した、だがまだ新しい木戸が行く手を遮った。
腐食しながらもその作りは、しっかりとした重量を感じさせるもので、ここで内外の世界をきちんと区切り、お互いの干渉を極力避けようという意図で作られたのが見て取れた。
天頂から西に傾いた日差しに照らされ、宙を舞う埃が光り輝き、わずかな風に揺れならがらどこかへと自由に飛び去っていった。
彼らもこんな静かな午後を見ていたであろか?…そしてこの廊下から見下ろす景色に、囚われの夫婦は何を思っていたのであろうか…。
20
斜陽差し込み、明り障子はまるで燃えているようだった。
ついに、私は辿り着いたようだ。
あの何度も繰り返した夢の続きに。
母屋とは違う、くたびれた行き止まりにわだかまる空気は、確かに身体中に重苦しく纏わり付いた。…まるで一郎の目に見えぬ怨念のように。
「コホンッ」
その雰囲気にたじろぎ、思わず咳払いをしてしまったのかと思った。
だが違う。その音は私の気管よりももっと深いところで鳴り響いていた。
そう、咳をしたんだ。
誰かがそう呟いた気がした。
私は辺りを見回し、部屋の隅に丸められた、くしゃくしゃの布団の隣に、見慣れた紙束を見つけた。
その紙が、私が持ってきたあの手紙と同じものだと気がつくまでそう時間はかからなかった。
そこには何枚にもわたって、彼の痛烈な思いが書き殴られていた。
あの日、村の秘儀が行なわれる隙を狙い、彼女を連れ出して、闇夜の山道を駆け上った。
深い夜は、私の距離感を狂わせ、その闇が永遠に続くように思えた。胸は痛み、悪寒に震えたが、引く手に伝わる冷たく湿った感触が、私をどこまでも奮起させた。
開通したばかりの鉄道沿いに山を越え、夜明過ぎには一つ先の駅舎にたどり着く。そこで朝一番の列車に彼女を乗せるまで、私は倒れるわけにはいかなかった。
だんだんと視界がひらけてくると、もう火の影一つない、最寄りの駅が見えてきた。ここから鉄道沿いに…。とりあえずは順調だ。
「コホンッ」
安心して思わず咳払いをしてしまったのかと思った。だが、その音は私の後ろから絶え間なく聞こえてきた。
湿った手がいっそう冷えていた。
振り返れば、夏の星の下、苦悶する我が妻が、必死に胸をおさえていた。
思えば当然の成り行きだろう…。
私は、今ではどこまでも鮮明になった一郎の記憶を呼び起こし、哀れみ、ひとり心の中でそう呟いた。
結核患者をたった一人で介抱し続けたのだ。
感染、発症しないほうが不思議なくらいだ。
結局、一郎は彼女に肩を貸しながら来た道を下り、村人の集まる表通りとは反対の、小川沿いにある獣道からこの離れに戻ってきた。
絶望しきり、意気消沈する一郎を前に、彼女は苦痛に息を荒げながらも、自分も到底助かる見込みのないこと、一郎亡き後、独り病に蝕まれるくらいなら、その手で自分の命を終わらせてほしいことを涙ながらに訴えた。
これは、気丈にも病状を隠し、一郎を支え続けた良妻の最後の我が儘であった。
一郎はしばし考え込むと、それならば共に逝こうではないかと、哀しく笑いかけると、妻にあの着物を着せ、私もすぐに追いかけるからと涙しながら、最愛の人を絞め殺したのだ。
だが、ふと疑問に思ったのは、それならなぜ私がまだ生きていているのか?
それは、彼がその後、自らの命を絶つのを思いとどまった何よりの証拠だ。
そして、何故一郎はわざわざ東京に逃亡し、病と闘いながら、失意の日々を送ったのか…。
結局、覚悟がつかなかった?
いや…私の中に脈打つ彼の鼓動は、この八方ふさがりの暗雲の中、愛する二人で冥福を楽しむことだけを理想としていたに違いない。
それに…。私は手紙の最後のページに眼を通した。ここだけは他とまるで様子が違い、辛うじて読めるような歪んだ字で、書き殴られたその様は、彼の動揺…いや、錯乱具合を如実に示していた。
あぁ…。なぜこんなことになってしまったのだろう?私は…。タスケタマエ。タスケタマエ。
タスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエタスケタマエ
甘露尊よ
甘露所生の尊よ
甘露能生の尊よ
甘露胎蔵の尊よ
甘露成就の尊よ
甘露威光の尊よ
いま、あいにいきます。
あなたとともにいきましょう。
錯乱の中、明らかに阿弥陀仏に助けを求めている様子だった。
私は思わず、携えてきた金色の仏像に視線を向けた。
『いまあいにゆきます』…。これを持ち出したのは、やはり秦一郎だったか…だがそれにしても、問題は何処から持ち出したのかだが…。
いささか私も困惑してきた。疲労困憊、秦一郎同様、願わくば仏陀の御力にでもすがりたいものだとその仏像をまじまじと見つめ、小さく「タスケタマエ」と呟いた。
これは真宗系に広く伝わるお題目だが、とりわけこの村の秘教では重要視されていた。
「そうか!」私は思わず叫んだ。
そう秘教だ!…これは恐らく、彼らが本尊として崇め奉ってきたものに違いない!
ならば…あそこに!
私は頭の片隅にある、『あの特別な祭りの夜』の記憶を捻り出しながら屋敷を飛び出した。
何故そうしたのかは自分でもわからない。
だが、村人達が向かっていたその先に、この仏像の本来の居場所があるのだ。
21
記憶を呼び覚ましながら、黄昏時の田畑をひた走る。
するとあの日、この村の老若男女が一心に祈りながらそぞろ歩く様が、ありありと浮かび上がってくるようだった。
彼らが目指していたその場所は、ここへ来る途中、一際「嫌な気配」を感じたあの鳥居の中だった。私の怖気を具現化するように、宵の明星に誘われて、水辺を飛び交う無数の蛍火は、その朽ちた鳥居を、幽鬼の如く不気味に彩っていた。
意を決して進むと、暗い木々に覆われた、土地神を祀る、小さな社があるだけだった。
ここに皆集まって居たのか?…いや、違う。何故なら私の記憶の足跡も、そしてその気配も、この社を迂回した先に続いているからだ。
確かにここの御神体も、それなりに崇敬されていたようだが、本当の目的は、この奥にある秘匿の地への儀装と目隠しとして、信者達に建立された、哀れな神様だよ。
…一郎がまだ一族の嫡男として皆の期待を集めていた頃、身内の誰かが言ったそんなセリフが、私の脳裏を少し明るくした。
私はその茜色の木漏れ日により一層、赤みを増した、名も知れぬ小さな神様に一瞥し、この無力な来訪者への小さな加護を願うと、裏手に伸びる、鬱蒼と茂った獣道を進んで行った。
赤い暗闇の中、次第に現れてきたのはぽっかりと穴の空いた岩肌だった。
その穴蔵に鋭角に差し込む西日が、僅かに辺りを照らしていた。
茜色のガマ洞窟。
どうやら先ほどからの感覚は錯覚ではなかったらしい。ここはまさに、黄泉の国の入り口。そんな言葉がぴたりと当てはまる場所だ。
震えながらも森の中の、薄暗い洞窟を進む私は、ウェルギリウスに招かれるダンテか、あるいはやはり、亡き妻探す伊奘諾か…。
いささか神話とは逆に、往路で醜女から逃れ、復路でこうして暗闇に吸い込まれてはいるのだが…。
幸いにも洞窟自体はそんなに深いものではなかった。ギリギリ視界の効く闇の中で、周囲を見渡すと、ただがらんとした岩肌だけが、虚しくわたしの足音を反響させていた。
当然と言えば当然だ。儀式の形跡はその日のうちに徹底的に隠滅され、信者たちはケロリとして、その存在そのものを忘れ去ったかのように決して口に漏らさず、来年の夏の終わりまで決して近付こうとはしないのだから…。
私は収穫の少なさにやや落胆しながら踵を返し、外へ出ようとしたその時、ある感覚が鼻の先から生じた。
懐かしい…そして恐ろしい甘い香りが、私の背後から漂ってきた。
先ほどからの異様な気配は私のすぐ後ろ、岩肌の奥の影から私を見つめているようだった。
「振り返るな!」
急に私の心中に、最後の抵抗を試みるように絶叫が響き渡った。
心底、怖かった。何となく、私達の終わりが来たことが理解できた。震え、今すぐにでも走り出したかった。だが、私はゆっくりと振り返る…そう、もう何も出来ぬ嬰児では無いのだ。
22
振り返って、その香気と気配をゆっくり辿ると、薄暗い穴蔵の隅に妙な違和感を感じた。
恐る恐る近づき、目を凝らして見回すと、やはり何かがおかしかった。
漠然とではあるがその言い知れぬ違和感を、この洞窟と、それを訪れていたであろう何者かが、文字通り闇の中に隠そうとした痕跡が微かに感じ取られ、それがかえって不気味な不自然さを醸し出していた。
やはり何かあるんだ…。
私はまるで、現場検証をする名探偵にでもなったような、やや酔狂な心境で、あたりを闇雲に手探ってみたが、所詮は素人…。その犯人を走査線上に浮かび上がらせることなど出来るはずもなく、散々動き回ったツケの…無意味な徒労感に苛まれてその場に乱暴にへたり込んだ。
すると…
ガランッ
やや後方でやや重たげな音が岩肌を震わせた。
見れば私の頭より一回り小さいぐらいの石が、足元に転がっていた。
目線をゆっくり上げていくと、そこには転落した石がすっぽりと収まるであろう深淵が、こちらをキッと睨み返していた。
私はそっと、その小さな穴を囲む岩壁に手を伸ばした。
…思った通りだ。私は指先で摘んだ小石を見つめながら、独り合点した。
洞窟のあまり効かぬ視界の中で、巧妙に、慎重に隠されていたが、ここだけは周りの岩壁とは違い、人の手により、丁寧に積み重ねられた石垣のような物だった。
そして幸いにも、古式の技法に則り、セメント等の接着剤を使わず、そして城壁などに使われる石垣とは異なり、1人の人間が何とか動かせるだけの大きさの石しか使われては居らず、構造上、支点となる石を数個どかせばまるで積み木のように一気に倒壊するような意匠であった。
つまるとここれは、一人かもしくはそれに近い少人数で作られ、一見してもそれと気づかれぬように、そして素早くかつ定期的に壊せるように計算されて構築されている、偽装的な暗幕なのだ。
だとするなら…。この壁の奥こそが、村の本当の祭壇であり、如来が本来あるべき場所なのだろう。
私は再び仏像を取り出し、ゆっくり目を閉じ黙禱した。
…初めて、本当に祈った。そんな気がした。
そして注意深く支点となる石を探し出し、そっと手をかざした。
ガラガラガラッ…!
軽く触れた途端、長年、この壁の奥にあるものを一人静かに守ってきたゴーレムは、その任から解き放たれ、倒れかかるように音を立てて崩れていった。
その振動音に踊る砂塵の中に…あり得ないはずの甘い香りが漂った。
同時に、私の全ても音を立てて崩れ去り、砂塵の中に消えていった。
白いものが見えた。
流れる黒髪が見えた。
そしてそれは、身の感情を抑えきれないように、下から上へと朱の滝がその柔肌を染め上げていた。
まるで生きているように眠っていた。
口元は優しく、笑みを浮かべているようですらあり…。
黄泉の国の奥深くで私を待っていたのは、命摘み取る伊弉冊姫ではなかった…。
そこには私だけの仏が蓮華座の上に横たえていた。
あぁ…やっと揃った…。これで…。
私の中の彼が…泣いていた。
悔恨、憂い、歓喜。様々な感情が彼の心の片隅から私を支配していった。
やっと理解した。前々から感じていた様々な感情は、私のものではなかったと言うことを…。
ぼんやりとした意識の中、どうやら彼は懐から何かを取り出し、眠りこける冷たく美しい手のひらに、金色の輝きをもたせた。
それは辛うじて届いていた、薄い西日に反射して、何よりも強く輝いていた。
23
…少しばかり眠っていたようだ。
日付が変わる頃、空腹感と共に目を覚ました私は、2階の散らかった廊下にぐでんと寝そべっていた。
私はまたここにいた…。
夢から醒めても、また同じ夢を見る。
八月に捕らわれ、月と日に蝕まれ続ける。
沈まぬ朱夏がそこにはあった。
なんとなしに上を見た。
埃と脂でベタつく天井から、ボロボロの麻縄が、輪を作りながら揺れていた。
…そうだ。数年後の八月の終わり、秦一郎はここで死んだのだ。
そして、最愛の人の元へと私を誘い、そこで思いを遂げたのだ。
皮肉にも最期の後の彼が望んだことは、手を取り旅立つのではなく、手を握りしめてその場に寄り添うことであった。
彼は夢見る人ではなく、夢忘れられぬ思いであった…。では、彼から抜け落ちた私は蠢く骸か…?いくら問うても、秦一郎は私の元には居なかった。
それに何故、彼はあの洞窟に妻を隠した後、この家に住み着いたのであろう?
…前者は容易に想像がつく。
あそこは、1年に一度しか村人たちが訪れない上、信心深い彼らは、あの石垣の中に本尊があると、どの様な事があっても疑わないだろう。
それに…。あのまま居れば、秦夫妻は存在自体を抹消され、供養はおろか、墓場すら彼らには割り当てられないであろう。
その点、あの洞窟に安置しておけば、彼女の命日に村人たちは、否応が無しにも念仏唱え手を合わせに来る。
韋提希を幽閉した阿闍世は、彼女の冥福を切に願っていたのだ…。
問題は後者だ。わざわざ都内で絶望的な朝日を拝むより、彼女の眠る故郷で人知れず果てた方がよっぽど容易であるし、何よりも彼自身がそう強く望んでいた事であった。
これに対し今まで何度も彼の内を探ってみたが、そこだけは頑なに口を割ろうとはしなかった。
ただ一つ、明確なものは…。
秦一郎はこの廊下から続く、二階の部屋の壁に仏像を祀り、毎朝毎晩ひたすらに泣き、祈っていたことだけだった。
私はふらつく足をなんとか進めて、今一度その部屋に向かった。
そこには崩された土壁の向こうに、先ほど故郷に戻したはずの如来仏が、今なお燦然と輝いていた。
また振り出しに戻ったのか…。
一瞬、そう思ったがその周囲の土壁が、まるであの洞窟の石垣のように、一面倒壊している事に気がついた。私が崩したのは…たしか三尺四方のはずだ。
いや、違う…。そうだ!ここは崩れ去ったのだ。
私はそれを見ていた…。
彼の最期から数ヶ月、ついに彼は第三者に発見され、近くの寺院に人知れず葬られた。
家は所有者が亡くなり、間も無く取壊された。
沢山の残置物は回収、破棄されたが、壁の中に埋まる仏像と、一通の手紙は発見されるはずも無く、そのまま瓦礫の下に埋もれた。
私はそれを見てきたのだ…。壁の中の小さな暗闇から…。
あの夫婦が知らぬ、最後の最後のエンディングまで…!
彼は涙を流していた。彼女は血を流していた。
私ははっとして今一度、たった一人の相棒を広げ、読み返した。
『提婆の誘いに我亡くし
大悟の君を忘れ去る
迦陵頻伽に耳を澄ませば
響く嬌声耳覆う
逢う魔が時の草むらで
三界燃えて家無くし
山界下りて穴倉探す
日暮らし笑うその日暮らしは
日暮れぬ日々の静けさよ
あぁ求むるは韋提希の
暗く湿った朱夏の虚穴
されど菩提は塔の中
私の浄土は壁の中』
あぁ求むるは韋提希の暗く湿った朱夏の虚穴。
…黄泉の岩肌の奥で愛を囁き合う彼らの、いや、伊奘諾と伊弉冊の死別し、そうなってしまった元々のきっかけは…?
…そうか。だから彼は悔やんだのだ。手にかけなくても良い命を奪ってしまったから…。
間違っていた。
私が彼の中にいたのではない。私が彼の形を受け継いでいるのだ。
私が夏に捕らわれているのではない。私が火の子であり朱夏なのだ。
私が仏を見つけたのではない。私が…仏の中の如来蔵なのだ。
私はそっと合掌した後、金色に輝く弥陀仏を手にした。
「南無阿弥陀仏」
そう小さく呟くと、全身の力を振り絞り思い切り地面に叩きつけた。
ガシャッ…
鈍い音が響いた後、中から泥のような…黒い塊が姿を現した。
「おはよう」
私はそう独り呟いた。
辺り一面、白い光に包まれた。
朝が来たのだ。
千の産屋から無数の命が目を覚まし、蠢く朝が。
やがて日は傾き、真っ赤に輝く血潮は西の彼方へと安寧の旅に出る。
しばしの夜には月と星とが我らを優しく導き、やがてまた日が昇る。
私にも暁が訪れたのだ。
死ぬために産まれる初めての朝が。