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朱夏  作者: 八月一日一歩
1/2

前編

1


いつでもそうだった。

何となく生きて、何となく日々を過ごしてきた。

主義や思想もなく、形なき傍観者を気取り、そんな盲目な自分を何度も暗闇に追い落としては、そこに「誰かが見た」自分…極めて受動的なパーソナリティを、そこにできた隙間に無理やり押し込んでは、「自己の代理人」に仕立て上げ、この気怠い身体の全てを任せていた。

ただただ周囲の空気にそれとなく体温調節をして毎日を卒なく送る…

滑稽なことだが、そんな不完全燃焼な惰性に対してのみ、全力で専念して生きてきた。


寝静まった街に不快な咀嚼音が聞こえる。

その単調な不協和音の中で、その音調にハミングする薄汚れたエアコンの重低音が響き渡る。…これが今の私の生活の基盤であり全てだった。

都内の寂れた下町。駅前のロータリーから伸びる一本の街道沿いの、何処にでもある小汚い牛丼チェーン店。

ふとガラスに映った、独り黙々と丼を掻っ込む自分の姿は、草木も眠る丑三つ刻にこそ似つかわしい、眠らぬ死者そのものだと、自分自身に軽蔑の眼差しを投げかけた。

私は考えることを放棄し、目の前の事象と、そこから沸き起こる食欲に任せて、半ば冷めかかった米飯を強引に胃袋の中に押し込み、逃げるように店を出ると、やがて空は白み始め、乱雑な駅前の小道に太陽の季節を告げる青々とした熱気が漂ってきた。


明け方近く、へとへとになりながら、薄明かりの中で眠るこの街と同じ、誰も居ない家路に着く。

駅前にありながら、今の私のように誰の目にも留まらず、酸化し朽ちかけている一軒家だ。


ただいつものように玄関をくぐり、ただこれから迫り来る曙と、ただこれから迫り来る雑踏から、まるで吸血鬼か、大罪人の指名手配犯のように逃れたい一心で、家の古い鉄扉を固く閉ざした。

大罪人…そう、大の男が夢希望なく、なんら社会的な生産活動に従事せず、のらりくらりと酸素を浪費しているこの生活は、この国にあってはまさに大罪人に等しいのではないだろうか?

彼の偉大なる「神の見えざる手」は、日本人の善かれ悪しかれ、持ち前の生真面目さで大きく歪んでしまった…それ故に、私は誰からも認知されぬまま…自分でも知らぬ間に、誰しも認める罪とやらを背負わされてしまっているのだろうか?


そんな世に対する惨めな形而上の恨み節で、とどのつまり自堕落な己を慰めながら、年季の入った革靴を脱ごうとした矢先…ふと背後に視線のような…妙な違和感を感じた。その妙に懐かしく、適度に緊張感のある感覚に脊髄から心地よい痺れが立ち昇った。

ゆっくり後ろを振り返ると、久しく使われていなかったドアに付随しているポストに、1通の手紙が投函されていた。



2

私はそのポストの隙間から僅かに顔を出す手紙を何となく眺めていると、それだけで妙にフワフワと浮ついた…まるで微睡みの中のような…もっと下世話な例えをするのであれば、このような徹夜明けに、強い酒を思いっきり呑み下すような…そんな全てのパースラインが、ぐにゃりと曲歪するような…不思議な感覚だった。このいつものカビ臭い玄関が、まるでおとぎ話の森の中のように感じられた。


それに手を伸ばすと、言い知れぬ不思議な酒気にあたり、何故だか指先が震えた。

その手紙を手に取り、まじまじと見つめるとよりいっそう、先ほどからの妙な浮遊感は強くなり、同時に疑念が沸き起こった。

…というのも、その紙自体が妙に黄ばみ、角や端部はことごとく破れていて、とても数日間の間に出された手紙とは思えなかった。

差出人も不明で、本来ならここの住所が記載されるはずの宛先すらも書かれてはおらず、私はさらに困惑した。

と、言うのも宛先が無い手紙が届く理由は、誰かが直接、このポストに手紙を投げ入れる以外に方法が無いからだ。

「…気味が悪いな」

思わず独り言を漏らした。

誰が何の目的で、わざわざ我が家の玄関前まで足を運び、手紙を投函したのか分からない以上、あまり良い気分にはなれなかった。

そしてその疑念を晴らす唯一の方法は、ただただこの封を切り、中に書かれているであろう何らかの文章を読み解けば良いのだが、私は簡単には動けなかった。

先ほどからの妙な感覚がさらに勢いを増し、それに呼応するよう脈拍が早まり、身体から脂汗が滲み出た。

何か…この封を破ってしまったら…

言葉にならない緊張感で胸がいっぱいになりつつも、心の奥底から動き出す「別の自分」に促されるように、恐る恐る、恐らく長い間、開けられたことの無いであろう封を切り、中にあった手紙に目を通した。



『私の浄土は壁の中』


…たったそれだけだった。

たったそれだけの意味が分からない一文なのだが、私はぞくりと、背筋が凍りついた。

何か裸の自分を…いや、自分自身の本質を、硬くごつごつした掌で強く掴まれたような、そんな逼迫した威圧感に包まれながら…やがて…その名状しがたい(かいな)にゆっくりと首筋を締め上げられるように、私の意識はその場でプッツリ途切れた。


3

斜陽差し込み、明り障子はまるで燃えているようだった。

悲しかった。ただただ悲しかった。

湿気を伴なう熱気に飲まれながら、私は多分、泣いていたんだと思う。

涙を飲み込む私に応えるように…真新しい畳から昇り立つ、夏の匂いのその真ん中に…それはいた。

青田の水辺に咲いた青蓮華…そんな光景を彷彿とさせるように、青々とした衣の先から白く艶かしい四肢を伸ばした1人の女。

身体をくねらせながらその苦悶のオルガズムに身を任せていた。

首筋から伝わるその脈動が激しくなるにつれて、私の涙は止めどなく溢れ、その傷だらけの胸の中がズキズキと滲みて、とにかく痛かった。

やがてその脈打つ叫びが弱々しくなってゆき、彼女は何かを絞り出すように口を大きく開けると、一筋の涙を流しながら…静かに目を閉じた。


私は震える指先で、彼女のその白く艶やかな首筋をより一層、強く締め上げていった。

深い悔恨と悲しみの中に、背徳的な高揚を感じつつ私の意識は再び闇の中へと沈んでいった。


酷い喪失感の中、視界が開けてくると、私は再び泣いていた。視覚化されたその心中のように、壁の中にぽっかりと空いた暗がりに向かって、爪が食い込み痛みを感じるほど、拳を握りしめ泣いていた。

今すぐにでもこの場を離れて走り出し、谷底か絶壁の海へと飛び込んで、この…どうにかなりそうな頭をかち割ってしまいたかった。

だが私は動けなかった。

歪な形の壁の穴からこちらを見つめる何かがあった。

その存在を私は酷く恐れていた。

私の辛うじて形を保っている、人としての薄い皮を無惨にも剝ぎ、剥き出しの醜い醜い自分の魂を否応が無しに照らし出すその眼光を酷く恐れた。

…と同時に、それを心の底から渇望していた。

だからこそ、咽び泣きながら、私の足はこの場に固まったまま、祈り、求めているのだろう。

…もう少しだ。断頭台に掲げられた刃が鈍く、優しく振り下ろされるその刻まで。

やがて西日が差し込み、部屋にたくさんの長く伸びた影を作った。

汚れた窓硝子を透過するその光は、面する砂壁に沢山の模様を描いた。…それはまるで何かの幾何学模様か…やがて陽はさらに傾き、壁の中にぽっかりあいた暗がりに、直線的に差し込んだ。

あぁ…どうして…散乱して黄金色になった光はさらに輝きを増し…反対に壁の中からとめどなく溢れた。

やがて眩い閃光は辺りの景色を全て搔き消し、いつの間にか私は真っ白な闇に包まれていた。



4

再び目を開くと、そこは見慣れた玄関だった。

私は黄ばんだ手紙をくしゃりと握り締めながら、そこに寝そべっていた。

私はどうやら手紙を一読したまま、気を失っていたらしい。…ぼんやりと意識と思考が繋がってくるにつれて、現状を理解すると同時に、強烈な吐き気が五臓六腑を駆け巡った。

身体は小刻みに震え、冷たい脂汗が額からじんわりと滲み出た。

私は半ば反射的に、よろよろと廊下を這い回ると、なんとかトイレへと辿り着き、便器に向かって、変わり果てて酸っぱくなった牛丼を胃袋からドバッとぶちまけた。

ぷぅんと鼻をつく悪臭が辺り一面に広がると同時に、いくらかすっきりとした私は、先ほど見た妙に生々しく、また、心の奥の奥を抉るように掻き乱す夢のことを思い返していた。

…そう、思い返せるのだ。鮮明に…あの時の情景は元より、自分自身や相手の些細な表情、感情に至るまで…

そして、焼き付く様に残る陰惨な映像に、私は不可思議な既視感を覚えた。

そして、思い返すうち、夢の中の自分をトレースする様に、腹の底から噎び泣きたい衝動が、深い喪失感を伴って私の胸を支配した。

…いつしか私は、堪えきれなくなっていたようだ。

悪臭漂う象牙色の陶器に、縋るようにもたれかかりながら、小さく声を押し殺して泣いていた。


暫くそこで震えていると、全てを出し切った私は、肉一枚まとうその下を駆け巡る、毒々しい何かを文字どおり全て、水に流してしまうと、形容しがたい虚脱感に半ば惚けながら、ふと、換気用に開けた小窓に視線を合わせた。

いつしか太陽は天頂から大きく傾き、空はほのかに、赤みを帯びていた。

昔ながらの白熱球のような、温かみある優しい空の光が、小窓のすりガラスを通り抜け、汚物で汚染されきったこの部屋を、少しばかり浄化した。

私はその小さな小さなカタルシスにより一層、我を忘れて魅入っていた。


それはまるで…「あっ!!」


私は思わず声をあげた。

それは外の光が私の視神経を伝い、そのまま脳細胞の1つ1つを刺戟しながら走り抜けていったように、私の脳裏に先ほどの夢の1幕を浮かび上がらせた。

「あの窓の景色は…」

気がつけば私も走っていた。

つい数十分前まで、歩くことすらままならなかったのに…不思議と足が動いた。そして、そんなことも忘れて階段を駆け上がり、2階の一番端にある、破れかかった襖戸を開け放った。

「間違いない…この部屋だ…」


5

襖を開けるとそこは、すえた匂いのする暗闇だった。

静止した埃まみれの空気が、肺の内側にへばりつき、私は小さく咳払いをした。

この部屋に入るのはいつぶりだろうか…

2階の一番奥にある、四畳半ほどの和室には、薄暗がりの中でも一目でそれとわかるほど、沢山の物が置かれていた。

使わなくなったクローゼットや、いつ頃からあるのかもわからない古い桐箪笥が、無計画に建設されたビル群のように乱立していた。

足元には灰白色の綿埃に彩られた、大小様々なダンボールやプラスチックケースが床一面に積み上げられ、足の踏み場も全くといっていいほど存在しなかった。

私は長い長い時間の中で、その流れに取り残された物達を、このカビ臭い部屋に片っ端から閉じ込めていた。

…まるで無意識のうちに、この部屋を様々な思い出で上塗りし、そしてそれらをそっくりそのまま忘れ去ろうとしていたように…だが、夢の中で見たあの情景が、私の記憶の奥底から一枚の古写真を引っ張り出し、そしてこの部屋へと私を久々に誘った。

私はいがらっぽくなった喉を何度も鳴らし、劣化してすっかり脆くなったダンボールを、そっとどかしつつ、部屋の西側にある赤茶色の遮光カーテンを目指した。

…ただ、変な夢を見た。そこに久しく忘れていた、この部屋が、舞台装置として心の深層から浮き上がってきただけなのかもしれない。

だが、私は確信めいた何かを感じていた。…それが何なのかは、まだ漠然として形になっていなかったが…だからこそ私は、形無き闇に一筋の光を求めるように、錆びついたカーテンレールにぶら下がる、小汚い緞帳(どんちょう)をゆっくりとスライドさせた。

夕暮れ前の太陽が瞬く間に入り込み、この部屋に何年ぶりかの夜明けを告げた。

漂う塵が嬉しそうに反射し、輝き舞っていた。

私はそれを見て…ぞくりと背筋が凍った。

夢の中と同様に、何故だかこの西日がとても恐ろしかった。

そして…やはりと言うべきか、背後から、言い知れぬ威圧感が漂ってきた。

私は恐る恐る、その光線をゆっくりと目で追うと…あぁ…真っ直ぐに対面の壁に向かって伸びていた…。

すっかり黒ずんで傾きかけた、古い神棚の真下、そこを隠すかのように布団や衣類の山が、積み上げられられたその場所が…夢の中でちょうど私が座り込み、泣いていた辺りだった。

やや躊躇しながらも、汗ばんだ手をそっと伸ばして、私はそこに積み上げられた、カビ臭い荷物をガサガサとどかしていった。

相変わらず神経は張り詰め、身体は小刻みに震えてはいたが、存外、私は冷静だった。

…と言うより、半ば無意識にその手を動かしていたように思う。まるで産まれたばかりの嬰児が、手探りして求める何かを掴み取るように…。

そう、少しずつ震えや緊張も薄れていった。…まるでそこにある布地を一枚一枚剥ぎ取ると、私の心そのものも、だんだんと薄く小さくなっていくような不思議な感覚だった。

ふと、夢の中の最後の影像、この奥からほとばしる閃光が脳裏に過ぎった。

このガラクタを全て退かして、奥にある、何らかのものに外界の陽の光を浴びせてしまったら…その慈悲深く無情な輝きは、私の存在そのものも真っ白に塗り潰し、掻き消してしまうのでは無いだろうか?…その時、その光を…私の目を通して見つめる者は、真に私自身なのだろうか?

…黙々と作業を続ける私の身体は、気づけば脳髄の命令系統から独立し、脊髄反射的にその手を動かしていた…それだけじゃない、私を構成するあらゆる電気信号が、私と言う「構造物」を無視して、好き勝手に、まるで遊子の様に動き始めた。

それら無数の小さな意思に感化されて、私は自分自身の心をバラバラに引き裂こうとする昏い誘惑に苛まれていた。

これらを繋ぎ止める、意識の紐一本を、解いてしまえば私は…あぁ、ここに居てはダメだ。

この斜陽に輝く神棚の、その下にあるものが…

私の最後の最後が、解けていく…


6

…少しばかり眠っていたようだ。

日付が変わる頃、空腹感と共に目を覚ました私は、2階の散らかった廊下にぐでんと寝そべっていた。

…昨日の酒が悪かったのであろうか?

…起き抜けのせいか、意識がぼんやりとして、眠る前の記憶が思い出せなかった。

私はただ胃袋をつつく空腹感に促されて、フラつく身体を黄ばんだ壁に介抱させながら、牛歩の足取りで階段を、続いて玄関を抜けると、しんと静まり返った夜の街へと繰り出した。



都内の寂れた下町。駅前のロータリーから伸びる一本の街道沿いの、何処にでもある小汚い牛丼チェーン店。

ふとガラスに映った、独り黙々と丼を掻っ込む自分の姿は、草木も眠る丑三つ刻にこそ似つかわしい、眠らぬ死者そのものだと、自分自身に軽蔑の眼差しを投げかけた。

いつもの機械的で無機質なルーティンを終えると、私はそそくさと店を出た。

いつの頃からか始まった、私の小さな儀式、無意味な伝統…この一連の作業の中だけに、今の私は存在している。そんな気がしてならなかった。

では動きの止まった私自身は、いったい何者なのであろうか…

走り去る車はおろか、人っ子ひとり居なくなった駅前の小さな横断歩道で、律儀にも信号待ちをしながら、そんな孤独な空想の中で遊んでいると、ポケットの中に違和感を感じた。

何と無くその手を伸ばしてみると、中からくしゃくしゃになった古い紙切れが…一瞬、古いレシートか何かが、入りっぱなしになっているだけかとおもったが、これは…

ふと数文字しか書かれていない古い手紙が頭をよぎった。

恐る恐る開いてみると、

あぁ、嫌な予想が的中した。


『私の浄土は壁の中』

あぁぁぁ…頭が痛い…

その文字を見た瞬間、私は私の世界と共に崩れ落ち、がくりと吸殻とガムだらけの路面に膝をついた。

強烈なめまいを伴いながら、私の脳髄は様々な映像を呼び起こした。

数時間前の…一連の出来事や、不思議な夢のこと…2階の奥の部屋で倒れ、ここまでふらふらと歩いてきたこと…そして、恐るべきは同じ映像が、何度も繰り返されながら、一本の時間軸上に構成されていることだった。


…私は繰り返しあの悪夢にうなされ、何度も同じように部屋の前に辿り着いては意識を失い、覚醒すると決まって、あの店で黙々と食餌をとっていた?

…いや、そんな馬鹿なことがあるか!

ただ数時間前に変な体験をしてしまったので、私の認知バイアスが少しばかり誤作動を起こして、あたかも何回も体験しているように錯覚しているだけなんだ!

あぁ…考えれば考えるほど頭が変に…いや、既に正気を失ってしまったのか?

だってそんなことおかしいじゃないか!

1人の人間の人生に、そんなことがあるはず…1人の人間の人生…1人の人間の人生だと!?

仮に本当に何度も同じ行為を繰り返しているとすると、それはどれほど日数になる?

…あの牛丼屋、あの店が建つ前は、私は同じ場所にあった定食屋に行っていた気がする。

…その前は?この横断歩道が出来る前、駅のロータリーが整備される前は?

「あぁぁぁ!」

私は喉が擦り切れんばかりに叫んだ。

記憶を辿っていけば行くほど、まるで逆再生したドキュメンタリー映画のように、この街の時間と共に流れていく変化が、鮮明に思い出せたからだ。…もし、それが実像なら、私の方が虚像ということになってしまう。

相当の時間の中に身を置きながら、ただひとりそこから切り離され、ゼンマイ仕掛けのように、ただただ同じ動作を延々と繰り返していただけになる。

…それなら私とは何なのだ!?

もはや人ですら無いのではないか!


いや、違う!ただの正気を失った哀れな男の妄想…そうだ!そうであって欲しかった。狂っただけならどんなに幸せか…。そうだ狂ったんだ!おかしくなっただけなんだ!


私は発狂しながらひたすらに走っていた。

足はもつれ、何度も転び、擦り傷だらけになってしまっても、そんな事でこの足を止める気にはならなかった。

錯乱状態で走り続けていても、辿る道筋は決まっていた。私の2つだけの活動拠点を結ぶ、往路に対しての復路…つまるところ、どんなに取り乱していても、私の足は「家」と「店」の2点しか移動してはいなかった。

途中からそれに勘づき、気がつけば家の玄関前でピタリと足を止めた私は、私自身に言い知れぬ嫌悪感と恐怖を感じた。

「はははははははっ!」

最早、諦観にも似た感情がふつふつと沸き起こってくると、衝動的に笑えてきた。何だかとても可笑しかった。

私は狂った高笑いを続けながら、乱暴に扉を開け放ち、再び我が家に帰っていった。


7

カチッカチッカチッカチッ……ごぉぉぉん

暗く濁った室内に、重苦しい時計の音が響き渡った。

「ちっ…」私はその不愉快な音を遮るように、短く舌打ちをしながら、手元のウィスキーを一気に飲み干した。

胃袋の中を洗剤で漂白されるような、しばしの痛みと嗚咽の後に、オーク樽とエステルの香りが気道から昇り、伝わってきた。

その呼気に促されるまま今一度、振り子をだらしなく反復させる古時計に目を向けた。

「ふふっ…」

乱雑に散らかった安物のダイニングテーブルに突伏しながら、今度は妙に可笑しくなった。


今の今まで…私を、いや、三千世界のあらゆる事象を支配してきた、この機械仕掛けの偶像神をどれほど怖れていただろう?

指し示す文字盤を眺めては、その魔術によって東から昇る光と、西に沈む光に踊らされ、私の魂はどれだけ疲弊していたであろうか?

だが…それらはすべてまやかしであった。

私はその支配から解放された、自由の身であったのだ。

…だが、それは同時に…私はどうやら、自分自身からも解き放たれた、名も無き漂泊民…自己の難民となってしまったようだった。


ちびりと酒を舐めながら、思い返してみるとやはり、私には普通あるべき記憶…例えば幼少時代の思い出とか、友人や家族の記憶、そして自分の名前すら全く出てはこなかった。

いや、そんな在り来たりな記憶喪失より、問題なのは、「覚えていない」ことよりも「覚えている」ことだろう。

どんなに側頭葉に残存する断片を掘り起こしてみても、私にはあの背徳的な夢と、「店」から始まる一連のルーティンのことしか思い出せないし、思い出す限りで計算してみても…ありえないことだが、途方も無い年月…実に1世紀近い月日を、変わりゆく街とは対照的に…あの振り子のような反復運動に費やしていた事になる。


それは人間として、常識的に無理がある。…やはり記憶が混乱…いや、だがしかし…その常識とは、誰に対しての常識であろうか?

私の記憶や環境がおかしいのでは無く、私の「常識」とやら、もっと言えば認識そのものが病理的な妄想であったら?

そもそも私は他の人間に会ったことがあったであろうか?…記憶にはもちろん、「街」や「店」では?…誰が食品を調理して、誰が料金を受け取った!?

…いや、いつでもそうだ!気がつけば箸で飯を口に運び、食い終わればフラフラと外に出ていただけだ。そしていつも、誰にも会わずに…この家に帰って、あの二階で気を失う…。

では一体、私がおぼろげに想像する「標準的な人間」とは、いったい誰のことを言うのであろうか?

…例えば、かつて彼の壮士は言った。「今の自分は胡蝶が見る夢なのか?」と。もし仮に、そうだとするなら、今の私も私でない誰かの滑稽な夢でしかないのか?

…朝が来ればその誰かは寝台から起き上がり、朝のやたら扇動的なニュース番組だの、変わり映えのしない、単調な一日のスケジュールだのを確認して、一喜一憂しながら、また床につくまで、その誰かさんとやらを演じ切るのだろうか…

だが、そんな自分の知的記憶すらも、もはや保証できるものではないのかもしれない。

だが、あるいは?…


考えれば考えるほど、この有象無象の袋小路は、私と、私の脳髄を奥へ奥へと押しやった。


…しかし、私にも確固たる持ち物が二つほどあった。

一つ目は、この手紙だ。

私は2杯目のウィスキーを飲みながら、今一度私の「人生」を思い起こしてみたが、「起点」はやはり、この手紙だった。

この、黄ばみくしゃくしゃになった手紙から全てが始まり、そしてまた延々と始まるのだ。

…だが、新たに始まったことが一つだけあった。

思い返す限り、私は今回初めてこの手紙の封を切ったという事だ。

初めて私は、あれを手にした時に訪れる、名状しがたい恐怖感と、身体中から汗と共に吹き出る拒否反応に、私の好奇心と、もう一つの何かが打ち克ち、リピート再生され続けるプログラムに1点のエラーが起こったようだった。

それらはたった一行の短い文を読んだ時に、まるで堰を切ったような暴流となって、手紙から流れ出し、私の空虚な心中に一気に注ぎ込んだ。

…それによって、便器に向かっていささか無様な姿を晒してしまったのだが…


そしてもう一つ…それは他でもない、この私自身の感情だ。

一連の出来事で、あらゆるものに懐疑的にならざるを得ない今、変な表現になるが…私の心が懐疑的になっているという実感だけは、現状で唯一、私の中にあるエビデンスであった。

我思うゆえに我あり…と言うのであれば、私が私自身に懐疑的になり、迷えば迷うほど、その疑念は私そのものを作り上げていくのだ。

…ではこの一連の謎が解けたとき、あるいは一切を放棄したとき、もの思わぬ我は一体何を残すのであろうか?

だが、私は確かめずにはいられなくなっていた。

氷が溶けかかり、薄くなったウィスキーをさらりと飲み干すと、私は薄暗い階段を上っていった。


8

私は再び…いや、いつもと同じくここに立っていた。

これまで何回も繰り返し行ってきた終幕の舞いを踊りきるために。

だが、やはり身体は震えた。その震えを隠すため、そして、眼前に立ちはだかる何者かから隠れるため、私は部屋の明かりを落とし、僅かな補助灯の薄暗がりの中でゴソゴソと、まるで蜚蠊(ごきぶり)かどぶネズミのように、作業を始めた。

…存外、首尾は上々だった。このギリギリ周りが見渡せるくらいの暗闇は、この世界から色彩と未知への恐怖を奪い取ってくれた。

もしもこんなモノトーンな明暗だけの世界に生を受けていたら…私は金色の閃光に恐れをなすこともなく、ただ止まった時間の中で、無為な背景の一つになりながら、吹き消えた涅槃を独り楽しんでいられたのかもしれない。

…ふと、脳裏にあの青い着物が目に浮かんだ。

その焼きついた姿に、こんな時にも関わらず…私の心はわずかばかりの興奮を覚えた。

色…色彩。もしも目を閉じ、暗闇の中に身を隠していれば、感受の矢は私を見つけることなく、空を切り飛び去っていくのだろうか?

…その熱量が尽き果てるまで。


ガタン…


その音でふと我に帰った。

気がつけば私は最後の荷物を退かしていた。

薄暗がりの中、よくは見えなかったが、壁にぽっかりと不可解な穴があいていた。

やはり…あったのか。

やはり…夢は夢ではなかったのだ…

だとするなら、あの五感を揺さぶり、迫り来る感覚は、以前に私が経験したであろう…記憶なのだろうか?

それを確かめるには…

私は改めて、経年劣化し、歪んだ土壁の中央にぽっかりと開いた特異点を見つめた。

肉腐り落ち、朽ち果てた屍の如く、竹骨があばらのように飛び出し、いびつな楕円を描くその暗がりから、出てくるものは蛇か鬼か…私は恐る恐る…そして好奇心の熱に促され、そのひび割れた壁にそっと手をかざした。


ガラガラガラッ…!


軽く触れた途端、長年、この壁の奥にあるものを一人静かに守ってきたゴーレムは、その任から解き放たれ、倒れかかるように音を立てて崩れていった。


直径30センチほどのいびつな穴は、3尺ほどに広がった。

そしてその中には…薄暗がりでもはっきりと分かる、金色に輝くものの存在があった。


ここに来て私は後悔した。そして酷く怖ろしくなった。やはり…私にはあれは眩しすぎる…

こんな事、しなければ良かった。

いつものように鈍化し腐った魂で、家と駅前を往復していれば良かったんだ!

何も考えず、何も疑わず、見えざる手に促されるまま、歩き、食べ、眠りまた歩く。

こんなに幸せな人生は他に無いじゃないか!

そうしていれば、この私の醜く惨めな様を照らし出されずに行きていけたはず…。待て、今なんと言った!?


…いや、違う。


ああ…。


…そうだ。怖ろしいのは、この得体の知れない光ではない。

私は、私自身を照らし出されることを畏れていたのだ。

この恐怖も嫌悪も総て、その対象は自分自身であったのだ…。

どうやら私は、無意識のうち、私自身を他の何よりも醜悪な者として捉えているようだった。

…それは何故?…ふと脳裏に今一度、青い着物が浮かんだ。…そして絞め殺される美しい苦悶の表情も。

そうか。それなれば、話しは分かる。

あの夢…あれが本当に過ぎ去りし過去の光景であれば、私は人一人を文字通り、手にかけてしまっている。

…私は改めて汗ばんだ手のひらを広げ、まじまじと見つめた。

嫌悪も恐怖も、元を辿れば悔恨の意であった。

気づけば私は泣いていた。露頭に迷う小さな幼子のように泣きじゃくっていた。

だが、そんな私に手を当て、慰めあやしてくれる存在があった。

それは紛れもなく目の前の壁の奥から微笑みかけてくれた。


私は無意識に子が親を求めるようにその光に近づいていった。


崩れた壁の最奥にある、古い小さな桐箱に優しく座る、小さな金色の仏像があった。


9

それに恐る恐る手を伸ばした途端、脳髄のそのまた向こう側にあると言われる無意識的領域から、絞り出すようなさけび声が聞こえた。

「やはりこれは、此処にあるべき物ではないんだ!」…脳裏に響いたのは、自分の声だった。

その声と同時に、何処かからか持ち去られる仏像の映像がぷかりと浮き上がってきた。

これは…私の知り得る知識なのだろうか?

朧げながらもこれらの情報は、記憶と呼べる代物だった。

ここまで辿り着く間に感じた、度重なる悪寒や嫌悪感は、私がここにある存在を、思い出せないにしろ…「知っていた」ことの何よりの証拠である。

そうだ。私は知っている!…蓮華座に腰を下ろし、定印を結びながら、柔和な微笑みを浮かべる小さな解脱者を!

…そして、だからこそ夢の中の私はここで泣いていたんだ。

あれは、懺悔…そう呼べるものだった。何となくそんな気がした。

そして、それに耐えきれなくなった私は、この部屋に丸ごと封をしたのだろう…震える己の魂魄と一緒に。流れる時間を代償にして…


段々と目頭が熱くなる自分を紛らわそうと、仏の鎮座する台座の役割を果たしている、古い桐箱に目を向けた。

すっかり赤茶け、錆びついた留め金と黒ずみ、渋みを増した桐板が、その監禁され、忘れ去られた年月を私に訴えかけてきた。

…まぁここにあるもので、新しい物など何もないのだが…私自身を含めて。

そんな自虐的な抗弁を心の中で呟きながら、私はそっとその箱の中身を、止まった時間の流河に晒してみた。

上段にあったのは、在り来たりな浄土三部経の一つ、観無量寿経と、親鸞の和讃の一部。

中段には数珠などの仏具がそれぞれ納められていた。

…そして最後の下段。ここに眠っていたのは、見慣れた便箋が一枚入っていた。

はっとしてポケットを探ってみたが、何処を探しても私が開封した「あの手紙」は何処かへ行ってしまっていた。

…だが、そのことが私をより一層困惑させた。

何故似たような便箋がここにあるのか?

…その疑念を晴らすよう、あるいはより一層深めるように、元の手紙と2つほど相違点があった。

一つは、この手紙が未開封であること。私の雑で不器用な…破り棄てたような開封痕は、この手紙には見受けられなかった。

もう一つは宛先が書いてあったことだ。

名前は書かれては居なかったが、

送り先は東北地方の、どうやら辺鄙な片田舎らしい。


裏側には小さく、ここの住所が記載されていた。そして…「秦一郎(はたいちろう)

恐らく手紙を書いた送り主の名前であり…ひょっとすると…私の名前なのであろうか?

ハタイチロウ…確かにひどく懐かしく、同時にひどく嫌悪感のある名前ではあった。だが、既視感を覚えても、妙な違和感を感じずには居られなかった。

ビデオカメラに映った自分を眺めているような…解離性の気持ちの悪い違和感だった。

私はまた、今朝のような強烈なめまいに襲われないかと警戒しつつ、今度は出来る限り慎重に便箋の折り返し部分を破っていった。


提婆(だいば)の誘いに我亡くし

大悟の君を忘れ去る

迦陵頻伽(かりょうびんが)に耳を澄ませば

響く嬌声耳覆う

逢う魔が時の草むらで

三界燃えて家無くし

山界下りて穴倉探す

日暮らし笑うその日暮らしは

日暮れぬ日々の静けさよ

あぁ求むるは韋提希(いだいけ)

暗く湿った朱夏の虚穴

されど菩提は塔の中

私の浄土は壁の中』


10

…以前目にした手紙は、この文の末節だった。

それは昏く深い悔恨と苦悩を、同じ棚に納入されていた『観無量寿経』の登場人物であり、乱心して肉親を塔の中に幽閉した阿闍世(あじゃせ)王に擬えて記してあった。

だが、これを記した人物…「秦一郎」のその目には、獄中の真っ暗な闇の中で浄土の光を見つめる韋提希女王に気高き美と強い羨望を向けて居るようだった。

あぁ、だからこそ求めていたんだ。

彼女は自分の罪であり、光求める自分自信なのだと。

私はこの秦一郎が、強い西日の中で己の影をより一層深くしながら、半ば死人のようにペンを走らせている姿が容易に想像出来た。

…私に瓜二つな震える姿を。

そしてもう一つ、私が見た最初の手紙はここに投函された物では無かった。

ここから送られるはずの手紙だったのだと。

後にどのような経緯があって、文字通り封印されてしまったのかはわからないが、やはり私にとって、この手紙は出発点であった。

それに…私は改めて、送り先である住所をじっと見つめた。

朧げながらも大まかな道筋と町並みが、頭の中を駆け巡り、断片的だが様々な情報が想起されていった。

…それは以前に足を運んだことがあるであろう、何よりの証拠だ。

そしてそのエングラムは一つだけ確かな記憶を携えてきた。

ここにある仏像は、その東の国から持ち去られた物だ。

…それは秦一郎か、私自身か、あるいは全くの第三者かはわからなかったが。

私は今一度、それらを見つめながら深く息を吐いた。

…道づれは出来た。少し頼りないかもしれないが先達も居る。

全ての疑問の帰着点を求めて、私は今なら歩けるような気がしていた。



気づけば夜は明けていた。

朝の仄暗い光の中、湿り、汚れたアスファルトの上を私は歩いていた。

ロータリーから伸びる街道を進み、少し足を止めてみると、いつもの牛丼屋の換気扇からいつもの匂いが漂ってきた。

私は今一度歩みを進め、こじんまりした駅の改札口を抜けていった。




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