ラフスケッチ
裸婦が描きたいと思った。
下心はない。ただ単純に、女性の裸体を自らの筆致で表現してみたいと思ったのである。というとこれが下心だと言う者もいるかもしれない。だがしかし。だからこそもう一度言う。下心は一切ない。
想像して描けばいいとか、参考画像を画集や写真集、成人向けの本やインターネットで集めてくればいいと言えばそれまでである。実際に何度か試してみた。しかし、どこか違う。過去の画家たちが描いた裸婦は確かに美しい。写真は写真でそのものの色を克明に切り取ってあるし、インターネットを探せばよくできた画像はいくらでも見つかる。だが、どれも納得がいかない。絵やデジタル画像はどうあがいても作り物でしかないし、いくらその通りを写し取っているからといっても写真はいくらでも加工ができる。やはり、自らの目で見た生身の裸体でなければならない。自分の手でそれを行えば、できたものは本物と比べて劣化するのは目に見えている。描きたいといっても、色までつけるつもりはなかった。単純に鉛筆で描けるところまで描いてみたいと思っただけである。それこそ作り物を模写すれば済む話である。それでも、本物を見て、それを写し取ることしなければ、心に湧き上がる思いは満たされそうにないと、そう思っていた。
モデルを探すためには、自分が思っていることを言葉にして伝えなければならない。即ち、
「裸婦が描きたいからモデルになってくれ」
ということを声に出す、あるいは手紙やメールに書いて相手に見せなければならない。実際に大学で出会う友人の何人かには声を掛けてみたし、母や年の離れた姉にメールを送ることもした。だが、返事は芳しくない。友人からは変態呼ばわりされ、母には気が触れたのではないかと疑われた。小学校低学年くらいまでは一緒に風呂に入っていた姉に至っては、返事すら返ってこない。あまりしつこく頼むと嫌われるかもしれないというのも危惧するところではあるが、いやいや応じてくれたとしても逆にこちらが気乗りしない。
有名人にファンレターを送ってこんなことを頼めば内容を見た瞬間に破り捨てられるか、相手にしてもらえないか、最悪警察沙汰になるやもしれないので自粛している。道行く見ず知らずの人に頼むのも、断られるのは目に見えている。
当然と言えば当然の帰結である。人前では服を着ているのが当然の現代において、そう簡単にモデルが見つかるはずはないことくらい分かっていた。それでも、ふっと湧いた意欲というか情熱というかは、燻ることなく燃え続けている。
一人暮らしをしている部屋に戻って、鍵を掛け忘れたことに気付いた。相変わらず注意力が足りないなと思いながらも、入居直前に無理を言って急遽入れてもらった一階の部屋なので、下手をすれば空き巣に入られているかもしれない。
恐る恐るドアを開ける。自分の分以外の靴はない。胸を撫で下ろして、カーテンを閉め切った薄暗いリビングへ続く扉を開く。入り口の壁にある電灯のスイッチを入れたところで凍り付いた。
そこに見ず知らずの女がいた。それだけならばまだどうにでもなる気がした。その女は一糸纏わぬ姿でそこにいたのである。白い肌も、薄桃色の乳首も、本来さらされるべきではない場所すらも、隠そうとする様子もなく座り込んでいた。理解が全く追い付かなかった。
「お前、誰だよ」
思ったよりも低い声が出て、その威圧感に自分でも驚いた。女はこちらを見て、びくりと体を震わせた。何かを答える様子は見られなかった。
取り敢えず、カーテンを閉めておいて、そして女がカーテンをいじらなくてよかったと思う。ここは一階、窓の外から部屋の中が見えてしまう位置である。そんな格好の女がいるだけでも、変な勘違いをされてもおかしくない。
軽く咳払いをして、もう一度言った。
「済まない。驚かせたかもしれないが答えて欲しい。お前は誰だ?どうしてここにいる?」
女は何も答えなかった。怯えたような、きょとんとした顔でこちらを眺めるだけ。しばらく待ってみたが、返事はない。
とりあえず女が着ることができそうな服を探しそうとして、手が止まった。
裸婦を描くのだろう?丁度いいではないか、と本能が囁く。いやいや、このままの姿ではさすがに可哀想だと良心が反対する。よいではないか、と本能。だめだ、と良心。
結局、大きめのバスタオルを渡すことで落ち着いた。私が着ている服で、その女が着ることができそうなものはなさそうだった。
描くにしても許可を得なければならない。ここは素直に、尋ねてみることにする。
「裸婦を描きたいと思っていた。モデルになってもらえないだろうか」
口から出たのは、淡々とした声だった。また怯えられてしまうのではないかと危惧したが、そんなことはなかった。女はただ、何も言わずに頷いただけだった。
「……」
散々断られた挙句にこうもあっさりと承諾されると、逆に拍子抜けしてしまう。もう一度だけ確認する。
「……本当にいいんだな?」
相変わらず何も口に出さずに、女はこくりと頷いた。
「じゃあ、始めるぞ」
真新しいスケッチブックを広げ、鉛筆の先を舐める。これは必要ない事なのだけれど、昔からの癖でそうしていた。一時的にではあるが、書き味が良くなったような感じがする。
まずは目を描く。黒瑪瑙のような黒の瞳を、瞳孔から白目の部分まで、光の当たり方を考慮して影をつける。
目を描き終えたら、今度は輪郭線に移る。できるだけ背景部分との境目をぼかすように、鉛筆を寝かせて薄めに色を重ねていく。
輪郭まで終わったら、今度は様々なパーツを描いていく。艶やかな黒髪。すらりと伸びた首。豊満な胸。細いが適度に肉のついた腕。くびれのある腰。何か運動の類をやっていたのかと思えるほど綺麗な形の脚。絵の具を使わずに濃淡だけで塗り分けるのは、大変ではあるがなかなかどうして楽しい作業だと個人的に思う。くびれや光の当たり具合を、線で、色で、表現していく。
絵を一枚描き終えるごとに、モデルの女性には様々なお願いをした。それはポージングの事であったり、表情のことであったりした。何を言っても、女は何も言わずに従ってくれた。流石に大人の絵本に描かれているような体勢を取らせることはしなかった。元々そのような目的のために裸婦を描こうと思ったわけではない。その女の為にもできるだけ早く終わらせようと思うのだが、描けば描くほどに新しい構図が浮かんできて、そのたびにお願いが増える。気付けば、スケッチブックは最後の1ページになっていた。
最後にふさわしい構図は、そう考え始めた脳裏に、一つの案が浮かんだ。あまりにもくだらない考えだった。何故今の今まで思いつかなかったのかは分からない。それでも、きっとその時のために取っておいただろうと勝手に納得する。
「次で最後だよ」
頷くだけの女に、最後の指示を出す。
「―――――――――――」
最後の絵を描き終えたところで、女に声を掛けた。
「もういいよ」
ノートから顔を上げて、絶句した。
そこには誰もいなかった。先ほどまでそこにいたはずの女は、何の前触れもなく消えてしまった。
女がいた辺りに、一枚の紙切れが落ちていた。拾い上げると、鉛筆で描いたのであろう文字をそこに見た。たった五文字。だが、おそらくあの女のものであろう想いがこもった、とても重い五文字。
――あ り が と う
思わず零れた笑みは、一体何に対する笑みだったのだろうか。
*
「んで、裸婦は描けたの?」
友人の一人が私に尋ねた。
「ああ、描けたよ。運よく協力者が見つかってね」
「ふーん。よく見つかったね。そんな人」
「んで、どんな感じになったの?見せてよ」
モデルは断ったものの、描かれた絵には興味があるらしい。仕方なく鞄からスケッチブックを引っ張り出して渡した。友人は表紙に一番近い方から順に開いて見ていった。時々うんうんと頷きながらじっくりと眺め、ページを繰る。
「よくできてるじゃん」
「ありがと」
怪訝そうな顔で、友人はこちらを見た。残りのページにはさらりと目を通す程度で、すぐに最後のページに辿り着く。そこに描かれた絵を見て友人は――声を上げて笑った。
「あはははははっ!あんたらしいね」
つられて笑いが零れる。
そのページには、モデルとなった女が、大口を開けて笑っている様が描かれていた。
「私らしい、か」
確かにそうだと思う。くだらないと思うなら思えばいい。私がいいと思うのだから、それでいいのだ。
このスケッチブックに描かれているのは裸婦だ。
このスケッチブックに描かれている絵は全て、鉛筆で描かれた大まかなスケッチ、即ちラフスケッチだ。
このスケッチブックに描かれている最後の絵で、女は笑っている。笑うは英語でLaughだ。
お分かりいただけただろうか。
全部ひっくるめて“ラフスケッチ”である。
後日、マンションの裏手にある墓地を訪れた。そこに、あの女がそこに眠っているという話を大家さんに聞いたからだった。名前を確認して、近くの花屋で買ってきた花を供えた。
ホワイトダリア、カンパニュラ、カスミソウ。共通の花言葉は「感謝」。心からの気持ちだった。
ラフスケッチを描いたスケッチブックを一緒に墓前に供え、合掌して目を閉じた。あの女の姿が、瞼の裏に浮かんできた。何かを伝えようと、必死に口を動かしていた。何が言いたいのか、何となく分かったような気がした。何も言わずに頷いて見せると、女は何かを拾うような動作をした後、嬉しそうに笑ってこちらに手を振った。
目を開けると、供えておいたはずのスケッチブックがどこにも見当たらなかった。女のおかげで埋まったスケッチブック。それでいいと思った。名前をまだ書いていないスケッチブックを使ってよかったと、改めて思う。描いたのは自分だ。しかし、描かれた対象はその女だ。スケッチブックの所有権ごと女に渡してしまうのならば、名前はその女のものが刻まれるべきなのだ。
これは後で知った話だが、部屋に現れた女は英国の空軍婦人部隊WRAF(Woman’s Royal Air Force)に所属した過去を持ち、日本に訓練兵として送り返された後、何かの催し物で行われた海上での曲芸飛行中に戦闘機が不具合を起こし、丁度BGMとして流れていたジャズの反復音節(riff = raff)に差し掛かった時に、偶然近くを通りかかった小型帆船の縦帆(luff)に追突してそのまま不時着、命を落としたという。その時に身に着けていたのが、中世の王侯貴族が好んで身に着けていたひだ襟(ruff)の服で、途中でパラシュートを背負って機体から飛び出す予定だったのだとか。まったくよくできた話だ。ここまで偶然が重なると、さすがに作為的な何かを感じてしまう。あまり考えすぎてもいけないような気がして追及はしなかった。
女には当時、画家の恋人がいたそうで、いつか自分の姿を描いてもらうつもりだったのだそうな。その画家が住んでいたのが、今住んでいる部屋だというのだからすんなりと納得できた。何故、女の私の前に現れたのかはいまだに謎のままであったが。
あの女は知っているだろうか。恋人の画家はもういないということを。
あの女は知っているだろうか。女でも頼み込めばマンションの一階に住まわせてもらえることを。
あの女は知っているだろうか。私が、女であるということを。
自分が描いたスケッチをどうするつもりだろうとふと思う。あの世で高名な画家にでも頼んで色を付けてもらうのだろうか。そのままの形で大事に保管してくれるのだろうか。びりびりに引き裂かれて捨てられるのだろうか。最早どうでもいいことだった。ノートの所有権は既に譲り渡したのだから。
――それに、私はもう、目的を達成したのだから。
朝に読まれた方はおはようございます。
昼に読まれた方はこんにちは。
夜に読まれた方はこんばんは。
そして、初めての方は初めまして。円山翔です。
このあとがきには内容に関するネタバレが含まれますので、物語を読まれた後に読んでいただくことをお勧めします。
読んでいただけましたでしょうか。それでは。
何故こんな物語を思い付いたのか、未だにわかりません。思い出したのは、ギャグマンガ日和のルノワールvsセザンヌの冒頭で、どちらだったかが言った「裸婦が描きたい」という台詞だったような気もします。少なくとも、こういった作品を書くのは苦手というか抵抗がありましたが、今回はほとんど勢いだけで書き進めました。裸婦が笑った(lough)姿のラフスケッチ、というところまで自分で考えて、カタカナスペリング辞書で「ラフ」を調べてみたら出てくるわ出てくるわ。全てを詰め込んだ結果、このようなカオスを生み出してしまいました。内容に関してはこれでよかったのかという気持ちがまだありますが、詰め込んだ事に関しては反省も後悔もしていません。だからこそR指定を付けながらも公開しているということになるわけですから……
お読みいただきありがとうございました。またどこかでお会いいたしましょう。
2016年8月29日
円山翔