田中省三 70歳 リリ子
「キャン、キャン」
お客が犬を連れて入って来た。これは言うしかないだろう。
「すみません、動物を連れての来店はお断りしているのです」
「動物は連れて来ていませんよ。ただね、去年ペットを亡くして今日が命日なので家族と食事でもしようと思っていたのですよ」
「すみません、何かの見間違いでしょう」
「いえ、何だかうれしかったですよ。これがマロンです」
その写真はまさしくあの犬だった。
愛しいものだな。この世のものではないのに、あんなに嬉しそうにちぎれんばかりにしっぽを振って。
田中省三 70歳 自分以外のものを初めて愛おしいと思った瞬間だった。
「美佐子、今帰ったぞ」
「お帰りなさい。あら、ずいぶん大荷物ですね」
「猫を飼うことにした。リリ子だ」
「リリ子。私はこれ以上動物の世話なんてできませんよ」
「いや、リリ子の世話は責任を持って俺がみる。ところで今日の晩飯は何だ」
「豚の冷しゃぶにしました」
「あーよかった、かぶらなくて。俺の出勤日は夕食の食材は買って帰るから」
「メールで済むことではありませんか。大体今時ケータイを持っていない人なんていないのですよ」
「所在がはっきりしているのだから必要ないだろう。まして献立のことくらいで高い契約料を払うのはバカバカしいではないか」
それも正論かもしれない。だけど待ってよ、献立のことくらいと言ったよね。あれだけ大騒ぎをしておいて。
「茶碗洗いは今日から俺がやるから、何しろプロだからな。明日は休みだから風呂掃除もするぞ。お前の努力は認めるが、プロの目から見るといまいちなんだよ。それからな新聞は一紙にしてくれ。リリ子のの餌代も砂代もかかるし、掃除に時間がかかるからな」
リリ子が来てから一週間経った。世話は完璧なのよ。
確かにこの人はやると言ったことは必ずやったよね。それは美徳なのだけれど、あまりにも欠点が多いものでスルーされてしまったのよ。
朝30分かけて猫トイレの掃除をするのだけれど、時間はかかるけど完璧。私なら10分で終わるけど。
まるで神社の境内のようなのだから。
「美佐子、行ってくるぞ。リリ子をよろしく」
だいたいこの猫あの人が行くとすぐ寝るからね。ほとんど一日寝ているのよ。
それでいてあの人が帰る時には玄関のドアを開ける前にニャーンだからね。同じ女としてあまり好きなタイプではないわね。
私にはニャーンどころかニも言わないから。何か対抗意識持ってるの。
今だって口開けて爆睡しているし。
だけどねリリ子あんたも、もしかしたら疲れているのかもね。