NH3 悪臭は飛散してゆく
イスカ達の避難するシェルター内の瓦礫もある程度は片付け終わり、避難民たちが安息を得ようとしている頃、戦地にて。
そこでは、ただ無言での鉛弾の応酬が行われていた。鳴り響く音は、乾いた銃声と靴音、時折誰かが洩らす『クソ野郎』のみ。
その中で一人、三十代後半になるかと言う壮年の男がカラシニコフを抱えて駆け抜ける。
この男、名は津田と言い、戦闘開始からの数ヶ月間、最前線で生き抜いてきた兵士の一人である。敵側に対空ミサイルが配備されている為、増援も衛生兵も殆ど期待出来ない中、碌に支給されていない携帯糧食と敵兵から奪う物資で戦ってきた。
生還は絶望的。ならば、せめて戦場を掻き乱して時間稼ぎだけでもしてやろうと、縦横無尽に駆け回り敵兵の目を撹乱し続けている。
規律など知った事か。そんなものを気にする上官は既に戦死した。平田、柳、この地獄が、お前たちが行きたいと言った戦場だ。
所持できている物は、あと一口あるかどうかのビスケットと十秒放てば無くなるマガジン。そして、銃が無いならこれで敵の喉を斬れと渡された軍刀。
一秒先に死神が待ち受ける場所。
この感触……足を切ったな。血痕と足跡を辿られて撃たれるのも時間の問題か。
足を止めた瞬間、不意に倒れ込む。半歩道を外せば、屠畜場の豚よりもあっさりと死ぬ世界で転倒するとは、何とも運の悪い男である。
そんな訳が無い。津田は、既に限界だった。幾日幾週間、碌な休息をとらず、戦いのみが生活だったから。
しかし、とっくに津田は生存を諦めた。カラシニコフ銃のマガジンを数十秒で交換する。近くの何かに寄っ掛かる為、動きの邪魔になる背囊は捨てる。繋がらない無線も。
ただ一つ、ビスケットと銃のみを持って、敵を待ち受けた。
死が近い。今だけは、何もかもが鮮明に感じ取れる。敵の足音、その数、息遣いまでもが。
道連れにしてやろう。地獄で酒でも酌み交わして、恨み言を言い合おうじゃないか。
鉄と油臭い、土塗れの手で、ビスケットを口へ放り込む。人生最期の食事の味は、余りに何も感じなかった。
暑く火照った筈の身体が冷たい。頭が冴える、風景がコマ送りに見える。
敵が見えた。引き金を引いた。弾道が理解できた。間違いなく、今撃った弾は敵兵の眼窩に吸い込まれ、脳に至ってその命を終わらせた。
一発で一人、自動小銃でありながら狙撃銃並みの精度を以て、一人の兵士は十の命を奪った。
だが、
「弾切れか」
もう、津田に戦える術は残っていなかった。
敵兵が数m先、銃を構えているのが見える。死の直前でさえ、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚はその光景をスローモーションで見せつけるらしい。
その間、津田は死の恐怖などは感じていなかった。ただ一つ、まだ幼い姪を心配する気持ちだけが残留していた。
イスカ、どうやらもう会えないようだな。
届かないだろうが、この殺人鬼の願いが叶うのならば、聞いて欲しい。
生きてくれ。この地獄に絶望しないで、生き抜いてくれ、イスカ。
「戦争なんて糞食らえだ」
それが、津田の最期の言葉となる。
その日を境に、戦争の情勢は大きく傾く。