決裂
雑兵の死体を処分し終わった頃には、夕闇が迫っていた。
「……受難者といったのは間違いだった。お前は、自ら望んで災厄を呼び込もうとしている」
嫌みったらしくぼやいているトゥル・エルを無視して、ぼくは村へ通じる小道を戻る。
川の水で洗い流しても、手には死肉と血糊の感触が残っている。豚や鹿でも同じはずなのに、人間の死骸となると心象が違うようだ。作業を手伝ってくれていた村人たちも、どこか不安げに俯きがちだった。
ふと目が合った村の娘が、ビクッと怯えたように足を止める。十代初めくらいで、やせ細った気弱そうな少女だ。大きな黒い瞳と相まって、印象は小鹿に似ている。ベリーショートに近い短髪なのは生活上の利便性からか、身の安全のため男に見せようとしているのか。まあいい、名前は確か……
「ミハル・エル、だったよね?」
「はい、“龍の使い”」
村人たちには何度もその呼び方は止めてくれと頼んだのだが、どうも上手く行かない。いまも“受難者シン”と“龍の使い”の二択という究極の選択を強いられている。会話が進まないのでここはスルーだ。
「最も近い村はどのくらい離れている」
「近くに村はありません。ここから安全に行き来ができるのは、交易市が立つトーディンの町だけです」
「そこまでの距離は?」
「南西に10ソーウィルほどです。売り買いするときでも、朝出て昼には戻れます」
わからん。まあ、1ソーウィル≒1キロ、というところか。いつの間にか追いついてきたトゥル・エルが後ろから割り込んでくる。
「トーディンに何か用でもあるのか? これ以上お前がこの地の平穏を乱すつもりなら……」
ぼくは黙って、南西の空を指差す。
山際がわずかに、紅く染まっていた。沈んでゆく夕陽と方角が違う。夕刻から感じていた、焦げたような臭いの原因が、あれだろう。
「トーディンが、燃えてる……なぜだ?」
なぜもクソもあるものか。徴募を済ませた兵たちが町に火を放ったんだろう。
どこまでが突発的な事故でどこまでが既定事項だったのかは不明だが、攫った新兵の里心を殺ぐのに、“帰る場所をなくす”というのは有効に思えた。
「この地の平穏は、もう乱されているみたいだな。あの兵たちを放っておいたら、きっとエル村も同じことになってた」
「そんな……」
「いい加減に現実を見ろ、トゥル・エル。三つの国と獣人集団が戦争状態にあるのに、あんたたちだけ平穏でいられるわけがないだろう? むしろ、いままで巻き込まれなかったのが不思議なくらいだ」
村に戻ると、村人たちが同じようにトーディンの火を見ながら不安げに話し合っていた。
「何をしている、武器の処分は済んだのか」
トゥル・エルの声を聞いて、彼らは一斉に振り返る。
「おい、どうするんだ」
「なあ、どうなるんだ」
同時に食って掛かったのは、ソナン・エルとセナン・エル。狩りにも参加していた、双子の中年男だ。どちらがソナンでどちらがセナンかは知らない。見分けも付かない。どちらも同じように小太りで、どちらも同じように役立たずだった。
「ここに来た兵が戻らなかったら」
「ここにも仲間を寄越すんじゃないのか」
余計なことをしてくれた、とでもいうようにぼくを見る。黙って見つめ返すと、羞恥心か恐怖からか、双子は揃って顔を歪めた。
何もしないで文句だけをいう奴は、どこの世界にもいるわけだ。
「心配ない」
ここに来て初めて、ぼくは笑う。それを見た村人たちが、怯えたように身を強張らせる。
「何人来ようと、殺すだけだ」
ひどく捨て鉢な気分になっていた。この世界に来てから忘れていた、胎の奥で何かが澱む感じ。もう、この村の人間と馴れ合う気はない。彼らには、その価値がない。金銭的でも肉体的でも心情的でも、“お互いに”何らかの得る物がなければ友好関係など成立し得ない。
「待て、この村は……!」
「“無関係だ”、とでも? そんなもの誰が信じる? 信じたところで結果は同じだ。引き立てられて戦場で死ぬか、役立たずとして焼き殺されるかだ。生き残りたければ、戦え」
立ち尽くす村人たちの陰で、ふたりの男がぼくの後ろに回り込もうとしている。村人たちの視線と男たちの気配で丸わかりだが、どうするつもりなのか様子を見る。
村人たちの名前を聞いたのは間違いだった。書き割りのようなその他大勢ではなく、それぞれ心を持ったキャラクターのように見えてしまう。それがトゥル・エルの目的だったとしたら大したものだが、憎むときも必要以上になることを彼はわかっていない。
忍び寄る男たちが見えていながら、ぼくに注意を促そうとしているのは小鹿のようなミハル・エルただひとりだった。その彼女も母親に口と手を押さえられ、警告は発せられないまま終わる。
しょせん、ぼくは忌むべき余所者か。
息を吸う音に振り返ると、鍬に似た農具を振りかぶって男が襲い掛かってくるところだった。名前は知らない。興味もない。
振り下ろす瞬間に一歩下がると、男の一撃は本来の用途そのままに地面を掘る。ノーモーションで鼻に順突きを入れると男は吹っ飛び、鼻血を噴いて転がって動かなくなった。
「……あぁッ」
村人たちが漏らす呻き声には、“男がぼくを殺せなかった”悔しさに満ちている。
ぼくは息吹を繰り返す。暗くドロドロしたものが込み上げてきて叫び出しそうになる。
視界の隅に、もうひとりの男が映っている。確か、インダ・エル。獣の解体に長けた小男だ。刃渡り1メートルほどの山刀を持ち、血走った目をしてぼくを見る。野ブタの頚動脈を断ち、腹を割いた自慢の武器で、ぼくを始末するつもりらしい。
「お前さえ、来なければ、この村は……」
「好きで関わったとでも思っているのか? 気を失ってるところを縛り上げてドラゴンの餌にしようとしたのは誰だと思ってる」
聞く気がないのは知ってる。だが突進するタイミングを逸らす役には立つ。
弧を描くように軽くステップバックして、“この村でただひとりの脅威”がどこにいるのか探る。
それが見つかる前に、インダ・エルが動いた。外しようがない距離まで踏み込み、両手で持った山刀を横薙ぎに払う。ぼくは腰を落として青銅刀で受けるが、こちらが反撃するより前に彼は攻撃圏外に飛び退いていた。
抜け目ない男だ。ぼくの動きを良く見ている。ひとり目の襲撃失敗も、4人の兵士を殺したときのこともだ。細かく左右に身体を揺するのは、ぼくが弓を使う可能性まで考慮しているのか。
インダ・エルが目配せをした方を、ぼくは反射的に見てしまう。そちらには誰もいないとわかっているのに。
隙を突いて、斜め下から掬い上げるような斬撃。それを躱すと引き込む動きに変わり、刃先が立体的に歪な∞の軌道を描く。あまりにも速いため、重い青銅剣では対処しきれない。躱し続けるのにも限界がある。ぼくが押されている間に、他の村人が加勢してくるとも限らない。
四面楚歌には慣れてる。完全に詰んだ状況だって何でも経験した。そのたび“死にはしない”と開き直ったものだが……今度ばかりは死ぬかもしれない。
――まあ、いいや。
ぼくは青銅刀を宙に放り出す。顔の前に浮いたそれを、インダ・エルが山刀で弾いた。武器を失ったぼくを見て、にんまりと笑みを浮かべる。刃先を切り返し、踏み込みながら渾身のスイング。
その勝ち誇った表情が、衝撃とともに固まる。
前蹴り。斬撃を掻い潜って鳩尾に突き刺さったものが何なのか理解できないまま、インダ・エルは身体を折り血反吐を吐いて転がる。手を離れた山刀をキャッチして逆手に持つと仰向けになった顔に突き立てようと身構え……
「よせ」
意外なほど近くで、冷静な声がした。ずっと探していた男は、納屋の陰に立っていた。
村唯一の脅威、猟師エルラ・エル。
猟のとき、この村でただひとり――まがりなりも、だが――手を貸してくれた男。恐らく彼なら、ぼくが察知できる気配の外から矢を射掛けることができる。
エルラ・エルは何も持っていない両手を挙げ、訴えるような目でぼくを見る。
――武器を、引いてくれ。
ぼくは緊張を解き、山刀を遠くに捨てた。
転がっていた青銅刀を腰に挿し、周囲を見渡す。村の男たちの何人かは、まだ農具や木切れをつかんで身構えている。インダ・エルを助けようとでも思ったのか、次は自分たちの番だとでも考えたのか。なんにせよ、敵意は剥き出しのままだ。
「やめておけ、お前たちが“龍の使い”に勝てるわけがない。無駄死にするだけだ」
エルラ・エルの声にも、顔を見合わせるだけで武器を下ろそうとはしない。どうでもよかった。彼らが決めることだ。
「……どっちにしても、同じことだろ。ぼくが殺すか、兵士に殺されるか。じゃなきゃ戦場で獣人に殺される」
ぼくの皮肉に、猟師は黙って首を振る。
彼らとの関係は終わりだ。ぼくにできることはない。ここにいることもできない。
どうでもいい。よくあることだ。この出会いは“ハズレ”だった。それだけだ。
村を出るとき、棒立ちのトゥル・エルとすれ違う。憔悴しきった表情の彼は何かをいおうとしたが、そのまま言葉を飲み込む。
ようやく動けるようになったのか、小男インダ・エルの苦しげな叫びが後ろで聞こえた。
「離せエルラ、やるしかないんだ! あいつの首を差し出す以外に、王国軍に許しを乞う方法はない!」
そんなことは誰でもわかっているが、だからといって彼らにはどうすることもできない。何の意味もない正論を喚き散らす馬鹿も、どこにでもいるわけだ。
「くそッ! お前らみんな、絶対に、後悔することになるぞ!」
――ああ、インダ・エル。それだけは、同感だ。