龍の場所
化け物のような大鹿を倒したのはいいが、ドラゴンのいる森まで運ぶのに村人たちが難色を示した。
「大丈夫だって。運んでもらうだけだし、食われることはないよ」
たぶん、だけど。
龍の使いとか呼ばれてはいるが、実際には文字通りのお使いでしかない。
血抜きの済んだ青鹿の巨体はグッタリ弛緩し到底ひとりで運べるものではなかった。解体して背負ってくことも考えたが何往復もすることになり、昼までに届けるという“契約”を果たせない。そもそも道あんまり覚えてないし。こうなったら、しょうがないな。
「もし災いがあるとしたら、ドラゴンの――その使いも含めてだけど――機嫌を損ねたときなんじゃないのかな」
笑みを浮かべながらいうと、村人たちは急にテキパキと動き始めた。
これは、あれだ。男子中学生にいうことを聞かせるようなものだ。褒めて伸ばし、叱って正し、それでダメならエサで釣り、脅して動かす。空手の師範である祖父のサポートとして、少年部の指導をした経験が役に立った。
台座だけの簡易な神輿の上に腹這い姿勢の青鹿を載せ、ぼくも担ぎ手のひとりとして担ぎ棒を持つ。上物が重いせいか前回よりも人手は多い。半分弱が女性。狩りのときにも、少数ながら女性の姿はあった。たぶん人口が少ないため作業に男女の区分があまりないのだ。
村人たちは、昨夜と同じように俯いて何か祈りのような言葉をつぶやいている。被り物をしていないその顔は、一様に不安と怯えに曇っていた。
「急げ、暗くなる前に帰りたい」
陽は中天に掛かってもいないというのに、帰りの心配をし始めている。山間の村だと日暮れが早いのかもしれないが、おそらく道中で、あるいは到着地点で“何かがあった”ときのことを考えているのだ。それが何かは知らないが、愉快な話ではないだろう。
「行くぞ」
重い荷を担ぎながら、村人たちは山道をかなりのハイペースで進む。
恐怖で序盤だけ飛ばしているのかと思いきや、獣道が細くなり傾斜が上がってもペースは落ちない。誰もそれほど筋肉があるようには見えないが、運動不足気味の現代人と違って基礎体力が高いのだ。ぼくはしだいに息が切れ始め、付いて行くのが精いっぱいになってくる。周囲の者たちは念仏らしきものを唱える余裕があるというのに。
今朝は手ぶらで降りてきたので気付かなかったが、登りながら見ると細かい枝道や迂回路や安全確実なルートがある。ひとりでは迷っていただろう。
「いまどの辺りだ?」
「半分は過ぎた。もうすぐだ」
何度も聞いた問いと答えが、あちこちで起きるようになる。要するに誰もはっきりとわかってはいないのだろうが、苦しくなるとつい周囲に尋ねてしまう。
何度か同じ問答を繰り返しながら小一時間ほど登ったかと思われる頃、少し開けた平地に出た。
「よし、歩みを落とせ……!」
先頭に付いていた村長が声を上げ、村人たちが足を止める。周囲を見渡すが、昨夜は暗がりに目が慣れていなかったため、いまひとつ見覚えはない。
「ここが、ドラゴンのいた場所か……?」
「間違いない」
道の先、村長が指差すところに放り出された神輿が転がっていた。近付く前に足を止めさせたのは、そこに食われた老人の痕跡があると思ったからだろう。
「降ろせ、ゆっくりだ」
担ぎ棒から離れると、青鹿が地べたにうずくまるような姿勢になる。男たちが数人で昨夜の神輿を持ち上げ、残りは後に続いて無言のまま帰ってゆく。
ぼくは慌てて村長を呼び止めた。
「待て、ドラゴンはどこにいる。どうやって呼べばいい?」
「龍の使いであるお前に知らんことを、こっちが知ってるはずがないだろう」
「いやいや、いままではどうしていたんだ」
「いつもここに、“龍の使い”がいた。無愛想な中年の女で、龍の領域に足を踏み入れる者には災いがあるとかなんとか……」
「いまは?」
「さあ。しばらく見かけない。食われたんじゃないのか」
やめろ。いやな想像してしまうだろうが。
村長たちの顔には“お前も次にそうなるんじゃないか”と書いてある。
「これで貸し借りはなくなったと考えていいのか」
「これを倒したのはぼくじゃないのか? 運んでもらった手間賃として野ブタは譲るよ」
内心これで済むとは思っていなかったのだろう。村長は諦め半分の顔でうなずく。
「人手が要るときはまた行く。文句はドラゴンにいってくれ」
さて。
村の人間が立ち去った後も、ドラゴンは現れない。貢物を渡すこともできないでは、帰るに帰れない。
引渡しが済んだ後、ぼくは村に向かうべきなのか迷う。お互いに敵か味方かよくわからない関係だ。歓迎されるはずもないが、もう少しこの世界の情報を得たかった。
「ええと……、ドラゴンさん……?」
間抜けな口調で呼びかける。名前くらいは聞いておけばよかった。ここまで来たら常駐しているものと、勝手に思っていたんだが。
どこからも返事はなく、どこにも龍の姿もない。奥に進むと、どこかで水音がしていた。ドラゴンが水浴びでもしているのだろうか。
「来客を待たせてシャワーか。余裕だな、さすがドラゴン」
日本の伝承では蛟というだけあって水の神だったはず。神話伝説の源流である中国でもそうか。昔話などで龍は淵に棲むのが定番だが……滝から落下する前に見下ろした風景を思い出してみる限り、川は低地をうねって海(もしくは湖)に抜けて行くだけだった。高度も森林密度もさほど大きくないこの山に、淵を作るほどの水系があるようには思えない。
音のする方に、おそるおそる近付いてみる。岩場を回り込むと、わずかに水音が大きくなった。
トンネル状になった岩の裂け目を抜ける。外に比べると、ひんやりと涼しい。薄暗がりの奥に、湧き水が細く流れ落ちているのが見えた。いくつかの亀裂から染み出し、壁を伝った水はその下に溜まっているが、水深も広さも龍が水浴びをするどころか人間が浸かるのがせいぜいという程度しかない。簡単にいうと、広めの銭湯くらい。
岩で囲まれた水面に、何か白くて丸いものが浮かんでいる。生贄の保存場所という推測が浮かんでゾッとする。
「……ドラゴンのチルドルームとか、ホント勘弁して」
拾い上げてみるとそれは、木をくり抜いて作った器だった。削り跡は乱雑だが、使い込まれたような艶があり、手に馴染んだ。
ここで生活していた人間がいた痕跡。
「先代の、“龍の使い”か?」
ドラゴンもその使いとやらも、どこに行ったのか。彼らの身に何かが起きたのだとしたら、ぼくも同じく巻き込まれる可能性が高い。
水際には木のスプーンか柄杓のようなもの転がっていて、手前には白い布。広げられ放り出されたそれは、どこか日本の白装束に似ていた。そこにいくつか散らばった赤黒い色は、
――血痕……?
嫌な予感がして後ずさったぼくは、何かを踵で引っ掛ける。柔らかくて重たい塊。ドラゴンが保存していた獣の肉塊か。倒れそうになって手を突く。ぐんにゃりと冷えた感触。それがビクリと震えた。ぼくは咄嗟に距離を取り、剣を抜いてそれに向ける。
髪の長い女性が、全裸で倒れていた。