奪還
「投降した? 戦わずにか?」
「ええ……まあ、少なくとも自分とは」
カーラがファナに報告しているが、いまひとつ要領を得ない。彼女の問題というよりも、訳のわからない状況にたまたま出くわし、よくわからないまま捕虜――と、本来の目的である砲――を連れ帰っただけだという。
「何か内輪揉めがあったみたいで、将校の死体が転がってました。これを」
死体が持っていたという帯剣を差し出す。鞘には黒いラインが入った三連星の階級章が刻んである。
「大尉……しかも黒帯付きは政治将校だ。叛乱か?」
「わかりません。指揮官に会わせれば話すといってました」
「会敵寸前なんだぞ、いまは他国の……しかも敵対国の、面倒な内情に関わっている余裕はない」
わずかに抜いてみると刀身は使い込まれ、ずいぶん血を吸っているようだ。こんな剣の持ち主を屠ったのが誰かは知らないが、砲兵たちに油断はしないほうがよさそうだ。
「拘束しておけ、監視はカーラ」
「そんな、曹長!?」
「お前の捕虜だろうが。不慮の事故で戦死体となったところを発見される道もあったんだが、この数の兵に見られてしまったいまとなってはいささか無理があるだろう」
「曹長殿、お願いがあります」
声のした方に目をやると、文官のような女性がこちらを見つめていた。共和国砲兵連隊のサーマル・ベリジェ准尉と名乗った彼女は短髪で小柄で童顔、どこかぽやんとした雰囲気を持っている。
聞けば、軍属というのか正式の兵士ではないようだ。隣でガチガチに警戒しているオル伍長という中年男性が実際の部隊統率者になるのだろう。その部下たちといえば緊張を通り越して茫然自失といった体で、話を聞ける状態ではない。
本来の反応としては伍長たちの方が自然だった。なにせ完全武装の獣人族に丸腰で囲まれているのだ。その中心になっているのは約100騎の人馬族騎兵と、20の人虎族重装歩兵。どちらも獣人族で屈指の巨躯を誇り、室内で見るとその質量はまさに異常なほどだ。
ファナの前ではいえないが、一見痩身の彼女でも准尉10人分くらいの体重はありそうだ。
その巨人たちを前にして怯むこともなく、ベリジェ准尉は不可解な事を口にした。
「我々を指揮下に加えてください」
ポカンと口を開けるレイライン曹長に代わって呆れた声を出したのはファナ中尉だった。
「……自分がどれだけ非常識な妄言を吐いているか理解しているのか?」
「無論です。しかし戦況は明らかに貴軍に不利。王都に集められた共和国軍の兵力は二千強、王城を占拠する帝国軍部隊が約二百、彼らに使役される元王国軍兵士が百前後、優に二十倍を超えましょう。まず間違いなく現れるであろう帝国軍の増援を考えると、我々なしで戦えるものではありません」
「あの破裂する炎の玉が自分の頭上に降ってくるかもしれない状態よりましだ。前から来るなら、まだ避けられるからな」
「ええ、わかります。ですから、前衛に出してください」
「「「は!?」」」
素っ頓狂な声が、敵味方両陣営から一斉に起こった。
知識や経験を持つまでもなく、臼砲が支援火器なのは誰が見ても明らかだ。大きく重く荷物が多く装填や配置転換に手間の掛かる大所帯で、満足な自衛装備もない砲兵部隊は視認された時点で良い的だ。おまけに火矢さえあれば派手に爆散して自軍に甚大な被害を与えるとあっては、可能な限り後方に下げておくのが望ましい。
意図を探る間もなく、ケイル軍曹が駆け込んできた。共和国軍の制服を見て身構える彼に、ファナが手振りで発言を促す。
「中尉、王城に動きがありました」
「砲音はしなかったが」
「動いたのは籠城側です。包囲が手薄な北門から騎兵二十」
「何を考えている、脱出が目的か?」
ファナたち人馬兵ならその数でも敵を掻き乱すことも出来るだろうが、人間同士では無駄死にする以外の結末はない。まして、包囲する共和国軍には臼砲が……
最初に反応したのはカーラだった。
「曹長、先越されちゃいますよ!?」
「砲の破壊が目的か! 急げ、我々も出陣する、火矢を持て!」
「待て」
ファナが曹長を止め、怪訝そうな表情の黒脚部隊に地図を示す。
「なぜ止めるのです、砲が破壊されます!」
「させるさ。目的を見失うな。脅威が排除されるのなら、こちらが手を汚すまでもない。お前たちは裏門から場内に侵入、龍を奪還しろ。邪魔な正面兵力を切り崩すのは我々と……」
ファナの一瞥でベリジェ准尉の背筋が伸び、部下たちも別の意味で全身を硬直させる。
「彼らがやろう」
◇ ◇
兎の全力疾走を、見たことがあるだろうか。
ごく一部の猟犬など、兎以上の速度を出す生き物は存在する。だが、それも直線だけのこと。兎は最高速で疾走するその走行ルート上を、縦横無尽に舞うのだ。追いつける者がいたとしても、捕えられる者などいない。
いまのぼくがまさに、そうだ。
龍の加護を受け筋力と瞬発力と動態視力が上がっている自覚はあったが、まるで追いつけていない。辛うじて見失うことだけはないものの、後塵を拝するというにも遅過ぎ、鈍過ぎる。帝国軍騎兵と共和国軍主力が衝突する城門前の混乱を避け、市街地を迂回して北側の裏門に回る。壊れた家の残骸を縫い、瓦礫を跳び越えて駆け抜けて行く黒脚部隊の精鋭5名の後ろ姿は、一瞬でも目を離すと掻き消えてしまう程に俊敏で目立たない。
裏門への牽制なのか友軍と合流できず迷ったのか、市街地に共和国軍や帝国軍の小集団がウロチョロしているが、人兎から通過の邪魔になると判断された時点で迅速に始末されていく。反応する間もなく首を飛ばされ、軽甲冑の歩兵は躯になって転がる。
前衛のサナ伍長からハンドサインで敵の存在が伝えられる。裏門前に槍を持った重装歩兵が50、奥に弓兵が20ほどいるようだ。それが事実だとすると、南側の城門に回された正面戦力が異常なほど少ない。
「ケーベル」
曹長の指示で、マッチョなヒルト伍長が両手を組んで腰を落とす。その手に片足を掛けたケーベル伍長が、凄まじい勢いで中空に打ち出された。
距離も高さも20メートルはある城壁上に彼女が無音で着地するさまを、ぼくはポカンと口を開けたまま見つめる。獣人たちはぼくをあれこれいうが、彼らこそ規格外にも程がある。
小さな悲鳴がいくつか聞こえた後、城壁の上に姿を見せたケーベル伍長がこちらに手を振った。
「弓兵沈黙、行くぞ」
裏門前に布陣した重装歩兵の武器は長槍と長剣。支援攻撃がある前提で装備を厚くしたのが完全に裏目に出る。人兎族の速度に追い付くどころか視認さえもできないまま、首から血を噴いて倒れ伏した。
ぼくは何もしていない。
「尖塔の上層に“貴賓室”と呼ばれる牢があるらしい。龍はそこだ。カーラを連れて行け」
「曹長たちは」
「退路を確保する。城門が突破されるのは時間の問題だ」
「あア、くソッ!」
派手な爆発音が聞こえて、サナ伍長が小さく毒づく。南西の城門付近で吹き上がる爆煙が見えた。彼女の楽しみにしていた花火がひとつ消えたらしい。
「いい頃間だ。乱戦に乗じて脱出するぞ。急げ!」
「はいッ!」
即座に駆け出すカーラ上等兵を追って、出遅れたぼくも城の裏木戸に向かう。ふらりと出てきた警備兵らしき帝国軍軽歩兵をカーラが出合い頭のビンタ一発で沈ませ脇に放る。やけに鈍い音がしていたのですれ違いざまに見ると、首の骨が折れてありえない角度に曲がっている。
何それ兎さん怖い。
城内に入ってすぐ、ぼくらは暗闇に紛れて貨物の陰に隠れる。すぐ前には兵の詰め所らしき部屋があり、張り詰めた顔の兵士たちが10名ほど、装備を固めて出撃に備えている。さらに廊下の先に螺旋階段が見えた。尖塔に向かうにはまずここを突破する必要がある。
「離れないでシン、突っ込むから援護を……」
「待て、誰か来る」
飛び出しかけたカーラの襟首をつかんで引き戻す。廊下の奥で影が動き、上官らしい甲冑の男が螺旋階段を下りてくるのが見えた。
「衛兵は塔に向かえ。“天馬”で“聖贄”を運び出す!」
「はッ!」
甲冑の男が螺旋階段を戻ってゆく。時間差を付けて追いかけるだけで、龍の居場所に案内してくれるだろう。兵が動き出すのを見ながら、カーラがぼくを感心した顔で見つめる。
「こうなること、知ってたの?」
「まさか。でも、考えなしに突っ込んじゃダメだっていっただろ」
「だって、シンがいるから大丈夫だと思ったんだもん」
「もちろん助けようとはするけど、もっと自分を大事にしてくれっていってるんだよ」
「……うん、わかった♪」
なんだかおかしな感じで嬉しそうな顔をしているカーラを見て、それ以上責める気にはなれなくなる。損耗率さえ下がれば、個人の戦闘力が人間と桁違いの獣人連合はもっと優勢に戦えるはずなのだ。それは、「命大事に」をどれだけ理解してくれるかどうかに掛かっている。
「行こう」
螺旋階段に人影が見えなくなったところで、ぼくたちも廊下を移動し始める。狭い通路で戦う限り、速度と機動性の優位を喪うが、囲まれる心配がないので人数の差もある程度は埋められる。
階段を登りながら、ぼくはカーラにずっと気になっていたことを尋ねる。さっき聞いた、耳慣れない言葉の話だ。
「カーラ、“天馬”って、もしかして羽の生えた馬?」
「そんなおかしな生き物がいる訳ないでしょ」
上半身が人間の馬がいる世界で、ウサギ耳が生えた女の子に呆れられてしまったぼくは困惑して首を傾げる。
「空を飛べるのは虫と鳥だけよ。神をも怖れぬ帝国軍は、そうじゃないと思ってるみたいだけど」
「それじゃ、帝国軍の兵器か。天馬というのは、どんな代物?」
「丸くて、大きくて、遅いの」
全然わからん。
「空を飛ぶというより、浮かんで流されるだけね。でも弓は効かないし、剣や槍は届かないの。好き勝手に色んなものを投げてくるからホントに鬱陶しいんだけど、そんなに大した脅威ではないかな」
気球みたいなものだとしたら、いまがチャンスではある。カーラに戦法を話そうとしたところで、踊り場に掛けた彼女の足が止まる。手振りで前方に敵集団が待ち構えていることが伝えられる。軽歩兵4。追っていたはずの兵士たちか。
数が減っている上に、上官らしい甲冑の重装歩兵がいない。残された兵士は足止めのために置き去りにされたのだろう。
「出てこい、ケダモノども」
蔑むような笑みを含んだ声。わずかに震えているのは、裏門を突破された意味を理解しているからだろうか。
「隠れても無駄だ、すぐに応援が来る」
「ああ、そういって捨て駒になることを納得させたんだろうな」
「……なッ!?」
物陰から返したぼくの言葉に、兵士が驚くほど動揺する。やがてそれが、廊下に開かれた窓から聞こえてくる声に反応したのだと気付く。立て続けに鳴り響いた砲声と爆発音、時間差を置いて何かが崩れる轟音。
「まただ、何なんだ、あれは!? いったい何が起きている!?」
「正門が突破されるぞ! 総員撤退!」
「下がれって、どこに……」
遠くから、悲鳴と怒号が伝わってくる。それを掻き消すような鬨の声はあまりにも大きく厚く、それが場外の共和国軍によるものだとわかる。
城内に雪崩れ込む数千の兵を止めるだけの戦力はない。逃げるための“天馬”とやらが唯一の希望なのかもしれないが、それが気球もしくは飛行船であれば乗せられる人数など限られている。まして、ここで足止めを命じられたのだとしたら。その意味など考えるまでもない。
「あ、あああぁ……」
「ま、待て、待ってくれ!」
もはや交戦どころではなく、兵士たちは我先に階段を駆け上がる。敵の只中で置き去りにされる恐怖に、こちらのことなど全く意識にない。
カーラを促して兵士たちの後を追う。城の上階らしき広いフロアに出ると、いくつもの死体が転がっているのが見えた。端に寄せられ壁に立て掛けられているのは王国貴族のものだが、廊下に放置されたままなのは帝国軍士官のように見える。部隊内で内紛が起きたか、裏切りでもあったのだろう。
いまはそんなことに構っている時間はない。上から妙な物音がしていたからだ。嫌な予感がする。
それは舟歌のような軍歌のような、単調で規則的な声だ。塔に続く螺旋階段を駆け上がりながら、窓から確認しようとしても、石造りの城は開口部が狭く、見たい角度に対して視界が得られない。
「シン、急いで!」
上層から激しい戦闘音が聞こえてきた。帝国軍以外の勢力が城内に入ってきているとしたら獣人連合――というよりも空飛ぶケーベル伍長――以外にないのだが、彼女たちは退路の確保をしている筈だ。
狭い階段を駆け上がるうちに、伝わってくる声から状況が理解できるようになる。
「ふざけるな、お前たちだけが逃げ……ぐぁッ!?」
「どけ! これは皇帝の命である!」
「“聖贄”を寄越せ、早く!」
「第三天馬被弾! 落ちるぞ!」
傍らにある窓の外を巨大な影が横切った。
高度を下げながら城外まで流されてゆくそれは、全長15メートルほどの細い船を、気球らしき丸い球で吊り上げたような代物だった。
球は大小あるが、平均して直径10メートル程度。いくつかが萎んでいるところを見ると、矢でも当たって浮力を喪ったようだ。
落ちてゆく船の内部で、助けを求めるようにこちらへ手を伸ばす男たちが見えた。帆の他に櫓と思しき物も見えるので、動力用の役夫かなにかだろう。
窓から頭を出して上空を見上げると、目に入る限りで残る“天馬”は3隻。尖塔への係留作業中なのが1隻と、上空待機中なのが2隻いる。
「カーラ、黒脚に伝達、天馬に火矢を放つようにいって」
「だから、弓は効かないんだって! あれに矢は届かないし、刺さっても平気なの、射ったのが無駄になるだけよ!?」
「いまなら大丈夫だ。それに、火矢っていっただろ、いいから早く!」
「わかった!」
ヒョイッと窓の外に出たカーラに肝を冷やされるが、彼女は窓枠や出っ張りを器用に伝って、曹長を見つけるとハンドサインで指示を伝える。
上空待機中の“天馬”から、次々に何かが落とされてゆく。地面に当たって弾ける様子を見る限り、汚物や動物の死骸、石やガラス片といった類のようだ。危険ではあるものの、戦場での即効性はなく嫌がらせの域を出ない。
打ち下ろしで長弓を射るという手もあるが、弓兵は数を揃えなければ意味がない。見たところ浮力も高が知れているのだろうし、攻撃能力の優先順位は低いようだ。
共和国軍が火薬兵器の開発に成功した以上、いずれはあれが爆撃機の代わりになるのかもしれない。
「任せとけ、だって。異常に張り切ってるみたい」
危なげなく戻ってきた彼女は、呆れたように笑う。臼砲を仕留める機会は逃したが、それ以上のものが得られるとでも察したのだろう。人兎族は、どうも花火好きのようだ。
「よくやった」
無事に戻った安堵の気持ちを込めてカーラの頭を撫でると、彼女は驚いたような顔でウサギ耳をパタパタとはためかせた。
上階の喧騒は怒号に金属音が混じり始める。友軍同志で殺し合ってでも生き延びようという状況なのだろう。もう時間がない。ぼくは弓を背中に回し、青銅刀を抜く。
「ぼくが前に出る。カーラは援護を」
「イノチダイジニ、ね?」
「ああ」
アイコンタクトでタイミングを測り、物音が途絶えたところで壁際から飛び出す。廊下の先に開かれた扉。その前に、軽歩兵に長剣を突き刺している甲冑の男が見えた。こちらに向き直るが武器は塞がれている。男は瞬時に長剣を諦め床の短槍を拾う。手慣れらしいことはその判断でもわかった。振り抜いたぼくの一撃は身を沈めて避けられる。浅い角度で手甲に当たった刀身が弾かれて壁に突き刺さった。男の眼が光っているところを見ると、意図してやったのだろう。屈んだまま突っ込んでくる男の身体を跳び越えて転がる。男はぼくを振り返ることなく仰向けに倒れた。カーラの放った矢が眼に突き刺さっている。
「行って」
開かれた扉から室内を覗う。外壁が壊され、牢の支柱に“天馬”の係留索が伸びているのが見えた。牢ごと吊り上げようとして諦めたのか、単なるアンカーのつもりなのかは不明だが、いま檻は破壊され、縛り上げられた“メイフェン”が床に転がっている。まさに積み込まれようとしているところだった、ということは……
危うく身を捻ったぼくの鼻先を長剣が掠める。
身構える間もなく、扉の陰に身を潜めていた男たちが姿を現す。同じように小柄な体格、同じように剣呑な空気を纏った5人。帝国軍の黒い甲冑を身に付けてはいるが、騎士のようではない。どこか胡散臭い雰囲気があり、眼にも顔にもまるで表情がない。
「カーラ、下が……ッ」
男たちは無言のまま次々に身を躍らせ、体勢を崩したぼくに武器を振るってくる。それぞれが縦横に剣尖を繰り出しながらも、それぞれが干渉し合うことがないあたりに連携慣れしていることがわかる。端的にいって、非常に拙い。
カーラは驚異的な速度で短弓を連射するが、甲冑に弾かれて有効打にはならない。メイフェンを盾にするつもりか、男のひとりが後ずさって床に屈み込む。カーラが苛立った息を漏らし、短剣を抜こうとする気配がした。前の三人がぼくに向けて一斉に武器を構え、ニヤリとした嫌な笑みを揃える。
「死……」
後半は、全く聞こえなかった。
視界が真っ白に光り、赤くなり黒くなって何も見えなくなった。
◇ ◇
「…………ン!」
耳鳴りと頭痛と全身の疼痛と。唇の温もりと滑り、ずっとうなされていたような意識の混濁と。激しい震動が誰かに揺さぶられているのだとわかったところで飛び起きる。慌てて空気を貪り、なぜかいままで息をしていなかったことに気付く。
「……シン!」
視界が回復すると、涙目で睨んでいるカーラの顔が目の前にあった。周囲を確認すると、黒い甲冑の男たちは転がったまま呻いている。慌ててメイフェンの無事を確かめる。彼女を盾にしようと覆い被さった男が、結果的に爆発から身を呈する結果になったらしく、見たところ怪我は無さそうだ。
何が起きた……といおうとして止めた。外壁に開けられた穴の向こうに“天馬”がない。気球が爆発したのだとわかった。誰がそれをやらかしたのかも。
「ごめん、曹長にここのはダメっていうの忘れてて……」
「いいんだ。おかげで助かった」
応えた声は軋んで裏返り、聴覚もおかしくなっているせいで誰か他人のものみたいに聞こえた。
男を蹴り飛ばして、メイフェンを抱き上げる。呼吸は規則的で脈もハッキリと打っていて、いまは眠っているだけのようだ。
――ん? 呼吸……?
何か忘れているような気がするが、思い出せない。唇に触れながら振り返ると、カーラは慌てたように眼を逸らした。彼女はなぜかウサギ耳をパタパタさせながら、倒れている男たちに次々とどめを刺してゆく。ちょっと怖い。
「シン」
カーラが硬い声で警戒を伝える。螺旋階段の吹き抜けを伝って、兵士たちが踏み込んでくる音が聞こえてきた。
戻る道がない。というよりも、それどころの話ではなさそうだった。床が軋んでいる。壁も揺らいでいる。外壁から地上を見下ろすと、気球の爆風で壁が一面ほぼなくなっていた。
いまいる尖塔の上層から、城の狭い屋上まではまっすぐ降りれば十数メートル。だがロープの端はそこにはなく、城の外壁に向かって伸びている。墜落した“天馬”が流されたせいだろう。
床が揺れ、かなりの石が崩れ落ちる音がした。階段を上ってくる兵士たちの声がどんどん大きくなる。
申し訳程度の支柱だけで支えられた尖塔を、“天馬”の残骸が係留索に繋がったまま 引っ張っていることになる。
その塔の上層階に、共和国軍兵士が殺到しつつあるのだ。
「カーラ、ジップラインの経験は」
「聞いたこともない言葉なんだけど」
説明している時間はない。ぶっつけ本番で行くことにして、ぼくはロープの端切れでメイフェンを自分の身体に縛り付ける。落ちていた剣を鞘ごと踏み曲げ、カーラに渡した。
「……何これ? 武器ならあるけど」
「違う、こう使うんだ。早く、時間がない」
不思議そうな顔の彼女を促して、要領を伝える。両手でつかんだ刀の鞘を水平に構え、曲がった位置にロープを当てる、後は滑り降りるだけだ。
ぼくらが中空に踏み出すのとほぼ同時に、共和国軍が部屋に突入してきた。
「ひょおあおおおぉ……ッ!?」
風を切って滑ってゆくぼくらの背後で、兵士たちの叫び声が聞こえた。城の外壁から飛び出す前に手を離し、屋上に降りる。奇妙な音が鳴り始めていた。カーラが背後を振り返って凍りつく。ぼくらの上に影が差した。嫌な予感どころではない。ぼくはカーラを抱え込んで身構える。
根元から折れ曲がった尖塔が、無数の共和国軍兵士を満載したまま、ぼくらの上に倒れ込んでくるところだった。