紅旗
違和感は、最初からあった。
虫の声も聞こえる。枝を渡る小動物の気配もある。森は何事もなく平素の姿に戻っていた。それ自体が不自然なのだが、いなくなったメイフェンの捜索を優先したため、ぼくは頭のなかで響く警報を完全に無視していた。
下草に残った小さな足跡を確認する。水場と反対側にある森の外延部に続いている。
そこには朽ちた倒木が積まれ、天然のバリケードのようになっていた。帝国軍の連中がそちらに行くのは見たが、いまは何の物音もしない。
倒木の陰で呑気そうに寝転がる男たちの姿が見えた。甲冑は脱いで傍らに置かれ、差し込む日差しを避けるためか兜を顔の上に載せている。槍はひとまとめにして綺麗に立て掛けられている。どこから見ても、昼寝を許された兵士の一団。
だが、そんな筈はないのだ。
「武器を捨ててろ」
周囲から一斉に兵士が立ち上がった。包囲するその数、実に十一人。ここまで完全に気配を消せるものかと驚くしかない。帝国軍ではないのだろう。誰も甲冑を着けず、揃いの服は草色に染められていた。
ぼくは腰の青銅刀を捨て、背中から弓と矢立を降ろす。兵士のひとりがボディチェックをして、投げナイフを携行するための革帯を外した。明らかに軍と無関係な風体のぼくを見て、対処に困っているようだ。このあたりの事情に疎いなら、猟師にでも成りすますか。
「これは、獣人の武器か」
「ええ。流されてきた死体から奪ったものです」
「何で上半身裸なんだ。服は?」
「獣に持っていかれました」
メイフェンの話を出すべきではないと、遅れてきた警戒心がぼくに告げる。
兵のひとりがどこかに走り、やがて戻ってくると森の外へと連行された。
倒木の山を越えるとき、寝転んだままの帝国軍兵士たちを観察する。思った通り、目を見開いたまま死んでいる。出血はなく、どうやら首の骨が折られているようだ。
――まずい、こいつら、かなりの手練れだ……。
森を抜けた先に、急造の野戦陣地があった。いまだ抜刀したままの兵士たちと、赤い星の旗が見える。おそらく、東から攻め込んできたという共和国軍の先兵だ。数は姿が見えるだけでも二十ほど。飾り気のない草色の服を着て、剣を背に吊っただけの軽装だった。
樹木の隙間でチラチラと見え隠れする影から察するに、あと数十人は潜んでいるのだろう。
「やあ、あなたは森の狩人ですかな」
馴れなれしい声に振り向くと、痩身で眼鏡の男が立っていた。
この世界にも眼鏡くらいはあったわけだ。少し歪みのあるレンズは大きく厚くデザインも野暮ったい。
「シンだ」
「同志シン、我らは共和国軍強襲兵団、わたしは現地宣撫官のメイオフといいます」
どこか既視感のある人種かと思ったら、共産主義者らしい。というか、自分から宣撫官と名乗っては無意味なのではないだろうか。
「”龍の棲む森”があるとの情報を得て赴いたのですが、思わぬ伏兵に出くわしました。彼らは帝国軍の槍騎兵のようですが、森の外に繋がれた馬の数と合いませんね。残りは……」
ぼくは森の奥を指す。隠したところで、いずれわかることだ。
「まさか、あなたが?」
うなずくと、メイオフは手を広げて大袈裟な笑みを浮かべた。
芝居がかっているというか、どうも馬鹿にされている気がする。
「それは素晴らしい。これほどの力を持った人物と出会えたことを感謝しなければいけません」
「神に?」
「偉大なる祖国にです。我らが信奉するのは人民の力だけ。神など無知なる者の気の迷いにすぎません」
無神論者のぼくがいうのも何だが、それもまた極端な話だ。
「龍は神の使いと聞いたが」
「いいえ。獣人と同じ、人語を解するだけの怪物ですよ」
笑顔を浮かべた目の奥に冷たい光が宿っている。官僚やビジネスマンにいる、目だけが全く笑っていないタイプだ。
「あなたは個人的に、龍をご存知のようですね。あるいは……“龍の使い”を」
無表情のまま返答しないぼくを見て、楽しそうにうなずく。
背筋に冷たいものを感じた。メイオフはこちらの目を探るように覗き込み、身体中を撫でまわすように観察してくる。
彼は、何かを知っている。
「……では、“龍の化身”のことは、どこまで?」
反応を示さないようにしたつもりが、思わず殺意が漏れてしまったようだ。メイオフの微笑みが満面の笑みに変わる。
「王国軍も、帝国軍もですが、いまだに理解していないのですよ。戦の結果を左右するのは、個人の武勇や戦技ではないのです。物量、統制、そして……情報」
「あんたたちの敵だけを殺せばいいだろう、彼女には手を出すな」
「龍の棲家で人民は暮らせません。我らがこの地を“解放”したときのために、害獣は残らず駆除しなければ」
「ドラゴンは害獣じゃない。この地に暮らす誰も、そんなことは望んでいない。人心が離れると困るのはあんたたちの方じゃないのか」
「問題ありませんよ、愚かな者どもの啓蒙も我らの使命」
メイオフは胸の前で手を重ね合わせる。共産主義に殉じる乙女でも演じているようだ。
――吐き気がする。
「蒙を啓かせ、昏く濁った知性の闇に光を当てるのです。そのためには何であれ、偶像は廃さなければいけない。大丈夫、我らの力をもってすれば、この地の憂いを一掃するのは容易いことです」
「……それはどうかな」
森の周囲に、近付く気配がある。
三軍と対するもう一つの勢力。彼らの意図が何なのかは知らない。知りたいとも思わないが、この場を逃れる牽制役にはなる。
森のなかに隠れていた兵士たちが動き始める。展開して対応するつもりだろうが、無理だ。いくら精鋭でも、兵力差があり過ぎた。
森を押し包もうとする軍勢は優に300を超えている。兵科によって違う気配と足音。軽歩兵だけではなく、弓兵、重装歩兵に、騎兵も含まれている。
彼ら軽歩兵では、対処できない。まして地の利は相手方にある。
「これは、逃げるしかないようですね。龍の討伐はまたの機会にしましょう」
笑みを浮かべて立ち去ろうとするメイオフを止める。
「ひとつ、伝えておくことがある。あのドラゴンは、ぼくのクライアントでね」
ぼくは拳を握りしめ、男の鼻を眼鏡ごと叩き潰す。
「傷付けようとする者は誰であれ、敵だ」
「降伏しろ、みな武器を捨て跪け!」
聞き覚えのある声。いずれ会うことになるとは思っていたが、予想より早い。気を取られた隙に、眼鏡の宣撫官は凄まじい速さで下草を這い、木々の間を駆け抜けて消えた。
「中尉、こちらへ」
騎兵の足音が近付く。振り返ったぼくを見て、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……またお前か」
ケンタウルスの美女が、柳眉を引き攣らせて立っていた。