包囲
メイフェンの服をめくり上げると、細い身体に不釣合いなほど豊かな双球が跳ねた。
性的な感情は起きない。全身に刻まれたあまりにも凄惨な傷跡が、ふざけた感情を掻き消す。
青白い肌の色は貧血状態を示していた。ぼくは着ていたTシャツの裾を裂き、まだ血が溢れ出す腕と脇腹の傷を押さえる。腕の出血が特にひどい。当てていた生地が赤く染まってゆく。ベルトで止血帯を作り、脇下の動脈を圧迫することにした。
脇腹の傷は、すぐに出血が止まる。こちらは内臓に達していないことを願うしかない。
彼女がドラゴンの身体だったときとの縮尺から、腕と腹は刃物による傷だと思われた。槍か剣か、それとも両方か。
肩と脚にある短い裂傷は矢によるものだろう。それは背中側にもいくつかあった。
――いったいどこで何をやらかしたんだ、このドラゴン娘は!?
他の傷は……。
大小さまざまな擦過傷は無視する。左腕の黒い染みを上書きするように、火矢でも放たれたのか焼け爛れた痕が見えた。"腹出しTシャツ”になっていたものを脱いで水場に走リ、洗った後で濡らしてメイフェンの腕に当てる。
血が足りないだけなら、いますぐ死ぬことはない。腐ってもドラゴンだ。きっと生命力は強い。少しでも体温を逃がさないように、風の当たらない茂みの奥に運ぶ。
驚いたことに、矢傷は早くも消え始めていた。
腕の出血が止まったのを確認して、いちど止血帯を外してみる。血は滲むだけで噴き出さない。さすがドラゴン。だが、まだ油断はできない。
さっきの鬨の声はおそらくエル村で上がったものだ。誰と誰が戦って誰が勝ったにせよ、血に酔った集団がここに押し寄せるのも時間の問題だろう。
ドラゴンの血肉は不老不死の薬。そんな話を聞いたことがある。いや、それは人魚だったか。どっちにしろ手負いのドラゴンを放っておいたりはするまい。"龍殺し”の二つ名など、きっと戦の褒章でも最上級のものだ。
彼女を抱えたまま、水場の入り口を回り込んで人目につかない場所を探す。
森の隅で倒れかけた大木の根元が掘り返され、ちょうどいいくぼみになっていた。そこにメイフェンを寝かせると、枝と枯葉でカモフラージュと保温を兼ねた衝立を作る。
「動くなよ。すぐ戻る」
返答はない。脈は弱いが、打っている。いまは眠っているだけだ。
「ぉお……ッ!」
興奮した男たちの声が近付いてくる。足音も影も気配も、予想を超えて多い。概算で五十人はいる。
多勢に無勢。こちらの矢は二十もない。他に武器は青銅刀と投げナイフ。
メイフェンの元に戻れるのだろうか。ドラゴンの力を持ってしても数の暴力には敵わなかったのだ。
まあいい、そのときは死ぬだけだ。
それも悪くないかな、と心のなかで笑う。女を守って死ぬなんて、ぼくには上等な最期だ。
「出て来い、”龍の使い”! 帝国軍魔槍師団黒龍部隊、ガレアス・メイン・サルガードが、貴様の主もろとも成敗してくれる!」
勝ち誇った声が森の入り口で響く。見ると、黒い甲冑を着た兵士たちが槍を立てて名乗りを上げていた。中央で二股の槍を持つ男だけは、兜に白い飾りが付いている。貴族か指揮官か、部隊を率いているのはそいつのようだ。身長はさほどでもないが、肩も胸も腹も筋肉でパンパンに張っている。
「龍は手負いだと聞いています。あの傷なら、死んでいるかも知れません」
「この幸運を皇帝に感謝せねばな。黒龍師団百余年の歴史のなかでも、単騎で龍を屠った者はいない。名を上げるにはこれ以上ないお膳立てだ」
「我らは左右から追い立てます。御武運を」
指揮官だけが入り口に残り、部下たちは左右に分かれて森の中に広がってゆく。勝利を確信しているのか、緊張感はあまりない。
――罠を仕掛ける時間でもあったらよかったんだけど。
狭く入り組んだ木立のなかで、槍を主武器にした相手というのが唯一の利点か。こちらも青銅刀を振り回すのに気を使うが、不可能ではない。
まずは、裸の上半身に水場近くの泥を塗った。気休め程度だが、日焼けしてない日本人の肌は、森のなかでは目立つ。
ぼくはウサギの弓を構えて、密集した敵兵の一団に狙いを定めた。
「……!?」
まずい。何だこれ、身体がおかしい。違和感どころではない。腹のなかから噴き上げる不可解な熱。痛みに似た刺激が背筋を駆け上がり、熱は全身に広がって思わず叫び出しそうになる。
わけのわからない昂揚に脳が痺れる。それはどこか性的興奮に似ていた。
意識しない間に、ぼくは番えていた矢を放つ。
聞いたこともない音。見たこともない速度。鏃は軽い音を残して甲冑の間を抜け、どこかに消えた。物音に気付いた兵が、矢の飛び去った先を振り返っている。
――最悪だ。先制の初弾を外した……!
中央にいた三人が、急に膝から崩れ落ちる。隣の兵士が馬鹿にした笑いを上げ、仲間を蹴って起き上がらせようとする。彼は何の反応もない仲間の顔を覗き込み、短く悲鳴を上げた。
「し……死んッ!?」
青銅刀が首を刎ね、声は途中で消える。
不意打ちの失敗を確信したぼくは、残った兵士のところまで一息に駆け寄っていた。鈍刀の重さに引っ張られ、身体が流れる。その先には棒立ちの敵。勢いに任せて振り抜くと、隣の兵も首から血を噴いて転がる。
顔を上げると、四人の兵士がこちらに歩いてくるところだった。
隠れる暇はない。身体を低く沈めて、最前列の男の足元まで踏み込む。ホームラン狙いのバッティングのように、下段から刃先を傾け全員まとめて切り上げた。
槍を身構える間もなく、兵たちは大腿部を薙ぎ払われる。宙を舞った身体は回転しながら吹き飛び、粉砕され挽肉のような太腿の断面から血飛沫を撒き散らす。
最後部にいたひとりだけ当たりが浅い。彼は砕けた片膝を見て呆然と立ち竦み、ゆっくりと前のめりに倒れていった。
悲鳴か警告か、叫び声を上げようとうつ伏せのまま大きく息を吸い込む。
ぼくは投げナイフを抜いた。甲冑の隙間から延髄に突き入れると、兵はビクンと痙攣して動かなくなった。
息を整えながら、転がった死体を振り返る。最初に倒した兵士たちは、どれも胸に風穴が開いていた。
矢は、当たっていたのだ。鎧を着た兵士を三人も貫通して。
自分の身体がおかしくなっていることを、戦闘に入るまでは気付かなかった。これは……
”龍の加護はくれてやる”
あのときは聞き流していた、メイフェンの言葉。ぼくはその意味を、ようやく思い知ることになる。
「コールマン!」
「ここです」
「マティス!」
「こっちです」
薮の向こうで兵士が声を上げる。ぼくとドラゴンを追い立てるための包囲網を確認しているようだ。ここにいる九人の名も、すぐに呼ばれる。
「タイアー!」
返答はない。当たりだ。
「タイアー、どこだ!」
「こっちです、来てください!」
ぼくは苦しげな声を上げ、直後に薮の陰へと回り込んだ。駆け寄ってくる足音と気配を数える。方位を崩さないためか、やってきたのは三人ほどだ。
「どうした、龍にケツでも食われたか」
ドラゴンの縄張りに踏み入っておきながら、あまりの緊張感のなさに呆れる。
最初の二人をやり過ごし、三人目の首をすれ違いざま横から投げナイフで刺す。
「……ッ!?」
通り過ぎた二人は、転がっている死体の山に目を奪われている。振り返る前に青銅刀で薙ぎ払うと、首無し死体が並んだまま山の上に加わった。
違和感は、消えない。
体力が、減らない。疲れも感じない。恐怖も迷いも憐憫もない。あるのは静かに滾る殺意と憤怒だけ。これが龍の加護だとしたら、その言葉から受けるイメージとはずいぶんと違っていた。
攻撃以外の能力がどうなっているのか知らないが、これではほとんど狂戦士だ。
嘆く間もなく、甲高い笛の音に警戒心を取り戻す。
薮に隠れて周囲を見渡すが、目に映る限りの兵士にこちらを発見した様子はない。何かの隊列展開を指示するものだったのか、半数ほどが笛の鳴った方へ移動し始める。
水場とは逆側にある、倒木の山。
――大丈夫、メイフェンを隠した場所ではない。
ぼくは薮を回り込み、遮蔽物の間を移動しながら敵を探す。ひとりで残っていた兵士が余所見をしている。甲冑の背をつかんで引きずり倒し、首にナイフを突き立てる。
ひそひそ話し合う声が聞こえた。切り株の陰に、古兵らしき兵士が五人、車座になって座っている。場を取り持っているのは、片手剣を弄ぶ一際屈強な赤ヒゲの男。
「死にかけの龍なら仕留めるのは簡単だ。身を守るために殺しちまいました、っていい張ればいい」
「そんな話が通るもんか。下手すりゃ口封じに殺されるぞ?」
「このままじゃ、”龍殺し”の名は”お飾りガレアス”に持ってかれちまう。それにな」
赤ヒゲが下卑た笑いを浮かべる。
「こんな場所なら、こっちにだって口封じはできる」
周囲の古兵たちは互いに視線を走らせ、黙って赤ヒゲを見る。
「決まりだな。槍は置け、使い物にならねえ。こんな森んなかで重い長槍を振り回そうなんて馬鹿は……あのお飾り貴族くらいだろうよ」
古兵たちは素早く散開し、周囲の警戒に入る。襲う機会を逃したぼくは、余所見していた兵の死体を薮の下に押し込む。
「くっそ、シュライクの馬鹿どこ行きやがった!?」
「また小便でもしてるんだろ。チビリ屋シュライクは足手まといだ、ちょうどいいさ」
別の場所で叫び声が上がった。ぼくは血の気が引くのを感じる。そこは……
「ちょっと来てくれ、女がいたぞ!?」