変容
辿り着いた夜の森には、何の気配もなかった。
“龍の使い”の姿もなく、ドラゴンの影もなく。虫の声も聞こえず、無人の水場に、わずかな水音が響くだけだった。
「……なあドラゴン、いないのか?」
その声は虚しく森に吸い込まれる。
運んできた青鹿は跡形もなく消えていた。満足したかは不明だが、受け取ってはもらえたのだろう。
ぼくは青銅刀を樹に立てかけ、ウサギの弓と矢立を放る。ドラゴンの縄張りに近寄る肉食獣はいないだろう。ここで眠ることにした。
もう帰る場所はない。
いや、そんなものは最初から、どこにもなかったのかもしれない。
昂りは去っていたが、気力も喪われていた。いまは、何も考えられない。明日、日が昇ったら。そのとき、行く末を決めよう。
◇ ◇
目が覚めたのは、何かの気配。こちらを見つめる視線を感じたからだ。
樹木と茂みに覆われた森の闇。漆黒の一部が、何かの影で塗り潰されている。
「なぜ戻った」
ドラゴンの“声”だ。頭に直接響いてくるそれは、ひどく草臥れて聞こえた。
「行く場所がない」
ぼくの返答に、ドラゴンは鼻で嗤う。
「逃げてくる先を誤ったようだな。もうすぐ、ここは戦場になる。ヒト型の軍勢が境界を割った」
「この辺りは王国領のようだけど……攻め込んできたのは共和国か、それとも帝国?」
「我らはヒトの区別などせん。何と名乗っているのかなど知るものか。山向こうの集落を襲っていた軍勢が、西から来た別の群れに呑まれた。勝った側の旗色は緑地に黒。もうひとつの軍勢、赤い星を掲げた群れが東部の湖を迂回して接近している」
わからん。旗色以前に、王国軍以外の兵士を見たことがない。王国の軍旗は知らないが、徴募部隊の甲冑に共通の意匠はなかったように思う。
やつらが雑兵だったせいか、あるいは正規兵ではなかったのかもしれない。
「では、獣人は? 彼らも軍を率いて戦っているみたいだったが」
「さあな。北部台地の上で大きな合戦があって、やつらもずいぶん数を減らした。袂を分かって巣穴に戻ったとしても不思議ではない。もともと違う種族の獣人が手を取り合うこと自体、不自然だったのだ」
危うく殺されそうになった、ケンタウルスの兵士たちを思い出す。彼らも故郷に帰ったのだろうか。それとも、いまもどこかで戦っているのか。
不思議なことに、彼らが死ぬという結末だけは想像できなかった。
「あんたは、どうするんだ。逃げるのか、それとも戦うのか?」
「もうすぐ、日が昇る」
ぼくは首を傾げる。質問の答えになっていない。ドラゴンの声が弾んでいるように聞こえるのは、息が上がっているせいだろうか。
どこか、違和感があった。
「人の子よ、我との契約は果たされた。龍の加護はくれてやる。どこへなりとも行くがいい」
「だから、行く先なんてないんだって……」
遠く地平線が明るくなってきていた。森の頂が明るく彩られ始める。闇に沈んでいたドラゴンのシルエットが、うっすらと浮かび上がってくる。
黒く染まっていた影が、くすんだ血の色だと分かる。
「……おい、怪我をしているのか!?」
「薬草を噛んだ。夜が明けるまであと四半時、それまでは動けよう」
まるで噛み合っていないそれは、ほとんど独り言だった。ドラゴンが身じろぎすると、枝や茂みをへし折るベキベキという音が響く。立ち上がると脈拍に合わせて鮮血が噴き出す。
「何いってんだ、そんな身体で動いたら死ぬぞ!?」
「死は定めだ。同胞を手に掛け全てを奪ったた外道どもは、あらかた肉片に変えてやった。残るは七匹。残らず屠るのは難しかろう。果たせなかった恨みは、あの世まで持ってゆくしかないが……」
ドラゴンは笑う。ひどく楽しそうに。
薬草とやらで酩酊しているのか。最初に会ったときとはまるで性格が違う。
「……最期のときくらい、猛り狂って迎えたいのだ」
「よせって、誰と戦う気か知らないけど、やるなら回復するまで待て! そんな状態で向かってったところで、犬死にするだけじゃないか!」
ドラゴンは視線だけをこちらに向ける。そこには何の感情もない。その眼は曇り、濁り、充血して、暗い。
「……我が前を塞ぐ者は……敵」
ごぅっと、風の音が鳴る。振り回された腕は大木をへし折り、叩き付けられた爪は岩を粉砕する。それがぼくに向けられたものなのだとしたら。
――もう、目が見えていない。
咆哮とともに振り上げられた尾が周囲の倒木を上空に跳ね上げる。樹幹が切れて、隙間から薄明かりが差し込んできた。舞い上がる土埃のなかで、光の帯がスポットライトのようにドラゴンを照らす。
怒り、憎み、悲しみ、悔やみ、嘆き、怯え、死に掛けた血塗れのドラゴン。
その姿が、光の中でぼやける。
巨大なシルエットが掻き消され、淡く儚く小さな何かに収束してゆく。
「……おい、あんたまさか」
それはあのとき、ここで出会った女性。病に冒され、銃創を穿たれた“龍の使い”。髪は乱れ、肌は青褪め、白かった服は、血で深紅に染まっている。
彼女は見えてない眼でぼくを見つめ、届かない手で宙をつかむ。駆け寄るぼくの目の前で、血の気の失せた唇が小さく震えた。
「……ふぉーらぅん……あい、と」
倒れ込んできたメイフェンを抱き締めながら、ぼくは遠くに鬨の声を聞いた。