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私はパンツ~彼女の中心で愛を叫ぶ~

作者: うなぎ先生



  彼女の中心で愛を叫ぶ



 私に意識と言うものが芽生えたのはいつの頃だっただろうか。何度と無く自分の記憶を遡るがそのタイミングを思い出す事はついぞ出来ていない。或いは人間が乳飲み子の時の記憶を覚えていないのと同じように、私もこの世に産まれた時から意識を持った存在だったのだろうか。主の体温を感じながら私はいつもの様に答え無き解を黙考する。

「行ってきます!」

 主の快活な声が玄関口に響く。少女特有の高くよく澄んだ声だ。仮に私に声帯があったとしてこのような綺麗な発声が出来る自信はない。たったった、と軽快なリズムがアスファルトに反射して届いてくる。主が走っているのだろう。心地よい音色に身を任せたくなるが、如何せん主の脚を伝ってくる振動がそれをさせてくれない。無粋とは正にこの事であろうか。私は自分で身じろぎ一つ出来ない不自由な身体に嘆息する。一体何故私は女性用下着、パンツなんかに産まれてきてしまったのか。



 砂利道を走る軽トラックの様な粗雑な振動にじっと耐えていると、突然それがぴたっと止んだ。何と言う事はない、主が歩を止めたのだ。全力疾走によって高鳴っていた主の鼓動が太股を通じてドクンドクンと響いてくる。主が呼吸を整えているのだろう、時間が経つにつれて早鐘のように鳴っていたそれが少しずつ静まっていくのがわかる。

「お待たせ」

 例の澄んだ主の声が頭上から聞こえてくる。何故家を出てからここまでずっと走っていたのか疑問であったが、どうやら人と待ち合わせをしていたらしい。おかげでこちらは主の汗で少し湿ってしまった。いい迷惑である。

「いや、俺も今来たとこだよ」

 主とは別の声がやはり頭上から聞こえてくる。会話の流れからすると主の待ち合わせ相手だろう。主に比べて太い、どこかで聞いた事があるような気がする声音であった。

「にしても暑いねえ。参っちゃうよ」

 たはは、と主の笑い声が辺りを包み込む。今まで気付かなかったが待ち人と合流してから心なしか主の声が普段より少し高くなっているような気がした。そうなんと言うかそれは恋をしている少女の声のようであった。なるほど、どうやら主は目の前の男に恋をしているらしい。少し複雑な心境だ。



 主と主の想い人が映画館から出ると外は大分薄暗くなっていた。生憎と私は地面しか見えないが、それでも昼と夜くらいの区別はつく。

「凄い面白い映画だったね!」

「ああ、久々に当たりだった」

 どうやらいい出来の映画であったらしい。残念ながら私は音しか聞こえなかったので内容の半分も解からなかった。まあそれはいい。今問題なのは先程から私の身に走る悪寒の方である。表現が適当かは微妙なところだが、少し前から偏頭痛のような痛みがジクジクと私を苛んでいた。

「あ!」

 主が何かに気付いたように声を上げる。私の身体に走る痛みは相変わらず消えない。

「道の向こうにお母さんがいる」

 道路を挟んだ側の歩道に主の母親がいるらしい。主の脚が駆け出そうと動き出すのが判った。何故だかそっちに行ってはいけない気がした。痛みがジクジクからズキズキへと変化していく。

「お母さん!」

 健康的な足が一歩一歩と地面を踏みしめていく。主よ、そっちは駄目だ。そっちへ行ってはいけない。

「危ない!」

 俄かに後方から鋭い声が突き刺さる。それに一拍遅れて地面を擦るタイヤの音、そして世界の終わりを告げるようなけたたましいクラクション。何かが主を抱きかかえる感触。それと同時に訪れる凄まじい衝撃。ぐるぐると回る世界。誰かの黄色い悲鳴。煌びやかな街頭。痛む頭で私は思った。「ああ、私はこの出来事を知っていたのだ」と。



「……え」

 何が起こったのか解からないと言うような呆けた主の声が聞こえる。そして、私の視界の飛び込んできたものそれは。それは――俺だった。

「馬鹿かお前。一体いくつだよ。急に道に飛び出したら危ないだろうが」

 正面から『俺』の野太い声が聞こえてくる。息も絶え絶えと言った様子だ。しかし、その顔に翳りのようなものは感じられない。半死半生の状態だが好きな娘を救えた満足感が勝っているのだろう。

 そう、私は『俺』だったのだ。以前から好意を抱いていたクラスメイトと最近ようやっと恋仲に進展したばかりのただの男子中学生。初めてのデートで恋人が車に轢かれそうなところを身を挺して守った愚かな少年、それが私。正確には以前私だったもの。

「……わたし…わたし」

「おいおい、泣くなよ。本当にお前は子供だな」

 嗚咽をもらす主とシニカルに笑ってみせる『俺』。ここで痛みに泣き叫んでは格好悪いと言う男の意地だろう。しかし何故だろう。『俺』の視線は私から外れない。

「やだ、死なないでよ……死なないで」

「はは、残念ながらそれは無理らしい」

 死の間際とは言え、客観的に見ると我ながら恥ずかしい台詞だ。私が人間であったとしたら羞恥で顔がオリモノのついた下着のようになっていた事だろう。 

「生まれ変わったら……またお前と会いたいな」

 だから恥ずかしいからそんな歯の浮くような勘弁願いたい。それにお前はこの時そんな事を思ってやしなかったじゃないか。お前が思ったのは――生まれ変わったら……目の前にあるパンツになりたいな――だっただろう。



 こんな不自由な身体の私だが、主がしゃがんだ時だけは外の景色を眺める事が出来る。唯一不満なのは視界に映るのが野暮ったい石の塊以外に何もないと言う事だ。そう、私は主と一緒に『俺』の墓参りに来ていた。今は墓前で主が手を合わせている為に束の間の開放感に浸る事が出来ているという寸法である。

 あの時、彼女を車から庇った『俺』は死んだ。しかし、神様とやらの気まぐれなのか何なのか『俺』は『私』へと生まれ変わって彼女のパンツとして新しい生を謳歌し始める事となった。哀れな少年の最後の望みが小さな奇跡として世界に体言したのだ。

 手を重ねる主を感じながら私は思う。彼女はいつまで『俺』の事を想ってくれるのだろうかと。早く自分の事など忘れて新しい恋をして欲しい、と思えるほど『俺』は大人ではない。だが、時間が経過すればいつかはそんな日が必ずくると言う事を理解できないほど『私』は子供ではない。その時がやってくるのが一年後か二年後か、或いは半年後なのか、それは私には判断出来ない。ただ、願わくばその時間がお気に入りの下着を処分する程度の長さはあると信じたいものである。


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