櫻~銀幕のかなたに~
その頃。僕は時間と世界は無限だと思っていた。
自サイトで公開していた作品の転載になります。
映画監督志望の青年と女優志望の少女の不思議な物語。
――そのとき、僕は時間が無限にあるとおもっていた――
彼女と初めて会ったときのことはよく覚えていない。
僕が覚えていることはなけなしの金で買った手のひらサイズヴィデオをもって、彼女と神社や古びた駅の上で、“映画”を撮っていたことだけだ。
僕は当時、シナリオの書き方とか、脚本がどうとかは全く知らなかった。
『自分は映画監督だ』
そう思う事で生きていただけで、世間様から見ればどうしようもないプータローだった。
夢は映画監督。
だけどどうすればそうなれるのかさっぱりわからなかった。
せっかくついた工場の仕事も、すぐにクビになった。
映画監督になる夢とは明らかに違ったから。まったく仕事に情熱を持つことが出来なかったから。
「そんなもんでくえるワケがない。早く定職につけ」
親はそれしか言わなかった。
まぁ当たり前だが親として心配だし、老後のこともあるだろう。
世間的な体面もある以上、息子の夢はとっとと諦めてもらわないといけない心情も理解できると思っていた。
だけど夢を諦めて廃人となり親の為に生きてみても、僕はまったく仕事に熱を上げる事は出来なかった。
当然そんな考えだから何処に行ってもクビになった。
頭の中は映画のこと。
メガホンを片手に誰もが感動する映画を撮るという子供の頃から見た夢だけだった。
僕に長男としての責任感はなかった。
あったとしても、そうやって自分を殺して生活費を稼ぐ日々に魂が腐ると気づいたこと。お前の可能性は無限にあるのだから仕事をしろと諭す親が極めて常識的な判断だが僕の映画への情熱や可能性をまったく考慮に入れない環境。
僕の残りの人生は彼女や彼がした様に、親や子供に滅私奉公するしか無いと言われるのが辛かった。
彼女や彼は僕が育つ姿が生きがいになっただろうが、僕はもう、結婚する意志も相手もなかった。
僕は自分の親が贅沢をしなければ残りの人生は 普通に生きて行けると知ったそのときから親孝行をやめてしまった。
気が付いたら親とは疎遠になっていた。
僕は。自分勝手だ。
親からは顔を合わせるたびに文句を言われるので、文句を言われながら食費を払うよりはと自立した。
食費は毎月四万送金した。
やがて三万になり、二万になったが親が死ぬまで続けた。
月五万程度のアルバイト。
今時珍しい風呂も便所も付いていない四畳半のボロアパートの家賃を滞納し、やることがないので部屋の縁側から隣の小学校で遊ぶ子供たちの無邪気な姿を見るのが楽しみだった。
我が塒は小学校の隣にあった。
壁や垣根などとうの昔に消え去ってないか、最初からぶっ壊れているらしい。学校が丸見えだ。
実際、忘れ物をした生徒が我がアパートの庭を突っ切って脱走しているのは時々見かける光景で、子供たちの何人かは真昼間に学校の敷地に入りこんでは水ばかり飲んでいる若い男(僕だ)に好奇心を刺激されてか、よく僕の部屋に押しかけ、勝手に僕の本などをいじって遊んでいたのを覚えている。
腹が減ったら水を呑み、月末になれば大家から逃げまわり、秋には蟲を取って焼いて食い。春には道端の野草をとって食う。除草剤に当たったのか頭がガンガンしたこともあった。
そうそう。
ネコをとっ捕まえて空き缶ですき焼きにしたこともあった。あれは二度とやりたくない。
そんなこんなで、僕は二七歳になっていた。
今日みたいに、雨がしとしと降って窓の外がセピア色に染まるとき。
僕は思い出す。
彼女のことを。
彼女といっしょにとった映画のことを。
「私。世界一の女優になりたいんです」
ある日僕が目を覚ますと、我が視線の先に茶色のコートを着た少女が立っていた。年の頃13から16歳ほど。身長は150センチもないだろう。今時珍しい艶やかな黒髪に大きな瞳。ボロボロのアパートの一室には絶対そぐわない容貌の、こういってはあまりにも陳腐といえるが美少女といって良い容姿。
僕は布団から起きだして、これまた今時珍しい青白の縦縞トランクス一丁と言うあられもない姿で彼女を観察した。
目が覚めるような美貌だ。とは言わないが大きな黒い瞳と言い、短くしているのが惜しまれるほど美しい黒髪。信じられないほどきめ細やかで薔薇色に染まった白い、白い肌。
誰がどう見たって僕のところに来るのは筋違いだ。
なにを考えているのか彼女のブーツは僕の部屋の畳の上に乗っかっている。
まぁ。靴を脱いで上がったら一瞬で靴下が埃まみれになりそうなほど汚しているから仕方ないか。
何処から入ってきたのか? 考えるまでも無い。
このアパートの扉のノブは僕が借りる前から取れて大穴になっている。入るつもりなら何時でも入れる。
「いいですよね? 監督?」
「いいよ」
何故即答してしまったのか。
それはどうしようもないプータローの僕にも何故かわかったのだ。
彼女は一〇年に一度、いや、一〇〇〇年に一度の逸材なのだと。
こうして次の日から『撮影』が始まった。
彼女は微笑んでいた。撮影するのは僕。カメラマンなんていないから。
僕か彼女がカメラを持つ。交互に持ち合ってお互いを撮る。
女優は彼女だけ。男優は僕だけ。
ほかに誰もいないから映像に映るのは僕か彼女のうちどちらかだ。
僕は彼女に比べるとどうしようもない大根役者だった。
反して。言い得て妙だが彼女は空間を制していた。
彼女しか役者がいない環境での苦肉の策として、僕らはお互いをうつす時は、誰かから見た視点を使い、会話の相手はカメラを持つほうが担当したのだが、僕が映像に移る時の彼女の声は後ろから前から聞こえてくると錯覚してしまうほど絶妙な発音で僕の相手をした。
逆に僕が彼女を撮るときは彼女は彼女以外に人がいるに違い無いと錯覚するほど素晴らしい一人芝居を見せた。
それからの僕は彼女と連れ立って必死で“映画”をとりまくった。
彼女と出会う前はカメラを持ってはいたが夢を持ったまま呆然と生きてきた。
何故なら、実質なにもしてなかったからだ。
なにをすればいいかまったく見えなかったからなにをする事も無く生きていたのだ。
ちょっとした心境の変化という奴で僕の生活は変わった。
作品を作って作って作りまくった。
それが正しいと思えた。
夢を語りつつ何もしない僕はただのプータローだったのに世の中はわからない。
彼女は僕の最初のファンだった。
どんなつまらない映画もここが面白い、ここが変と言ってくれた。
僕は奮起してとにかく修正版を作りまくった。
その時のカメラの先には彼女が。
向かいの小学校から僕らの映画製作を助けにきた子供たちの笑顔があった。
やがて僕は自信といってはおごたましいが、そういったものがついてきた。
彼女の「面白い」、「結構好き」などという台詞を聞きたくて、必死で“映画”を作るべく彼女とあちこちを駈け回った。
彼女の存在が僕を変えた。
同時に回りも変わった。
古びた駅のホームは支那大陸で恋人と別れる涙のシーンに。
学校の校庭は練兵場に。
駅のホールはダンスカフェ。
彼女は乞食の娘から場末の娼婦、貴族の娘や皇族、異国の王女まで完璧にこなして見せた。
彼女が声色を変えるだけで老婆から子供へと年齢すら変わったかの印象すら受けた。
彼女にカメラを向けたとたん、賤しく卑屈な女乞食から華麗で気品溢れる皇族までコロコロ変わる雰囲気がたまらなく快感で。
子供たちと戯れる笑顔が最高だった。
役に応じて彼女が泣く時は、何故か撮影している僕まで少しもらい泣きしてしまうほどだった。
普通なら恋愛感情とか言う所だが、残念ながら僕にはそんな甲斐性は無い。
それに二人とも、映画を撮ると言う事しか考えてなかった。
同時に、僕の生活は前にも増して逼迫していた。
僕は拾った金を無駄遣いしないように畳の裏に貯めこみ、撮影がすべて終わると彼女をねぎらうため食事に誘った。
と、いっても場末のファミリーレストランがせいぜいだが。
勿論、いつも僕は水腹で、彼女が心配などせぬ様に、必ず腹いっぱいであるように見せかけて彼女の食事する風景を見るだけだった。
僕の演技力はこのときに培われたのだ。
いやはやまったく。何が幸いするかわからない。
彼女は何時も素直だったが、こと僕が何も食べて無いと知ると、強引に何か食べさせようと迫った。
あと、僕が酒とか煙草を吸うのも嫌った。ちなみに、例としてだけで述べるが麻薬などもってのほかで、風邪薬を飲んだだけで彼女は怒りだしたと記しておく。
いつだったか彼女の誕生日に大きな縫いぐるみを買ってやったことがあり、彼女はそれをみて大いに喜んでみせた。
「可愛い~!」
はしゃいで縫いぐるみに抱きつく彼女。
「な。可愛いだろ」
急に彼女の笑顔が消え、ぎろりと僕を睨んだ。
「なにが?」
僕はうろたえながら彼女の意図を図りかねてこたえる。
「いや、可愛い縫いぐるみだろ?」
彼女は一気に冷めた瞳を僕に向けると縫いぐるみを足元に落として蹴りを入れ出した。
「???」
「監督に可愛いと言われるなんて許せない!」
その時、彼女の行動の意図を理解できなかった僕でも、叫んで地団駄を踏む子供以下の行動をとる少女の姿に何となく納得を感じた。
とにかく素直に見えてワガママで手のかかる役者だったが、僕らは良い相棒として自転車やヒッチハイクで日本じゅうを駈けずりまわり、兵隊も乞食も悲劇の少女も遊ぶ子供たちも小さな手のひらの上に乗るカメラに収めた。
小さな手のひらの上に無限が乗っていた。
草むすおんぼろの駅で数時間に一回の電車を待ちながら亜米利加西部で恋人と再会する乙女の姿を撮り、雨宿りに訪れた潰れた食堂で、接客に追われる食堂の娘を撮った。
え?
なぜ潰れた食堂が空いていたかって?
勿論、扉を壊したからさ。
映画を低予算で作る為の必要悪だとおもって欲しい。
そう言えばこんなこともあった。
ある日、僕が彼女に「やせすぎだ」と怒られ、とある食堂に引きずり込まれたときの話だ。
彼女は吃驚するほどガツガツ食べ、僕にも「野菜をもっと食べましょう」だの「肉を食べて」とか「あー!! 魚はもっと綺麗に食べましょうよ監督!!」だのと叫んでみせる。
僕は仕方なしに食べて食べて食べまわった。
久しぶりのマトモな食事に力が沸く。
「では監督。こっちへ」
彼女はニコリと妖艶な笑みを浮かべて僕をトイレにいざなう。
僕は久しぶりの食事で他のことがよくわからない。
店主が僕らを意味深な笑みを浮かべて眺めるのを横目に僕らはトイレへと入っていく。
「監督」
彼女は潤んだ瞳で僕を見る。
ふと、何かに気がついたように、ズカズカ歩くと 入り口のドアを軽くトントンと叩いてみせる。
「邪魔」
彼女が呟くと店主の「ひぃ」という声。
彼女は僕のほうに振りかえり。
そして。トイレの窓に昇った。
「??」
な、何をする気だ?!
「逃げるわよ。監督!!」
そういって窓から楽しそうに飛び降りる。
おいおい、二階だぞ?!
僕らは必死の形相で包丁を持って追っ掛けまわす店主を振り切り、逃げて逃げて逃げまわった。店主には悪いが笑いに笑いながら逃げた。
二人で駆けずり回って、気が付けば二年たっていた。
そのあいだ。
たった二年で彼女は驚くほど美しく、素晴らしい役者になっていた。
彼女はモノクローム映像に映えた。
黒い艶やかな髪の輝きも、白い肌の美しさも。
カラー映像で彼女の魅力が伝わるもんか。
そうだ。時代はモノクロだ。そう言う莫迦を言うのは僕だけだと思うのだが彼女は笑って賛同してくれた。もっとも、最初に撮った画像が何を間違えたのかモノクロで撮ってしまい、それを彼女がよいと言ったのが大きいのだが。
僕は当時苦悩していた。
彼女の役者としての能力は飛躍的に向上しているのに。
彼女の実力はどの俳優より優れているだろうに。
何故に彼女は僕なんかといて、愚にもつかない自主製作映画のヒロインなどをやっているのだ?
彼女は僕といるより、もっと広い世界にいるべきだ。
それが彼女の夢をかなえる一番の方法なのだから。
僕は年に何本も何本も映画を撮っていたが、相変わらず何処にも売りこむことをしてなかった。
やり方がわからなかったから。変化を好まなかったから。やり方を調べる努力すらしなかったから。
「重い~~~!!」
その日の僕は彼女を自転車の後ろに乗せて、昨日きめたロケ地へと向かっていた。
(当時は“ロケ地”なんて言葉は知らなかったかもしれない)
梅雨の季節。灰色の街。街路樹に這う蛞蝓。
篭には大量の衣装。
「誰が重いよ!? 失礼ね!!」
後ろに横向きで座る彼女が叫ぶ。
街の人々がよくわからない年の離れた二人の姿に振り返る。
一人は二九歳。一人は一七歳。
「監督」
「なんだい?」
梅雨の湿った雰囲気はぼく等には似合わない。
「ふたりで、一緒に大きな賞を取りましょうね」
「うん」
僕は笑いながら自転車をこいだ。
大きな坂道を下り、上がってきたトラックに跳ねられそうになって肝を冷やしたが彼女も僕も大笑いしていた。
僕は、僕自身の成長が無いという苦悩を除いて幸せだった。
とても幸せだった。彼女がいなくなるその日まで。
僕はグレーの目立つ古びた駅のホームに立ち。小さなカメラを動かす。
彼女の一人芝居が始まる。
彼女は笑い、唄い、怒った表情を見せる。
「おわった~~」
最高の笑顔に僕も微笑む。
この笑顔が使えないのが残念だな。
「よーし。監督! いっぱいやるか!!」
おどける彼女。
「却下」
笑う僕。子供にアルコールは厳禁だ。
いつも通り僕のアパートに押しかけて散らかったゴミを蹴飛ばし、万年床の布団も蹴飛ばして彼女はニッと笑う。
「どうかしたのかい?」
僕は戸惑う。
「頑張ってね。監督♪」
彼女は微笑んだ。
僕は戸惑いを隠せない。
「おいおい」
僕は息を呑んでゆっくりとはなしだした。
「他所に行けばもっと可能性も広がっているのに、こんな愚にもつかない映画ばかり撮る僕に黙ってついてきた君には感謝してるんだ」
本心だった。
「本当は君は他所の映画会社に行った方が良いと思う」
残念だが事実だ。僕の相手をしていてもなににもならない。
「だけど、それでも君は一緒に来てくれた」
一気に、ゆっくりという。口が滑った。
「一緒に最高の映画を撮ろう」
ちょっと赤くなる僕に彼女は潤んだ瞳を見せて花のような微笑みを見せてくれた。
「うん。監督」
最初であった時と同じ、梅雨時には暑すぎるコートにブーツ。お茶目な笑顔。
それ以来。彼女は僕の家に来なくなった。
僕は彼女を待った。ずっと待った。
待つのを早々にやめて布団に潜りこみながら待った。やがて現実逃避を止めて彼女を探し出した。
彼女は僕の母校の生徒だったはずだ。僕は母校に問い合わせた。が、母校のみならず彼女はどこの中学にも高校にもいなかった。
考えてみれば、白いセーラー服など見た事が無い。
僕はいい加減怒った大家の扉を叩く音を完全に無視して、女の笑顔、怒った顔。悲しんだ顔、高貴な姫の姿。場末の娼婦兼女乞食の姿を編集していた。
彼女の姿だけを。
僕は終いに大家に追い出され、橋の下で寝泊りしだした。
なにも持っていなかった。機材は皆大家にやった。
一本のビデオテープを除いて。
僕はそのテープを近所の映画館に持ち込んだ。
場末の潰れる寸前の小さな映画館の主は難色を示したが、僕が何日も乞食の様に映画館の前で座りこんでいる姿を見て折れた。
銀幕に。
暗い暗い劇場に。
灰色のモノクローム映像が映し出される。
暗く汚れた場末の劇場に。
暗いモノクロームの映像。
そこには誰よりも明るく輝く彼女の姿があった。
三日だけ。
映画館の主との約束は一週間だけの延長を勝ち取った。気が付けば二週間目になり、五週間。何ヶ月。何年。
そのあいだ僕は銀幕越しの彼女を見つづけた。
あの映像が海外の有名な賞の候補に上がったらしい。僕にはなにも撮る気が無かったのに。僕はただ銀幕に映える彼女の表情をみつづけたかっただけだったのに。
授賞式は辞退した。
彼女と一緒。
それが約束だったから。
僕は三十路を超えていた。
儲けは彼女の捜索に費やしてしまった。
映画ファンや各種会社のスカウトマンが彼女を求めて探し回ったが彼女は世界中のどこにもいなかった。
僕は例の映像のおかげで映画を撮れるようになり、なんとか食える身になっていた。
例の映像ほど売れないが。
僕は満足する作品を求めて撮って撮って撮りまくった。
ある梅雨の日、僕がフィルムをいじっていると、いつの間にか僕の後ろに二十代半ばの美しい婦人が立っていた。
長くのびた艶やかな黒い髪。
あのころとはくらべものになら無いほど豊かな胸元にくびれた柳のような腰つき。
この時期には暑すぎるはずのコートと膝まであるブーツ。
僕は微笑んだ。
「どこに行っていたんだい」
彼女ははにかんだ笑顔を向けた。
「お久しぶりです」
「みんな待っている」
僕は微笑んだ。
「君が帰ってくる事をね」
僕自身も。
彼女はさみしそうに笑った。
「監督?」
僕は黙ってうなずいた。
「君が、好きなんだ」
僕は続ける。
「一緒に賞を取ろう」
いや。賞なんてどうだって良い。
「映画を撮ろう」
くだらなくて恥ずかしいが僕にとって最初のプロポーズだ。
しかし彼女は潤んだ瞳を僕に向けて告げた。
「無理です。私。もう結婚して子供もいるんです」
「……そうか」
「撮影の時はお子さんを連れていつでも遊びに来てくれ。待っている」
言い終えた時、既に彼女の姿は消えていた。
季節外れの雨に濡れた櫻の花びらが彼女の立っていたところに残されていた。
時は流れ。
僕は老境に差し掛かっていた。
生活に困った時は、プライドと引き換えに例の画関連で食いつなぐことが出来た。
妻とは別れた。子とは何年も会っていない。
時々思う。あの彼女は幻だったのでは無いかと。
しかし。
そう妄想に取られるたびに目の前の空き瓶の中身を取りだして思いなおす。
僕の手のひらに乗った古びた櫻の花びらは嘘ではない。
そして思う。あの時は幸せだったと。
書斎に呆然と立っていると、白い髪の老婦人がいつのまにか僕の傍に立っていた。
僕は老婦人に微笑みかける。腕を上げる力なんてもうない。
「ひどいじゃないか」
彼女はすまなさそうな表情をした。
「君は“すまない”とか思わないのではなかったかな?」
僕はちょっとひどいことを言ったがコレは事実だ。
「チーア君。君はミューズ(美術の女神)だろ?」
当時の芸名で呼んだ。
実際、僕はそれ以外の名前を知らない。
奔放に人を引きずりまわし、混乱させ、そして残酷で冷酷。
「ミューズでは無いですよ」
彼女は言った。
「その格好はやめなさい。もうわかっているんだ」
老婦人はバツの悪そうに微笑んだ。
そこには慈愛の表情を湛えた黒い髪の美しい女性。
――女神と形容してよい容貌だ――が立っていた。
まぁもうどうだって良い。
「知っているんだよ」
「何がですか? 監督?」
「その呼び名は止せよ」
僕は微笑んでみせる。
「僕はもうすぐ死ぬんだろ?」
彼女は押し黙った。
僕は癌だ。もう長く無い。
ひとりでこんなさみしい家に住んでいるのも、息子に病魔に侵されて死ぬ自分を見せたくなかったからだ。
「まったく。ヤブ医者はどの世になっても絶えないな」
僕は微笑んだ。そして手を伸ばす。
「行こうか」
彼女は僕の手を取った。
「どちらへ?」
僕は笑った。
「天国でも地獄でも」
僕らは微笑み合った。
「君と映画が撮れる世界さ」
白い光が僕らを包む。
艶やかな長い黒髪をたなびかせ、瑞々しい美貌をもった彼女が僕のカメラの中で跳ねる。
僕はのんびり草原に腰掛け、雨露の湿り気と冷たさに少し閉口する。
彼女は僕に微笑み、怒り、悲しみ、ぼうっとする。
彼女は貴族にも乞食にもなる。
そして僕らの宝物のあのカメラを回して僕を写す。
僕は将軍にも首脳にも乞食にも風来坊にもなる。
映画は僕らを無限にする。全ての風景がどこにでもなり、全ての姿が全てになり、ひとりでいくつもの時代を生き抜ける。
映画は。無限だ。
僕らの立っていた書斎には、濡れた櫻の花びらがたくさん落ちていた。
たくさん。たくさん。
(エピローグ。)
主のいなくなった無人の書斎に誰も見る事の無いビデオがずっと回っていた。
そこには微笑み、じゃれ合う若き日の姿をした彼と彼女がいた。
ずっとずっと回っていた。
ずっと。ずっと。
(了)
別に映画ファンでは無いです。見た夢をその日のうちにアップしたものです。
夢の方では彼女は消えていませんが結幕がわかったので補足という形で書きました。
(2004/07/18不足分修正。古い作品だなぁ)
なお、文中に出るチーアは別の作品の主人公の一人ですがこんな性格ではなかったりします。
過去作だけにちょっと雰囲気がちがいますね。懐かしいです。
旧サイトを整理するつもりになったので、こちらに移転しました。