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山と村の境の家で

作者: 諫早

 此度、私は筆をとった。

猿である私が筆をとるというのはおかしな話であり、ただの比喩というのは誰もがご存じだろうが一言書かせていただく。

筆をとった理由に至っては、好奇心旺盛で執着心のある、極めてやっかいな人物がいたという事実を知っていただきたいからに他ならない。

話を進める前に知っていただきたいのは、「人間だけの、当たり前のこと」ということは存在しないのだ。

私たちも恋愛はするし各々の仕事もある。もちろん感情もあれば最低限の理性もある。それと一緒で、私たちも温泉に入るのだ。入らなければ不快を感じる。

これを念頭に置いていただきたい。




 これは私がまだ幼い、やんちゃ盛りの頃。

私が属していた集団では、辺りの山々を探索するのがはやっていた。

数ヶ月もすれば姿の変わる山は私たちを飽きさせない。

そんな中私が見つけたのは一つの温泉だ。ただ湯が湧き出ているだけの質素なもの。それでも周りには驚かれ、感謝され、幼い私は鼻高々だった。


それからというもの、時間を見つけては温泉に入る日々。

私以外は入ってはいけないという訳ではないが、私が一人(ここでは一匹ではなく、敢えて一人としていただく)を堪能している時に邪魔をされるのは不愉快だった。

それは周りも承知していたのに、邪魔をした人物がいた。それこそが前述の人間だ。

そいつはさも当たり前のように入ってきて、私と同じように息をついて体を休息させている。どうやら岩かげにいる私には気づいていないようだ。


この好機を逃すはずがなく、私はそっと温泉から出た。はずだったが宙に浮く体。腹の周囲には人間の指。強い圧迫感に吐き気しか感じなかった。

一生懸命首だけ振り向き、不届き者の顔を見る。このとき私は、人間の目というものは本当に星のように輝くものなのだと思い知らされた。

どうするべきか。焦った私の選択肢は一つ。人間は痛みと驚きとで私を手放した。綺麗に着地した私は急いでその場を離れる。

ああ、不味い。人間の指なんて噛むものではないな、と唾を吐いた。




 あの温泉で人間に会った、というのは言えなかった。言えばあの温泉は二度と使えなくなる。

とくに特徴のない私が唯一自慢していた温泉に行けなくなってしまうのはどうしても嫌だったからだ。しかし、私は本能的に嫌な予感しかせず、ここ数週間は温泉に一度も行っていない。

まだ若かりし私にとって、それはすさまじく気疲れすることだった。


もちろん我慢できるはずもなく。ほんの一月も経たずに、私はまたあの温泉に来ていた。

今度は注意深く、辺りを確認する。足跡も、臭いもしなかった。


十分ほど経って、ようやく安心した私は温泉へとつかる。

ああ、暖かい。全身が癒され、力が抜けていく。そのまま、私は温泉の中に引きずり込まれた。一瞬で全身に力が入る。思いっきり暴れても、水の抵抗というのはすさまじく、相手に大きな影響を与えることもなくただただ疲れていった。

もう息が出来ない。口から空気が漏れた時、私はお湯から出ていた。助かった……。ただ、私は体を押さえつけられていたが。

気づかれないように薄く目を開ければ、いつぞや見た人間だ。

初めて会ったときと同じように目を爛々と輝かせ、私を見ている。恐怖しか感じなかった。

今まで食料となる生き物の気持ちなど考えたこともなかったが、今の私には嫌というほど感じられた。また噛みついて逃げようかと思ったが、首と胴体を押さえつけられれば逃げられない。

精一杯抵抗しても私は子供。相手は大人だ。力の差というものがあろう。私があと一年か二年歳をとっていれば形勢逆転していただろうに。

人間は右手で私の首を押さえたまま、左手で金属製のかご、私には牢屋にしか見えないそれを温泉の底から引っ張り出し、あろうことか私をその中につっこんだ。


殺される。手が離れた瞬間に出口へと飛び出した。頭に鈍い衝撃。鼓膜が破れるかと思うほどの音が響く。逃げられることなく、ただ私が柵にぶつかっただけだった。

脳みそが揺れ、意識がだんだんと消えていく。ああ、これが私の最期か。最後に温泉に入れたのだから、そんなに悪くない人生だったろう。




さて、ここで終わるかと思った人生だが、私の寿命はもっと長かったようだ。

みんなでくっついて寝ているような、安心する暖かさ。二度寝したくなるようなぬくもりの中私は目が覚めた。

重い瞼を必死で開け、霞む視界がだんだんと鮮明になる。

頭も働き始めてから、ようやくここが山の中ではないことに気がついた。

勢いよく体を起こし、明るさの感じる、外だろうそこへ飛び上がる。私は首を捕まれたように、後ろへ引っ張られた。

壁に激突して、咳が止まらなくなる。鼻がツンとして、涙が出てきそうだ。咳が止まると、いったい私を引っ張ったのは誰だろうかと首もとに手を置く。

なにやら首のまわりに硬いわっかがついている。これは、山を下りた人間の住む街にいる、犬やら猫やらの首輪というものではないだろうか。


私は、人間に捕まっていた。


衝撃だった。愕然として、すべてが終わったような気分になる。これでは、あのとき死んでしまった方が幸せだろう。このまま一生を終えるのだろうかという不安と悲しさ、何も出来ない自分がふがいなくて泣き叫んだ。

私は子供だったのだ。これでは人間が来るかも知れないと、ほんの少しも考えなかった。そして、その通り私の泣き声を聞いて人間が入ってきた。涙で潤んだ視界は薄ぼやけていて、それが人間ということしかわからない。


人間が近寄ってきた。右手には、白いものが握られている。何かされる……!と、私は威嚇した。人間が何か言った。上手く聞き取れない。

手を伸ばしてくる人間に歯をむき出し、「噛むぞ!」と歯を鳴らした。

食料を食べに行った時の村の人間たちは、私たちが噛みつこうとするとすぐに恐怖し、逃げ出した。だから、こいつもすぐ手を引っ込めると思っていたのだ。しかし人間は少しも戸惑うことはなかった。

そのことに私は驚き、つい思い切り人間の手に噛みついた。痛みに顔が歪んでいる。それでも、人間は手を引っ込めることはなかった。

そして、噛みつかれなかった左手でその白い何かを私の顔に押し当てる。柔らかい、なにかだった。なんだ、これは……? とつい力を緩めてしまう。その隙に人間は右手を抜き、両手を使ってわしゃわしゃと私の顔を拭く。


「よし。綺麗になった」

私の顔を見て、人間がにんまりと笑った。どういうことだろうか?

綺麗、とはなんだったか。男が整った顔の女を見たとき。あでやかに咲く花を見たとき。はたまた感動で流した涙も綺麗と言ったか。

汚いと罵られた私が、そんな美しい言葉を言われる日がくるとは夢にも思わなかった。人間は私の頭をくしゃりと撫で、また笑う。よく笑うやつ不思議なやつだ。


「お腹空いたか? 何を食べるのだ?」

立ち上がった人間は言葉が通じないのにもかかわらず聞いてくる。りんごが食べたい。どうせ人間にはキーキーとした音しか聞こえていないだろうが、つい答えてしまった。

人間は微笑んで「わかった!」と持ってきた黄色く細長いもの。

「これはバナナといってな。西洋からの輸入品だ! 高いのだぞー」

やっぱり。何が「わかった!」だ。全然通じていなかった。それでも、嬉しそうにバナナとやらの皮をむいて差し出す人間の好意を無駄に出来なかった。


顔だけ近づけて匂いをかぎ、変な臭いがしないかと確認する。

甘い、嗅いだことのない匂いがした。舌をちょっとだけ出して舐めてみる。……よくわからない。

人間に私を殺して得などないのだから、きっと毒はないだろうと、諦めてかじってみる。

舌だけでつぶせるほど柔らかく、ほのかな甘みがくせになりそうだ。つまり、美味しかった。


人間の手の中にあるバナナを奪うようにとって、からっぽの胃を満たしていく。

気づけば数本あったバナナは残り一本となり、私の目の前で人間が米とみそ汁と、わずかながらのお浸しを食べていた。

人間と一緒にご飯を食べたのは初めてだ。

捕まってから初めて経験することが多すぎて、記憶の容量がいっぱいになりそうだ。私が見ていたのを感じたようで、人間と目があう。


「もうお腹いっぱいなのか?」

人間はそう言って、私のそばに残ったバナナを棚の中にしまい、余った皮はかごに入れて、どこかへ持っていった。

隙だらけの人間を噛むことも引っかくことも出来ただろうに、私にはできなかった。それは決して心を許し始めているのではなく、ただの気まぐれだと言い聞かせ、あくびをひとつこぼした。


満腹とは恐ろしいものだ。ここに来て初めてそれを実感した。

今まで満足に食べ物がなく、いつも空腹に耐えていたが、腹いっぱいになるほどたくさんある食料。

腹にため込むほどに食べ、満腹になると次に襲ってくるのは睡魔。瞼が重く、だんだんと目を閉じている時間が長くなってくる。このままではダメだ、と思っても動かない体。


はっと体を起こし、窓の外を見る。太陽の位置はさほど変わらない。あまり時間は経っていないようだ。

首へと手を当てれば、まだある首輪。つながれたまま一生を終えなくてはいけないのだろうか。気分が沈み、ため息をつく。


「やっと起きた。」

人間がやってきた。先ほどとは違う、なにやら綺麗な服を着ている。どこかに出かけていたのだろうか?

「お腹空いた?」

ついに頭がいかれたのかと思った。いや、猿を捕まえるくらいだ。もともといかれているのだろう。

とにかく、私はこのとき、このバカは何を言っているのだろうかと疑問に思ったのだ。

その疑問に答えたのは私の腹。なぜか鳴ったそこは、空腹を示している。


「まる一日寝ていたのだよ。ごめん、自分のせいで疲れがたまっていたのだと思う」

その言葉に愕然とする。

あまり時間が経っていないと思ったのは、一日寝ていたからなのか。

今まで、小さな物音でも起きるほど浅い眠りだったはずなのに、いくら疲れていようが熟睡するほど油断していたことに焦った。

まだ一日、いや二日か? とにかくたった数日しか経っていないのに警戒を解いてしまう自分の愚かさに絶望する。

このままでは人間の思うつぼではないか。朝からため息が止まらない。

かたり、と音がした。視線を向けると私のため息に気づいたのか苦笑いをしている人間がいる。


「朝食だ。……もう昼になるが。」

目の前に一口大に切られたいくつかのりんごが置かれた。思考をやめ、りんごに手を伸ばす。

とりあえず、今後は腹いっぱい食べないことにしようと心に決めた。




あれから数週間ほど経った。

相変わらずつながれた首輪はほどかれない。ある程度の距離は移動できるので体を動かせないつらさなどは無いが、どこか窮屈だ。

その二つある原因はわかっている。


一つ目は、親や友達に会えないからだ。

今まで群れをなして暮らしていたのだから、いきなり一人になって安心した生活を送れるはずがない。

……嘘だ。自分は毒気が抜かれたように人間に威嚇することはなくなったし、昼でも夜でも熟睡してしまっている。

常に安心しているが、会話ができないことが不満なのだ。

人間が話す言葉はわかっても、私の言葉は向こうには届かない。この不自由さがもどかしい。


二つ目は温泉だ。捕まってから一度も入っていない。

人間も罪悪感を抱いているのか、小さなたらいにお湯を張り、その中に入れてくれるなど多少の努力はしてくれている。

しかしそれで満足いくはずがない。せめてその二つが解決すれば、ここの生活も悪くないな、と思い始めていたそんなある日。


「温泉でも入るか? きみ、好きだろ?」

無神論者の私でも「神さまありがとう!」と言いたくなるほどのすばらしい瞬間だった。

捕まってから初めてはずされる首輪。つい人間に甘えた声を出してしまった。

その瞬間強く抱きしめられる。苦しくて、慌てて顔を上げ酸素を確保し、目を見開いた。

初めて見た、こんなにも嬉しそうな顔。つい暴れていた動きを止める。


「初めて心を許してくれたのだな」

その言葉に胸が痛む。

人間に心を許してしまった。それは今まで人間というものは恐ろしい、決して近寄ってはいけない存在だと教えてくれた親、親戚、先代たちの教えに背くことで、もう私の暮らしていた山には戻れなくなってしまうようで泣きたくなった。

人間はそんな私の気持ちにも気づかず、手を引いて家の裏へと引っ張られる。

十分ほど歩いたところで、私も見たことがない温泉についた。そこは温泉を囲むように石というか岩が置いてあり、そこに腰掛け、足湯もできそうだった。

ずっと山にいる私たちですら知らないここを、人間は知っていたのか。と嫉妬で気が狂いそうになる。

人間が私の手を離し、着物を脱ぎ始める。それを見計らって私は駆けだした。

「あっ」

驚く人間の声が聞こえたが、私は足を止めることはなかった。もう、こんな苦しい場所にはいたくなかった。




 私が群れへ戻ると、開閉一番に言われたのが「生きていたのか!」だった。なんて失敬なのだろうか。

私は今までの経緯を話すと、「だから人間と関わるなと言っただろう!」と怒鳴られ、それに嫌気がさした私は親を無視して寝床へと寝そべった。

人間の家とは違って硬い地面。なぜだか寝付きにくかった。

何度も寝返りをうち、そばで感じていた人間のぬくもりを探すように手を伸ばす。

あの場所で熟睡できたのは、もしかしたらそのぬくもりがあったからかもしれない。

一緒にいる時には気づかない、離れてからようやく気づくこの感情。眠い目をこするという名分で、にじむ涙をぬぐった。


その日から私は監視されていた。

過剰だと思うほどのそれは、私がどこへ行くにもついてきて、うっとうしい。

当然温泉に行くことなど以ての外で、私が見つけた温泉の周囲は立ち入り禁止になってしまった。

何度か隙を見て行こうとしても、すぐ捕まってしまう。


「おまえは人間のところが良いのか?」

一度、親に聞かれた。私は答えられず、言葉を濁しただけだった。

自分でもなんでそんな曖昧な答えをしたのかわからない。

恐ろしいと言われていた人間。けれど実際はそんなことなく、温泉好きで、私に興味津々な暖かな人物。

村へおりた時に言われる罵声を聞いているので親の言うことを否定するつもりはないが、こいつだけはその恐ろしさに当てはまらない気がした。


「よっぽどその人間を気に入ったみたいだね」

聞き慣れた声がして、振り向くと見慣れた顔があった。

こんな問題を起こしても唯一話しかけてくれる大切な友人だ。

「ああ。不思議と寂しいんだ……」

膝を抱えて呟く。友人が背中に腕をまわし、あやすように背中をたたいてくれた。

こらえていた感情があふれ出てきて、出さないようにしていた涙もこぼれる。


「もう忘れよう。人間も、おまえのことは忘れているよ」

その言葉に頷いた。頷いたけれど、どこか引っかかった。

かごを用意してまで私を捕まえた人間。首輪をつけてまで脱走しないようにした人間。

そんなしつこいほどの執着心のある人間が、あっさり私のことを忘れるのだろうか。そんな筈はないと、私は決心する。

もう一度だけ、人間に会ってみよう。

そのとき捕まればそれがきっと私の運命なのだろうし、向こうが忘れていればただの猿と人間だ。

石を投げつけられるだけで、決してつらくはない。そして、その人間のことを見つけられなければそれもまた運命だ。


私は夜を待った。監視の二人は交互に寝て、必ず一人は私のことを見ているが、一対一ならどうにか逃げ切ることもできるだろう。

その夜、私は狸寝入りをしていた。猿が狸寝入りなどおかしなことだが。二人居るうちの、弱々しい人物が見張り役になっておよそ半時。私は寝起きを装って起きた。


「なんだ?」

「便所」

たった一言そう答えて、寝床を出る。

後ろをついてくる見張りの様子を伺いながら茂みへと入って、駆けだした。

すぐさま追いかけてくるが、私はまだ若い。体力も素早さもあるのだから、年だけ食った猿を突き放すのにさほど時間はかからなかった。


私が向かったのは人間の家ではなく、縁の深い、人間と二度も会った、すでに立ち入り禁止の温泉。

こんな夜更けにいるはずは無いのだから、賭けだ。居なければ戻って、「一人になりたかった」とでもホラを吹けばいい。

風もない今夜は静まりかえり、音はしない。出ている筈の月も、木々にかくれてうっすら光が届くばかりだ。

普通ならば恐怖で出歩く者などいないだろうこの夜に、あの人間はいた。

温泉に足だけつかり、何かを考えるように宙を見ている視線。わずかな光がその憂いた顔を照らし、幻想的だ。一瞬目を奪われる。

気を取り直して、小さく声をかけた。驚くようにこちらを向く人間の顔が、たちまちほころぶ。ああ、その顔だ。その嬉しそうな顔を私は見たかった。手を伸ばす人間に、私は飛び込む。

「会いたかった!」

強く抱きしめられたその腕を、今日は苦しく感じなかった。




 それからはもう幸せな日々だ。

人間は何度か村の方へ出かけているが、首輪がついていないので私は自由に動けた。さらに、ご飯は必ず一緒に食べ、夜は一緒にあの温泉へと行き星を眺めながらゆっくりとつかる。

寝るときは毎日傍に寄り添いぬくもりを感じた。

あたたかな布団に包まれ、山の中では味わえない暖かさに安心を覚える。

親や友人に声をかけなかったことが心残りだが、それすらも消し去るほどのすばらしい日々だった。


今日も人間は出かける。本当は出かけて欲しくない。帰ってから抱きしめてくれる人間の体から、いつも別の人間の臭いを漂わせているからだ。しかも、毎回同じ臭い。

そして今日も、いつも家で来ている質素なものではなく、いつぞや見た綺麗な着物を着て出ていった。

もしかしたら村では綺麗にしていないとダメなのかもしれない。

あまり浮かない顔をしているのは動きにくいからだろうか。

足取りの重い人間を見送って、私はため息をつく。

人間が言うには、今日は遅ければ夕方まで帰って来られないのだ。その間、私はなにか時間をつぶさなくてはいけない。

あまり山の方へ行けばみんなに見つかってしまうかもしれない。別にそれでも構わないが、「もういらない」と捨てられる可能性が少しでもありそうで、怖かった。


だからまず始めにしたのは、この家を探索すること。

人間と一緒に見たことはあっても、一人だけで、しかも細かいところまで見たことはないからだ。

雨の日にしか使わないお風呂、私が使うと落ちてしまいそうなほど大きな穴の開いた厠。先ほど洗い物をしたばかりの台所。

人間の部屋にも入ってみた。こざっぱりとしていて、部屋には箪笥と机しかない。

次に箪笥を開ければ着物が入っていた。どれもこれもが質素なものばかりで、綺麗な着物は二着ほどしか入っていなかった。


押し入れを開けてみれば、右側には布団が一組しかなく、しかも埃がつもっていて、私が来てから一度も使っていないことが伺える。

左側には乱雑に置かれた本に、大きな蓋のない木箱。

その中には手のひらくらいの大きさの厚紙に五、七、五、七、七という規則性のある文字が書かれたものや、四角状の扁平な木製のものに糸を張ったものなど、私にはとうてい計り知れないものばかりがつまっていた。

こちらには埃がたまっていないから、こんなにたくさんのものを頻繁に使っているのだろう。

趣味がたくさんあるというか、何事も楽しめる人物なのかもしれない。そして、窓際に置かれた小さな机には手紙と木箱が置かれている。


さすがに文字は読めないので手紙の内容は知らないが、その手紙と木箱の中に入っているたくさんの手紙の文字が同じことから、同一人物と文通でもしているのだろう。

なぜだかその相手が羨ましかった。

木箱のふたをしめ、部屋へ入った痕跡を消す。別にばれても問題ないだろうが、気分的な問題だ。


襖をしめ、小腹を満たすために私の部屋となった客室へと行く。そこも必要最低限のものしかない。

布団が一組、ちゃぶ台と棚が一つずつだけだ。

私が昔侵入した家ではもっと物が乱雑していた記憶があるのに、こんな少しの物だけでも生活できるのかと感心したほどだ。


私はおやつのために、と置かれたバナナに手を伸ばし慣れた手つきで皮をむいて食べる。もくもくと食べるこの時間が寂しかった。

一人になるのが我慢できなくなって、飲み込むように食べると窓から山へと飛び出す。オオカミでもシカでも、いっそリスでもいい。誰かの言葉を聞きたかった。


出来るだけ住処に近づかないように山を駆け回る。駆け回って、誰にも会わなかった。

ここまで誰にも会わないのは珍しい。山で何か起こっているのだろうか。まともに群れに戻っていない私には、そういう情報はまったく入ってこなかった。

一度村にでも降りてみようかと考えつつ、家へと戻る。


家が見えてきたところで違和感を覚えた。違和感というより第六感だ。何か嫌な予感がする。

慌てて家へと走れば、私以外の足跡だ。それは決して人間のではなく、私と同じ猿のもの。

それも一つではなく複数ある。別の集団のなわばりは荒らしていないのだから考えられる集団は一つ。


「もう戻れ。そろそろ大人になるのだから、そう遊んでばかりでは困るぞ」

父の声だ。顔を上げれば、屋根に二人。父と友人が、私を見下ろしていた。

「わかっている……」

本当はわかってなどいない。ただこれ以上怒られたくないがために、わかったふりをしていた。

二人の視線が痛い。顔を上げることなどできず、ただ自分の足下だけを見ていた。


「ならば戻るぞ。」

屋根から降りる父に続いて友人が降りてくる。友人に手を捕まれれば、もう逃げるすべはなかった。

「ダメだ!」

普段聞く声よりもずっと低い声で、人間は言った。

今帰ってきたばかりのようで、大きな風呂敷を抱えている。

そんな人間を威嚇しながら睨む二人。私はただ立って様子を眺めるしか出来なかった。

敵意を向けられていない私でさえ恐ろしいのに、人間は少しも気にせず私に近づく。

飛びかかられても揺るがなかった。その力強い腕は私の手をしっかりと握り、胸元へと引き寄せる。

あまりの強さに友人がよろけるほどだ。


「こいつはもう家族だ!」

心臓がはねる。ああ、もう。なぜこんなにも人間は心に響く言葉を言ってくれるのだろうか。だから私はこいつから離れられない。

ほぼ無意識に、私も人間の袖を掴んで離れないとばかりに体をくっつける。

その様子を見た父は眉をひそめ、幻滅したようにため息をついた。


「そんなに嫌ならもう構わない」

冷え切った声だった。ついに私は捨てられたのだ。胸がひどく痛む。

私には、一度も振り向かずに去っていく彼らのことを追いかける資格を持っていなかった。




それから、私は人間と部屋へ入っていつものようにちゃぶ台をはさんで向き合った。

人間が満面の笑みを浮かべながらちゃぶ台に置いた風呂敷を広げ始めた。とたんに香り始める甘い匂い。

思わず身を乗り出し、中をのぞき込んだ。かごに入ったりんごを始めとした果物たち。もちろん、バナナも入っていた。どこで手に入れたのかも気にせずに、私はバナナに手を伸ばす。


「今日は一本だけだ」

目を見開く。いつもは太っ腹に何本も食べさせてくれるのに、初めて本数制限された。

そういえば昔、値段が張るのだと言っていた。さすがに人間も、そろそろ金銭面で危ういのだろうか。

私がいるから、お金がかかるのだろうか。少し落ち込み、掴んだバナナを元に戻す。今度は人間が怪訝そうな顔をした。


「どうして? 食べて良いよ」

そう言う人間に、私は「いらない」という意思表示のため、かごを押しやる。

「ん、そうか」

寂しそうに人間は言った。しまった、いらぬ世話だったか、と後悔したが、すでに遅く人間は続ける。

「明日はお客が来るから、申し訳ないけれど夕方まで山に居てくれないか?」

ほんとうに申し訳なさそうに、人間は言った。そりゃあ人間にも社会はあるのだから、私が居ては困るのだろう。

けれど、山に行くのは私も困る。

今日、私は捨てられたのだ。山を彷徨いてはなわばりを荒らしたことになり、今までなかった暴力を受けることとなる。それだけは嫌だった。


「嫌なら、家の傍に居てくれても良い。お客が帰るまで、この部屋にはいて欲しくないのだ」

人間はそう言って私の頭を撫でた。それだけで何もかも許したくなる。

致し方ない、明日だけだ。明日だけ、私は家の裏で暇をつぶそう。瞼を閉じて、人間の胸にすりよった。

今日も抱きしめられて日が昇るまで寝よう。



小さな物音がした。人間には聞こえないような、小さな音。

目を覚まし、人間の顔を見る。あいかわらずのアホみたいな寝顔だ。熟睡していることを確認してゆっくりと抜け出す。

そのとき身じろぎして焦ったが、人間は起きなかった。

もう一度、小さな音が鳴る。

雨では無さそうだし、いったいなんだ。キツツキにしては音の間隔が長い。

窓からそっと見ると、つい先ほど私に背を向けた友人。

彼が私を呼んでいた。すぐに駆け寄るほど私はバカではない。制裁を加えに来たのだろうかと、私は恐怖した。


「戻ろう。」

「先ほど言ったはずだ、私の答えは……」

言葉に被さるように、家に石が投げられる。先ほどからの音はこれらしい。

「それでも、だよ。今は幸せでも、この後どうする? もしこの人間が家庭を持ったら? 家族はおまえを歓迎してくれると思うのか。人と暮らしても幸せにならない。おまえのいる場所はこんなところじゃないよ。一緒にもどろう」

そんなこと分かっていた。

最近は村の方ばかりで私に構ってくれないのも、村のやつらのように家庭を持って、畑でも耕すなり料理を作るなり子供を作るなりしてだんだん私から離れていくだろうことも。

自分がバカなのは重々承知だ。それでも、短い間でも私は一緒にいたかった。


「捨てられてからでは遅いよ。村の人間の様子は見ているだろう? おまえと一緒にいることがわかったら、この人間もきっと迫害される。それでも構わないのかい?」

迫害。そこまでは考えていなかった。

嫌われるのは私だけで、私と一緒にいる人間も嫌われるなんて少しも思いつかなかった。

振り返って、いつものアホ面をもう一度見る。よだれなんか垂らして、いい歳して子供みたいだ。離れたくない。

けれど、こいつの泣き顔なんてもっと見たくない。

私は人間の元へ戻り、額と額を合わせる。暖かくて、いい匂いがして、このまま一緒に溶けて無くなりたいくらいだ。

走馬燈のように人間との楽しかった思い出が浮かぶ中、名残惜しくほんの数秒で離れた私は窓を乗り越えて友人の元へ、家族の元へと戻った。




こってりと絞られた私は、当分雑用係だ。山を探索する時間なんぞ少しもない。けれど、その忙しさが人間のことを思い出さずに済んで感謝している。

そんな、戻って一週間目の昼。私は木の実の採集にかり出され、山を駆け回っていた。

私たちが頻繁に使う温泉を通って、心がズキリと痛む。もう一度、顔を見るくらいなら……とあの温泉へと向かった。


家まではいくら私でももう行く勇気はない。木の実を拾いつつ急いで行けば、いつもより早くつくことができた。体力でもついたのか、私がやればできるのか。

肝心の温泉には誰もいない。周りに足跡もなく、匂いもまったくしない。目に見えるほど肩を落とし、行きよりもずっと遅い速度で戻った。


それからも忙しい合間をぬって時々見に行ったが、一度も人間が来た形跡はなかった。

私は、人間に忘れられたのだろうか。もう心には残っていないのだろうか。私を強く抱きしめて、押し入れに入っているおもちゃたちみたいに、私を大事に扱ってくれないのだろうか。一週間経っても、一月経っても、人間は私を迎えには来なかった。




辺りは騒がしい。それも当たり前のことだ。

この村で、一人の変わり者の女が結婚することとなった。

今の時代には珍しい晩婚で、一生独り身だろうと噂されていた彼女が村一番の好青年と一緒になるのだ。

色目を使っていた娘たちは嘆き、年寄りたちはただただ喜んだ。

隣村でも噂になっているらしく、ここ数日は山を行き来する人間たちが増え、私たちも不安と好奇心とで慌ただしい日々を過ごしている。

今日はその結婚の誓いとやらをする日だ。

山を下りた私は人間に見つからないように隠れてその様子を見る。嬉しそうな顔をする周囲の人々。


その中心で、確かに顔の整った男と、私が唯一心を開いた女が幸せそうな顔で笑っていた。



長い文を読んでいただきありがとうございます。

気に入っていただけたら幸いです

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