飼う女
女は、忘れられぬ少年をひとり、飼っている。
その子は、保内くんといった。
中学校の同窓生で、顔見知った同小からの進学でなく、学区外からの新顔だった。
中学生女子の好みそうなスポーツマンでも、明るく快活な性格でもない。どちらかといえば地味で、物静かで、野暮ったい。大衆に紛れてしまえば見つけることも困難な、そんな少年。
中学の三年間、私は彼と同級生であった。
しかし、「保内」と「真山」で、最初の席順が近いこと以外の接点はなく、最初の一年、クラス替えでまた同じクラスになるまで、私はその存在にかけらも気を払っていなかった。
中学一年の彼は、存在感がなかった。
それは中学二年の彼もそうだった。そして中学三年の彼も。
けど、私が彼を彼と認識した瞬間から、変化はあったのだ。私の中で。すこしずつ。
保内くんは、教室でも派手ではなかった。大人しく本を読んでいるか、気のあう数人の男子と言葉少なにおしゃべりしているようなそんな有様で、女子との接点はほとんどないと言ってよかった。
私は自分を派手ではないが地味でもない、ごく普通の女子中学生だだった。そのようにふるまっていた。
つまり、派手な男子にあこがれて、話しかけにくい男子とは必要最低限しか会話しない。目立ちもしないけど、浮かない程度に騒がしい。そんな風に。
事実そのころ好きだった人は、学校の誰もが知るスポーツマンで。そんな風に、普通だった、私は。
中学校というのは、みながみな、いわゆる思春期真っただ中で。
無理に大人ぶったり、色気づいたり、男女の交際が話題として事欠かなかったり。受験だとか、いやな話……いじめがあったり。
成長過程の始まりのほうで、つまづいたり、うまくいかなくてヒステリックになったり。
自分の中で均衡を保とうと、まぁ、様々な症状が出るものだと思う。
私だって、友人間でそれなりにごたごたしたりして、悩んだ。
しかし。
私の視界の片隅に、いつもいる、保内くんは、何故だかいつも微笑っているイメージなのだ。
口の端っこを持ち上げた、シニカルな笑い。
おおよそ”普通”の中学生が普段使うような笑いではない。ゆえに印象に残ったのかもしれない。
保内君は。
特別スポーツマンというわけでも、明るく快活な性格というわけでもない。
どちらかといえば大人しくて、地味で、物静かで、野暮ったい。大衆に紛れてしまえば見つけることも困難な、そんな少年。
でも私は、別々になった高校に進学してから、短大に入ってから、専門学校に入ってから、卒業して社会人になってから、よく、思い出す。
スポーツマンで人気者だった子でもなく、快活でもててた子でもなく、好きだった子でもなく……彼を。
保内君を、よく、思い出す。
専門卒業間近のことである。
唐突に、保内くんからメールをもらった。
『sub:時間があったら、
本文:一緒に食事に行こう』
なんのこっちゃ、と思った。
唐突な、そっけないメール。
だが、そのころには私も、男との距離の取り方なんてすっかり学んでいたものだから、気軽に返信した。
いわく、『いいよ』と。
二人して地元に残ったものだから、狭い街ですれ違うなんてよくあることで。
割と仲の良かった中学の学年・学級で、年一回はあった同窓会も暇にあかせて出席率がいいところまでおそろいだった。
でも、途中から、意識した。
保内くんを見たい、なんて思いはじめてたものだから。
その機会は余すところなく甘受した、というのが正しい。
田舎のあずまや風の居酒屋でおちあった。
いまだ思いだすだに、あれは奇妙な経験だった。
確かに男との距離の取り方は学んでいたけれど、それは友人に該当するもので、私は交際経験が皆無に等しい。
それを知る女子の友人は、ここぞとばかりにおもしろがって、おもちゃに飾り立ててくれた。
それが気恥ずかしかった。
どうにも、そういう女の子の部分をさらけ出すのに私は抵抗感があった。ありていにいえば怖かった。
二十歳もとうにこえていて、自分の中の女に気付きたくない、少女返りが抜けなかった。
楽しめたらよかったのに、おびえていたのかもしれない。
大人になった自分が、大人になった少年に、保内くんに、会うことを。
私の中の中学生の私が、その変化を。
だ、が。
そんな期待することもなく、食事はなごやかに昔話に一貫した。
共通の時間を過ごした昔の友人は、酒の相手にはもってこいで、とても気分よく酔えたと思う。そのときまでは。
彼は変わらなかった。
いや。彼の、あの、笑みが。シニカルな、口の端っこを持ち上げた、微笑が、変わらなくて。
その口で言ったのだ。「おれ、海外行くんだ」と。
「へぇ。そりゃ豪勢だねえ。卒業旅行?」
海外旅行なんてざらに聞くから、簡単に答えたのだけど、彼の返答もまた簡潔なものだった。
「ううん、半年から1年。ヨーロッパをふらつこうと思って」
「は、はあ?」
傾けていた甘いカクテルを吹き出しそうになった。彼は陽気に言葉を続ける。
「ディパック一つかついでさ、ヒッチハイクでもして。貧乏旅行しようかと」
「え?あれ…え? でも、就職した、ってうわさで聞いてたけど?」
と問えば、あっけらかんとしたもので。冷の地酒をちびりと舐めて、彼は言う。
「うん、だからさ。こないだその会社が、倒産しまして」
「はああああ?」
「再就職もままならないし。それなら、ちょっと自分の好きなことやる時間にしても、バチ当たんないんじゃないかなーと思って。旅費は今まで貯めた自分のバイト代だし。うち、基本放任だしさ」
「また……とっぴな考え方するね、保内くんは……」
こういう人だったけか?
脳内を探っても、私が知る彼の情報は、ほか同級生が持つものとさして変わらない。
あきれてカシスオレンジののこりをあおる。今度は辛いものが飲みたい。
保内くんが飲んでいるような、辛いお酒が。
「はは、だろ?自分でも、驚いてるんだ。真山さんに連絡取ったのだって、意外すぎて自分でも驚いてるんだよ?」
「誘っといて、なんだそれは」
怒っているふりで、拳を隣に突き出す。彼は笑いながら、ふた回りほど大きい手のひらでそのへなちょこパンチを受け止め笑った。私は触れあったことにちょっぴりドキドキした自分を軽く嫌悪した。
「うん。だって、おれ達全然接点なんてなかったじゃないか。中学ん時からさ。会話はしたけど当たり障りのないものでしかなかったし、特別印象強く残った出来事があるわけでもない。
中学卒業して、絶えてもおかしくない細いつながりだというのに、こうして、二人会うくらいの気安さはある。不思議だねぇ」
「それは…まあ……、うん。そうだけど」
「いきなり倒産通知が届いてからかな?あわてたり、不安になったり、したんだけど。もうどうでもよくなっちゃって。うん、言葉は悪いんだけど、ほんとにそうなんだよ。で、やりたいことやることにした。今日はその第二弾」
そう言って、楽しそうに笑うから。
込み上げてくるものをこらえるために、空のカシスオレンジのグラスを傾けた。
はっきり言って、うれしいよ。そんな、わけのわからない感情的な理由でここにいるというのは、言わないでいいことだと思うけど。
その朴訥さに私は安心する。
うれしさを押し隠して、演技っぽい尊大さをあらわすため息を盛大にはいてあげた。
「……まあ、いいんじゃないっすか?私でよければいつだってお付き合いしますよ。でも、1年か。以外と短いね。そういう旅って、こう、5、6年かけてするもんかと思ってた」
「気分しだいだと思って。一年は目安。区切りということで。資金もそんなにないし」
「お土産……は、期待しないでまってる。けがとか病気とか、あと生水には気をつけて、いってらっしゃい」
つまらない、平凡なはなむけの言葉を声にのせ、保内くんのお猪口に酌をする。
ガラスのとっくりに入った酒はからになった。
「ありがとう。ああ………うん。そうか」
「なに?」
「あのね、おれは、真山さんに送り出してほしかったのかもなあ、と思いまして。唐突に」
ありがとうな、といってくる。
それを、区切りに。それだけのこして。その場は別れた。彼はうちまで送ってくれた。
またねと別れた、そのあと、なぜだか、私は、うっ、となって。少しだけ泣いた。
すぐに乾いたけど。
というのが、約一年前の話。
そして私は、変わりなく私の生活を満喫している。
しかし、ときどき。
本当に、ときどき。
ふと、思い出す。保内くんのこと。
今頃、どこで何やってるのかな、とか。腹下して寝込んでないかな、とか。元気で、あの笑いで、笑ってるのかな、とか。
TVの海外ニュースで。
事故とか火事とかテロとか、そういう話を聞くたびに、場所が、彼からできる限り遠くであることを願い、氷のかたまりをのみこんだように腹が冷たくなることがある。
余計な御世話だとわかっているが、彼が遠い外国で客死するなんてぞっとしない。
最近、髪型を変えた。
数年前から固定した髪型であった。真っ黒なストレートを、少しウェーブをかけた。
印象が、驚くほど大人びた。やわらかくなった。そういうことだった。
私の中の少女は、まだいる。
中学生の、変化を恐れた、臆病な少女。
しかし、『女』の私も確かに成長してきている。混在し、矛盾だらけの私。
でも今は、それが嫌ではない。
学生という身分から巣立った私のこの一年。
変わっていないつもりだった。でも確かに変わっていた。見えない形で、ゆるやかに。
私の胸には、保内くんがいる。
どちらかといえば大人しくて、地味で、物静かで、野暮ったい。大衆に紛れてしまえば見つけることも困難な、そんな中学生の保内くん。
大人の私は、中学生の彼を望んだ。これもまた、そういうことだったのかもしれない。
大人の保内くんは、この一年で、どんなふうに変わったのだろう。わからない。筆不精メール無精なところだけは気が合う彼は、全く連絡をよこさないものだから。
もうすぐ、一年。
そして手元には、緊急用の、メールアドレス。
一年で変わった私は、「またね」のつづきをこちらからはじめる、勇気を、もっている。
メール不精筆不精は作者のことです。