無粋な話は珈琲の友に
「とっくにわかっている事を何度も聞きに来るのは感心しないね」
コーヒーの生豆を焙煎鍋にいれながら、先生はそう言った。
「すみません、でも、道を作るのにアスファルトが必要なのと同じなんです……先生を付き合わせていることは、申し訳ありません。埋め合わせも……俺には、出来ません」
「自分の不出来に甘えると後で泣くよ」
「……はい」
先生を頼るなら新しい何かを身に付けねばならないというのに、俺はどうにも、もう持っているものの擦り合わせばかり先生に頼んでしまう。
何年目かの停滞。俺はここに学びに来てから、いくらかは成長して、しかし今まさに少しずつ取り残されていっている。
珍しくはない。成長をやめて、成長を拒否して、自分の居場所をつくるためだけにくだらない努力を飽きもせず捻出していく。人生何十年をそれに費やす人は全然珍しくもなく普通にいる。普通のことなのに俺が後ろめたいのは、この場所がそういう停滞を打破せんとする人間の集まりだからだ。
俺に、適正は多分なかった。学問の出来不出来というよりは、常に自身が変化していく、その不安定さに耐える力に欠けたからだ。目の前にある本当のことと心の中にある思い込みの間を揺れさまようこと。大切なのは分かりきっていて、なのにその営みに心が軋む。
ここでは本当のことも学べるが、それ以上に、物事をどう感じるかというところを互いに伝えあい、自分が思いもしない考えがあることに触れて、しかしそれにかき乱されないよう、そして他者を否定もしないでいられるよう、心を鍛える。
ただただ他人を叩きのめして自分が心地よい空間をつくるという生き方をよしとしなかった人間は、まったく不完全で、その学びを修めることがないことをわかっていながらこの学び舎に集った。俺はたまたま、理屈で潰し合う窮屈なコミュニケーションが嫌だったからここに来て、しかしここのやり方にもついていけなくなってきている。
「さ。時間も惜しい。焙煎しながらですまないが、はじめようか」
先生は焙煎鍋を軽やかに振った。豆が少しずつ熱されてきて、なじみのあるコーヒーの香りが漂う。
「はい。……傷付けられた立場や過去、恵まれなかった不運の記憶に、人は依存しやすいです。それがある限り、今起こる不都合から自分の責任を全く取り除けるからです。怠惰に似ているかもしれません。それを……人は超えられますか」
先生は微笑んだ。口調が厳しくても先生は厳格な人ではない。
「基本的には、超えることはできない。心がもつ生態は、ふつう、今生きていることに使う労力を減らしたがる。君のいう心の動き、被害や不運への依存は、今生きていることに使う労力を減らしてくれるのだから、それは本能に近いものだ。人生の中でいくつか、それに抗った経験を持つことはできるかもしれないが、超える、ということはできないね。戦うなら死ぬまで。そうして、やはり勝つことはできない。……尤も、君はそれを知っているし、確信もそれなりにあるはずだ」
先生は一分の隙もなく正しく俺の言葉に回答を返した。その通りだ。そしてそれを俺はとっくにわかっていて、ただ確認のためだけに話に来た。先生は怒らない。怒らないが、その態度のすべてが、いかに俺が不出来なのかを浮き彫りにしてしまう。
「君が停滞しているのは、不運にしがみつくことを恥だと思うからだ」
先生が言う。その言葉は、今回が初めてではない。それに続く言葉を、俺はおおよそ先生の意に沿って続けられる。
「不運は雨であり、雨の降るところに何者かの意志はない。不運を思うとき、誰かに投げられた石を思うときに不幸が形をなす」
「そう。雨に対して空を裁くことはできないね。しかし我々は傘を差すし、それが天災になったからといってうずくまって嘆き続けることはない。壊れた道を直し、泥を片付け、生活の続きをしようとするだろう。同じ力が恵まれなかった人生にも必要になる。今まで何が起きたかよりも、これから何を起こせるのかに目を向ける力が」
「それが何者かの悪意だったとしても……ですか?」
焙煎鍋で揺れるコーヒー豆が、パチリパチリと弾け始めた。
「イエス。悪意だったとしても、だ。」
それを受け入れるのが俺には最も難しいのだ。そうして疲弊して、前に進めなくなった。そうなってから随分経つ。先生は続けた。
「悪意による被害に救済があるべきだという理屈は正しくて、だから私たちはみな、それが当然どんなときにも無ければならないと信じてしまう。実際はどうかと言えば、救済というのは希少品なんだ。世の中にそう数は出回っていないし、自分が手にできるかは甚だ怪しい。救済を手にした人の話は見栄えがするからよく広まるけれど、手にできなかった人の話は呆れるほどの数が黙殺され続けている。こうやってコーヒーを淹れようと豆をいじっている間にも、ね」
先生は焙煎鍋を火から下ろした。やや深煎りの、フルシティに焼けたコーヒー豆の表面にはつやつやと油が浮いてきて、豊かなコーヒーの香りは部屋中に満ちている。
「君も飲むだろう?」
「はい、頂きます」
煎りたてのコーヒー豆をコーヒークーラーに広げて、先生はミルの準備を始めた。
「救済を求めて走る人々の話もまた、見目がよくて心に響く。つられて何度となく私たちは公正と公平の夢を見る。それは快いよ。否定なんかするものか。みんな世界が公正で公平であってほしいと願うんだ」
先生はいろんなコーヒーの淹れ方をするのだけれど、今回はサイフォンにするらしい。水を入れてフィルタを取り付ける。コーヒーミルに豆を入れると、手伝ってくれるかな?と俺を呼んだ。初めてコーヒーミルを挽かせてもらった日を思い出しながら、細挽きにしていく。手動のコーヒーミルはとにかく慌てないで一定のペースで回すこと。先生が教えてくれたことのひとつだ。
「公正で公平な世界を用意する努力は天井なしに必要だ。そのくせ、あらゆる不公平があることを私たちは人生でひとつくらいは経験してしまう。君もそうだ」
……その通りだ。たまたま何かが。そのプラスもマイナスも、人生にはどうしようもなくある。恨み言なんか掘らなくても噴き出てくるので、抑えるのに必死になっているくらいなものだ。
ミルでコーヒー豆を挽き終わったので、先生に渡すと、先生は豆を丁寧にサイフォンにセットした。アルコールランプでお湯を沸かすのが雰囲気が出ていいんだよと先生はよくそう言う。青くて静かな炎が水を煮立たせる瞬間が綺麗だと。
「……つまるところ、ね。その理不尽さを、勘定にいれないでとりあえず今日のこと、とりあえず明日のこと……そういうふうに生きていけることが、前向きという言葉なんだと思うんだ」
「先生は、前向きに生きたいと思いますか?」
「僕かな?僕は前向きに生きたいとも思わないし、かといって個人的な大きくもない不幸を清算するためにジタバタすることもしたくない。だからここにいて、教員もどきをやって死ぬまで生きるつもりだ。逃げというなら確かに逃げているし、不真面目の誹りも甘んじて受けるよ。君はどうだ?」
「俺は……」
言い淀む沈黙を、沸騰するフラスコの音が埋めていく。いつ見ても、サイフォンで入れるコーヒーは、綺麗だと思う。艶のある黒褐色。ぞんざいにコンビニの棚に並ぶボトルコーヒーには絶対にないものがここにはある。
「俺は、どうせ不幸自慢から逃げられないなら、なるべくそれを面白おかしくしたいです。誰が見下したって、笑われたって構いません。自分が抱える欺瞞も、逆に自分が心から前向きに生きようと思った瞬間も……それを記してみたいと思います。うまく言えなくてすみません」
「アスファルトは手に入った?」
コーヒーはマグカップに注がれて湯気を上げている。先生の手渡してきたコーヒー。そこまで特別によい豆でも、よい器具でもないのだと先生は言うが、味を美味しいと思って飲めるのは先生の淹れるコーヒーだけだ。
「……はい。道は、もしかしたら不出来かもしれないですけど。作っていきます。少しでも進めるように」
「この決心も3度目かな?」
「4度目です。口に出さなかった時もあるので」
「がんばるといい。不様でも、それは横たわっているだけの人生よりはよほど意味がある」
「ありがとうございます」
午後の光が窓辺を照らしている。先生を煩わせておいて、結局揺れた心をもとに戻しただけ。情けない俺はもしかしたらこれからも、こんなふうに先生に頼るのだろうか。
午後三時の鐘が、遠く鳴った。




