表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

ファンタジー

星降る橋の約束

作者: くるみ
掲載日:2026/05/22

 北境へ続く街道の外れに、古い石橋があった。


 王都の北門を出て、刈り入れの終わった麦畑を抜け、黒い森を半日ほど進むと、道は深い谷に突き当たる。谷底には細い川が流れていたが、橋の上からは水面さえ見えない。聞こえるのは、石の裂け目を抜けて吹き上がる風の音だけだった。


 その橋を、人々は星降る橋と呼んだ。


 橋は古かった。誰が架けたのか、いつ架けたのか、確かな記録は王都の書庫にも残っていない。ただ、古い年代記には、王国がまだ王国と呼ばれる以前から、北へ向かう者はこの橋を渡り、戻る者もまたこの橋を渡った、とある。


 夏至の夜になると、その橋には星が降るという。

 雲があっても、雨が降っても、真夜中になると橋の欄干だけが淡く銀に濡れる。旅人はそれを吉兆と呼び、兵士は死者の道標と呼び、村の老人たちは、帰る場所を失った魂が一夜だけ通るのだと語った。


 エリシアは、その話を幼いころから知っていた。


 信じていたわけではない。ただ、人の世には、信じるとも疑うとも言わずに受け継がれるものがある。古い橋、古い祈り、古い約束。そうしたものは、人がそれをどう扱おうと、変わらずそこに残る。


 エリシアがアルディンと最後に会ったのも、その橋の上だった。


 アルディン・レイヴァルドは、王国騎士団に仕える若い騎士だった。名家の出ではない。父は地方の小役人で、母は早くに亡くなっていた。騎士に取り立てられたのは、剣の腕よりも、命じられたことを最後まで投げ出さぬ性質を買われたからだと、彼自身は言っていた。

 エリシアは城下で薬草を扱う家の娘だった。貴族でもなく、騎士の家の女でもない。薬草を摘み、干し、煎じ、時には死にゆく者の枕辺に座った。人がどれほど簡単に熱を失うかを、彼女は若いころから知っていた。


 二人の婚姻は慎ましいものだった。

 神殿の片隅で誓いを交わし、数人の友人に祝われただけの、目立たぬ婚礼だった。王都の誰も、その日を覚えてはいないだろう。けれどエリシアは、その日の光をよく覚えていた。神殿の高窓から差した細い陽が、アルディンの左手を白く照らしていた。彼は誓いの言葉を一度だけ言い違え、ひどく真面目な顔で最初から言い直した。


 その春、エリシアの腹には子がいた。

 まだ外からはそれと分からぬほどだったが、彼女の中には確かに別の命があった。アルディンはそれを聞くと、しばらく黙った。喜ばないのかとエリシアが問う前に、彼は椅子から立ち上がり、部屋を一度歩き、また戻ってきた。


「困ったな」


 彼は言った。

 エリシアは眉を上げた。


「困るとはどういうことですか」


「いや、違う。困ったのは、何を言っても足りぬ気がすることだ。嬉しいと言えば軽い。心配だと言えば、お前を不安にさせる。ありがたいと言えば、誰に礼を言っているのか分からなくなる」


「あなたは、たまに面倒ですね」


「そうかもしれない」


 アルディンはそう言って、ようやく笑い、エリシアを抱きしめた。

 その笑い方を、胸の温かさを、エリシアは長く覚えていた。


 北境で反乱が起きたのは、その直後だった。


 山脈の向こうにある小領主たちが、王国への臣従を拒み、古い砦を占拠したという。騎士団は遠征を命じられた。王都では、それは短い戦になるだろうと噂された。北境の反乱など、王国軍が動けばすぐ鎮まる。広場の商人も、酒場の客も、城門の番兵でさえも、そう言った。


 アルディンは何も言わなかった。

 ただ、剣をいつもより長く磨いた。革の籠手の紐を確かめ、馬具の傷みを見、荷袋を無駄なく整えた。エリシアはそれを見ていた。戦が短いか長いかは、王都で噂する者にとっては賭けのようなものだったが、行く者にとっては生死そのものだった。


 出立の前夜、アルディンはエリシアを星降る橋へ連れていった。

 夜はよく澄んでいた。森は黒く沈み、谷底からは湿った冷気が上がっていた。橋の石は昼の熱を失い、足裏から静かに冷えが伝わってくる。遠くで梟が鳴いた。声は一度きりで、あとは風がすべてをさらっていった。

 アルディンは橋の欄干に手を置き、北の山影を見ていた。


「夏至までには戻るつもりだ」


 彼は言った。

 つもりだ、という言い方が、エリシアにはかえって重く響いた。彼は守れぬかもしれぬ言葉を飾る人ではなかった。


「夏至など、すぐに来てしまいますわ」


 エリシアはそう言ってみせた。責めるつもりではなかった。ただ、黙っていれば彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。何か言葉を置かなければ、この夜があまりに早く終わってしまう。

 アルディンは欄干に置いた手を見下ろした。


「すぐに来るなら、なおさら戻らねばならないな」


「戻るとおっしゃる方は、皆そう言います。戦へ行く男は、たいてい似たような顔で、似たような言葉を残すものです」


「俺もその一人に聞こえるか」


「今夜ばかりは」


 アルディンはようやく彼女を見た。暗がりの中で、その目だけが静かに光を受けていた。


「ならば、言葉を変えよう。戻るのではない。ここへ来る」


「同じことではありませんか」


「違う。王都へ戻ると言えば、軍の道を帰ることになる。家へ戻ると言えば、世間の許しを得ることになる。だが、ここへ来ると言えば、俺とお前の間だけの話になる」


 エリシアは返事をしなかった。

 その言い方が、いかにも彼らしかった。大きな誓いを立てることを嫌いながら、いったん口にした言葉からは決して逃げない。


「では、ここへ」


 彼女は言った。


「夏至の夜に。王国が勝とうと負けようと、軍がどの道を通ろうと、誰が何を命じようと、あなたはここへ来る。そういう意味に受け取ります」


 アルディンはかすかに笑った。


「それでよい。この約束なら、戦場まで持っていける」


 エリシアは懐から細い組紐を取り出した。青い糸で編んだ守り紐だった。薬師の家に伝わる、旅に出る者へ渡す古いまじないである。魔術と呼ぶにはささやかで、信仰と呼ぶには生活に近すぎる。ただ、代々の女たちが、行く者の手に結んできたものだった。


「効くかどうかは分かりません」


「お前が結ぶなら、効く」


「そういうものではありません。薬でも呪でも、効くものには理があります」


「なら、理はあとで考える。今は効くと思っておく」


「騎士というのは、もっと理性的なものかと思っていました」


「戦へ行く前の騎士に、理性ばかり求めるな。持っていけるものがあるなら、何でも持っていきたくなる」


 彼は静かに手首を差し出した。

 エリシアは、革の籠手の下、脈の打つ場所に近いところへ紐を結んだ。結び目を作るとき、指先が震えた。アルディンは気づいたはずだったが、それには触れなかった。


 代わりに、彼は腹の前に視線を落とした。


「名を考えていると言っていたな」


 エリシアは少し笑った。


「覚えていたのですか」


「聞いたことは覚えている。答えられなかったことも」


「リオネル」


 その名を口にしたとき、エリシアは不思議な怖さを覚えた。まだこの世に出ていない子の名を呼ぶことは、未来をこちらへ引き寄せるようだった。未来というものが、いつも人に優しいとは限らないことを、彼女は知っていた。

 アルディンは低く繰り返した。


「リオネル」


「男の子なら、です。女の子なら、また考え直さなくては」


「男でも女でも、その名でよい気がする」


「あなたは、私が言ったことなら何でもよいと言います」


「何でもよいわけではない。ただ、お前が長く考えて選んだものなら、俺がその場で退ける理由がない」


「ずるい言い方ですね」


「そうか?」


「ええ。私を信じているように聞こえて、実は考えることを私に任せていますわ」


 アルディンは少し困ったように笑った。


「では、今から考える。リオネルはよい名だ。呼ぶときに、遠くまで届く。谷の向こうにいても、聞こえそうだ」


「あなたが谷の向こうにいることなど、望んでおりません」


「では、橋のこちら側で呼ぶ」


「夏至の夜に」


「ああ。夏至の夜に」


 


 翌朝、騎士団は北へ発った。


 夏至が来た。

 だが、アルディンは来なかった。


 遠征軍は凱旋した。王都の門は開かれ、広場には鐘が鳴り、旗が掲げられた。兵士たちは疲れた顔をしながらも、勝利の列を成して石畳を進んだ。人々は歓声を上げ、花を投げた。戦に行かなかった者ほど、勝利という言葉を朗らかに扱った。


 エリシアは群衆の中で待っていた。

 彼の姿はなかった。

 名簿にもなかった。戦死者にも、捕虜にも、帰還者にも。軍務局に通い、騎士団の詰所を訪ね、負傷兵に尋ねた。それでも答えは同じだった。


 北境戦役において行方知れず。

 それが、王国の与えた唯一の言葉だった。


「行方知れずとは、どこにいるという意味ですか」


 軍務局の窓口で、エリシアは尋ねた。

 係官は顔を上げなかった。帳簿の頁を繰り、そこに記された字を読むだけだった。


「生死が確認されていない、という意味です」


「生きているのですか」


「確認されておりません」


「死んだのですか」


「確認されておりません」


「では、何が確認されているのです」


 係官は、そこで初めて顔を上げた。面倒を避けるような、哀れむような目だった。


「遠征軍の帰還者名簿に名がないことです」


 エリシアはしばらく、その男を見ていた。


「人ひとりが戻らぬことを、王国ではそれだけの言葉で済ませるのですね」


 係官は口を閉ざした。

 沈黙は、しばしば最も便利な返答になる。



 夏至の夜、エリシアは星降る橋へ行った。

 腹は大きくなっていた。歩くたびに息が切れた。それでも彼女は白い花を一輪持ち、橋の中央に立った。森は黒く、谷は深く、空はあまりに遠かった。


 星は降った。


 銀の光が欄干に積もり、石畳を淡く染めた。谷から吹き上げる風が、彼女の髪を揺らした。


「アルディン」


 声は谷へ落ちていった。

 返るものはなかった。


 翌年も、エリシアは橋へ行った。

 腕には幼い子を抱いていた。子はリオネルと名づけられた。まだ父の顔を知らぬその子は、夜風に驚いて泣いた。エリシアは子をあやしながら、橋の上に立ち続けた。


 さらに翌年も、その次の年も、彼女は夏至の夜に橋へ行った。

 城下の者たちは、初め彼女を慰めた。やがて諭した。さらに時が経つと、何も言わなくなった。人は、長すぎる悲しみを前にすると、それを悲しみではなく性癖のように扱い始める。あの人は毎年橋へ行くのだ、という言葉は、やがて、あの家の戸口には薬草が吊られている、というのと同じ調子で語られた。


 エリシアは誰かに見せるために待っていたのではなかった。

 彼女は、ただ約束を覚えていた。

 リオネルが七つのころ、母に尋ねたことがある。


「父上は、なぜ戻られないのですか」


 エリシアは、干した薬草を束ねる手を止めた。窓の外では雨が降っていた。軒先から落ちる水音が、細かく庭石を叩いていた。


「戻れぬのでしょう」


「死なれたのですか」


「分かりません」


「母上は、分からないことを、どうしてそんなに長く待っていられるのですか。私は、知らないことがあると、胸の中に棘が残ったようで落ち着きません」


 エリシアは束ねた薬草を卓に置いた。


「棘は、抜けるものばかりではありません。深く入ったものは、無理に抜こうとすると傷が広がることもあります」


「では、父上のことは、抜かない棘なのですか」


「あなたには、そう見えるのですね」


「違うのですか」


 エリシアはすぐには答えなかった。雨の音が、部屋の中の沈黙を細かく満たしていた。


「私は、あの方を待っているのではないのかもしれません」


 彼女はやがて言った。

 リオネルは顔を上げた。


「では、何をしているのです」


「あの方が、どこかで約束を守ろうとしていることを、忘れないようにしているのです」


「戻らなければ、守ったことにはなりません」


「そうね」


「それなら、父上は約束を破ったのではありませんか」


 エリシアの手が、薬草の上で止まった。

 リオネルは叱られると思った。だが、母は叱らなかった。


「そう思うなら、そう思ってよいのです」


「母上はそうは思わないのですか」


「私は、あの方を少し知っています」


「私は知りません」


「だから、あなたは怒ってよいのです。知らぬ相手を許すことは、とても難しいものだから」


 リオネルは黙った。

 母の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさは彼を突き放しているようでもあった。母の中には、リオネルの知らぬ父がいた。父を知らぬ息子がどれほど怒っても、そこには届かない。


 それが、リオネルには悔しかった。

 父の記憶は、彼の中にはなかった。あるのは母の語る断片だけだった。灰色の目をしていたこと。剣を手入れするときだけ、少し楽しそうにしていたこと。苦い薬を飲むのが下手だったこと。嘘をつくとき、必ず黙ってしまうこと。

 それらは父というより、母の胸の中に残された影だった。


 リオネルは成長した。

 彼は騎士にはならなかった。剣を取るには、母の沈黙を見すぎていた。人を英雄にするものが、同時に誰かの人生を壊すことを、彼は早くから知っていた。


 彼が選んだのは、記録院だった。

 王宮の奥、陽の差さぬ石造りの一角に、記録院はあった。そこには王国の歳月が眠っていた。王命、租税台帳、裁判記録、軍務報告、系譜、封印文書。人の声が失われたあとにも、紙は残る。紙は沈黙しながら、ときに人よりも多くを語った。


 若いころのリオネルは、ただ古い帳簿を運び、傷んだ羊皮紙を修復する下役にすぎなかった。埃を吸い、黴の匂いの中で日を過ごした。冬は指がかじかみ、夏は書庫の湿気が肌にまとわりついた。

 それでも彼は、そこを離れなかった。

 母は何も言わなかった。

 ただ、初めて王宮へ出仕する日の朝、彼の襟元を直しながら言った。


「紙は、嘘をつきます」


 リオネルは意外に思って、母を見た。


「記録院へ行く息子に、そのようなことをおっしゃるのですか」


「だからこそです。紙は人の手で書かれます。人は、見たいものを書き、見たくないものを余白へ追いやります」


「では、何を信じればよいのですか」


「余白です」


 母は言った。


「本当に大事なことは、そこに押し込まれていることがあります。けれど、余白を読むには、まず文字を読む力が要ります。あなたが行く場所は、そういう場所でしょう」


 その言葉を、リオネルは長く覚えていた。


 歳月は彼にも職責を与えた。

 四十年が過ぎるころ、リオネルは記録院の上席書記官となっていた。旧軍務文書の整理を任され、封印の解かれた戦役記録や、軍務卿宛の私信に触れることを許される立場になっていた。


 その冬、北境戦役に関わる文書箱が開かれた。

 箱は黒ずみ、金具は錆びていた。蓋には、北境遠征、未整理、とだけ記されていた。誰かが一度は整理しようとし、途中で放置したのだろう。封蝋の残る書簡、破れた兵站表、濡れて滲んだ報告書が、雑然と収められていた。


 リオネルは、それらを一枚ずつ取り出した。

 その中に、父の名があった。


 アルディン・レイヴァルド。


 文字を見た瞬間、書庫の冷えが遠のいた。

 文書は、北方軍副官が軍務卿へ宛てた報告書だった。正式に処理された形跡はない。戦後の混乱の中で、別の箱に紛れたのだろう。そこに記されていたのは、公の記録とは異なる事実だった。


 北境の最後の砦で、王国軍は退却を余儀なくされた。敵兵は谷を越え、橋門へ迫っていた。そこを抜かれれば、撤退する兵は背後から討たれる。

 誰かが残らねばならなかった。

 アルディンは、残った。


 わずかな兵とともに橋門を守り、味方の退却を支えた。最後の部隊が谷を越えたのち、砦は崩落した。敵の火によるものか、古い城壁が限界を迎えたためかは不明である。ただ、崩落ののち、彼の姿は見つからなかった。


 報告書は淡々と述べていた。

 騎士アルディン・レイヴァルド、橋門にて敵軍を足止め。撤退兵百二十余名を救う。砦崩落に巻き込まれたるものと推定。遺骸収容かなわず。


 さらに末尾に、小さな追記があった。


 石棺谷の慰霊堂に、身元不明騎士一名を仮葬す。所持品に青き組紐あり。


 リオネルは、その一文を見つめた。

 青き組紐。

 母が、自分の手首に結んだものと同じだった。

 長いあいだ、彼は動かなかった。


 怒りはなかった。悲しみも、すぐには来なかった。ただ、胸の奥で何かが静かに崩れた。


 父は去ったのではない。

 忘れたのでもない。

 帰る道を失ったのだ。


 リオネルは王宮に申し出た。

 古い戦役記録の再調査を願い出ることは容易ではなかった。まして四十年前の行方不明者である。多くの者は、今さら何を、と言った。

 軍務局の老官は、書類を前にしてため息をついた。


「上席書記官殿、お気持ちは分からぬでもありません。だが、戦は多くを呑みます。すべての名を拾い上げようとすれば、王国の書庫は墓標で埋まる」


 リオネルは静かに答えた。


「墓標で埋まるなら、書庫としてはましでしょう。名を失った者を、失ったままにしておくよりは」


「それは学者の理屈です。政は、そう綺麗には動きません」


「承知しております。ですから私は、父のためだけに願い出ているのではありません。未整理の戦役記録の中に、王国がいまだ処理していない事実があると申し上げています」


 老官はしばらく彼を見た。


「あなたは、父君の名を取り戻したいのですか。それとも、王国の過ちを正したいのですか」


「どちらか一つでなければ、許可は下りませんか」


「答え方によります」


「では、こう申し上げます。私は記録院の者として、誤った空白を埋めたい。息子として、その空白に父がいることを知っている。それだけです」


 老官は黙った。

 やがて、書類に許可の印を押した。


 紙は、彼を裏切らなかった。


 古い兵站表には、撤退時に救われた兵の数が残っていた。負傷兵名簿には、橋門で時間を得たために生還した者たちの名があった。別の手紙には、名も知らぬ若い騎士が最後まで橋を守った、と書かれていた。

 その名が、ようやく一つに結びついた。


 リオネルは北へ向かった。

 石棺谷は、王都から十日余りの地にあった。

 北へ進むにつれ、空は低くなった。森の木々は痩せ、葉は硬く、風は乾いていた。山の斜面には古い砦の跡が点々と残っていた。焼けた石、崩れた見張り台、草に埋もれた塹壕。戦が去ったあとも、土地はそれを忘れない。

 谷に入ると、昼でも薄暗かった。両側の崖が迫り、空は細い帯のように見えた。風が石の間を抜け、低く唸った。そこには、人の暮らしの匂いがなかった。


 慰霊堂は、谷の奥にあった。

 半ば崩れた石造りの建物だった。扉は傾き、屋根の一部は落ちていた。中には名のない石棺が並んでいた。古い花の痕も、祈りの燭台も、すでに朽ちていた。

 管理人の老人は、無言で一つの石棺を示した。

 棺の前には、文字の消えかけた木札があった。


 身元不明騎士。北境戦役。


 棺の中には、錆びた剣があった。割れた徽章があった。骨は白く乾き、長い眠りの中で静かに形を失いつつあった。

 そして、小さな革袋があった。

 リオネルは、それを受け取った。


 革は硬くなり、縫い目はほつれていた。中には、色褪せた青い組紐が入っていた。ところどころ切れかけていたが、結び目だけは固く残っていた。


 もう一つ、小さな銀の鈴があった。

 赤子の手に握らせるほどの、小さな鈴だった。磨かれぬまま四十年を経た銀は黒ずんでいたが、刻まれた文字はかすかに読めた。


 リオネルへ。


 リオネルは息を止めた。

 父が自分を知るはずはない。だが、母はかつて言っていた。子の名はリオネルにしたいと、出立の前に二人で話したのだと。

 父は覚えていた。

 帰ったなら、これを渡すつもりだったのだ。


 四十年、鈴は鳴らなかった。

 四十年、母は橋に立ち続けた。

 リオネルは棺の前に膝をついた。祈りの言葉は出なかった。ただ、額を石の床に近づけた。

 その冷たさだけが、確かなものだった。



 夏至の夜、星降る橋には、今年もエリシアが立っていた。


 彼女の髪は白く、背は少し細くなっていた。だが、橋の中央に立つ姿は、若いころと変わらぬものをどこかに残していた。片手には白い花があった。

 谷から吹き上げる風が、花弁を震わせていた。

 夜は深かった。森は黒く沈み、遠い山脈は空と一つになっていた。まだ星の光は降っていなかった。


 王都の方角から、馬車が来た。


 車輪の音が石畳に近づく。馬車の後ろには、騎士団の正装をまとった者たちが続いていた。さらにその後方に、王命を携えた勅使の姿があった。


 エリシアは振り返った。

 問いはしなかった。


 リオネルが馬車から降りた。彼はゆっくりと母の前へ進んだ。その腕には、白い布に包まれた骨壺があった。

 しばらく、誰も声を出さなかった。

 谷風だけが橋の上を渡っていた。


「その布は、王宮のものね」


 最初に口を開いたのは、エリシアだった。

 声は静かだった。あまりに静かで、リオネルはかえって胸を衝かれた。


「はい。王命により、北境からお連れしました」


「王命」


 エリシアはその言葉を、ゆっくり繰り返した。


「四十年も経つと、人ひとりが戻るにも、王の言葉が要るようになるのですね。若いころのあの方なら、きっと困った顔をしたでしょう。自分の帰り道にまで、そんな大げさな札を付けるなと」


 リオネルは答えられなかった。

 エリシアの目は骨壺に向けられていた。白い布に包まれたそれは、あまりに小さかった。四十年という歳月も、一人の男の生も、帰らなかった夏至の夜のすべても、その中に収まっているとは思えなかった。


「人は、こんなに小さく戻るものなのね」


 彼女は言った。


「母上」


「いいえ、責めているのではありません。ただ、不思議に思っただけです。あれほど場所を取る人だったのに」


「父上は、寡黙な方だったと伺っております」


「寡黙でしたよ。けれど、黙っている人ほど場所を取ることがあります。何を考えているのか、こちらが考えねばならないから」


 エリシアはそこで、ほんの少し笑った。


「若いころの私は、それを誠実さだと思っていました。今思えば、少しずるい方でした」


「ずるい、ですか」


「ええ。言葉を惜しむ人は、残された者に考えさせるでしょう。なぜ言わなかったのか。何を言おうとしたのか。言えなかったのか、言わなかったのか。こちらは何年でも考えてしまう」


 リオネルは骨壺を抱く手に力を込めた。


「私は、父上を恨んだことがあります」


「知っています」


「ご存じだったのですか」


「母親ですから」


 エリシアは静かに言った。


「けれど、それでよかったのです。あなたまで待つ必要はなかった。待つのは、私だけでよかった」


 リオネルは唇を噛んだ。


「石棺谷に、おられました」


 エリシアの瞼が、かすかに震えた。


「石棺谷」


「北境の慰霊堂です。名は失われていました。けれど、所持品が残っておりました」


 人ではなく、所持品。命ではなく、記録。帰還ではなく、確認。四十年を経て戻るものは、違う名で呼ばれるようになる。


「青い組紐が」


 リオネルは言った。

 エリシアの手から、白い花が落ちた。

 花は石畳に当たり、谷風に押されて少しだけ転がった。誰も拾わなかった。


「持っていたのね」


 その声は、問いではなかった。

 

 ただ、長い間閉じていた扉が、内側から少し開いたような声だった。

 母の口元には、笑みのようなものがあった。だが、それは笑みと呼ぶにはあまりに痛ましかった。


「そんなもの、本当に戦場まで持っていく必要などなかったでしょうに」


「父上は、橋門に残られました」


 リオネルは、言葉を選びながら続けた。


「撤退する兵を逃がすために、最後まで退かなかったと、記録にありました。砦はその後に崩れ、父上は戻れなかった。公式の報告には残らず、副官の書簡だけが未整理の文書箱に紛れていました。私が上席書記官になり、旧軍務文書を扱うことを許されて、ようやく見つけることができたのです」


 エリシアは目を閉じた。


「それなら、あの方らしい」


 驚きはなかった。


「人に道を譲って、自分の帰る道を失くすような方でした。きっと、そのときも同じ顔をしていたのでしょう。何かを諦めた顔ではなく、ただ、自分の番が来たと思っただけの顔を」


「母上」


「腹が立ちますね」


 エリシアは静かに言った。

 その言葉に、リオネルは息を呑んだ。


「誇るべきなのでしょう。多くの兵を救ったのですから。王国のため、誰かの夫や息子のため、立派なことをしたのでしょう。けれど私は、その兵たちの名を知りません。救われた多くの兵士より、帰らなかった一人を数えてしまう。薬師としては、ひどく狭い考えです」


「狭くなどありません」


「いいえ、狭いのです。けれど、人はそういう狭さを抱えて生きるものです。国は大数を数える。妻は一を数える。どちらも間違いではないのでしょう。だからこそ、始末が悪い」


 リオネルは、抱えていた骨壺を差し出した。


「お戻りです」


 エリシアはすぐには受け取らなかった。

 長い間、その白い壺を見ていた。


 エリシアは、ようやく骨壺に手を伸ばした。

 エリシアはそれを胸に抱いた。抱きしめるというより、失われたものの形を、今さら確かめるようだった。


「アルディン」


 名を呼んだ。

 四十年、橋の上で呼び続けた名だった。


「ずいぶんと、遠回りをなさいましたね」


 谷風が吹いた。

 騎士たちの外套が鳴り、勅使の持つ王命の紙がかすかに揺れた。

 エリシアは顔を上げた。


 勅使が一歩進んだ。

 リオネルは息を呑んだ。母は分かっているのだ。この帰還が、ただ遺骨を返すためだけのものではないことを。

 勅使は王命を開いた。


「北境戦役において退路を守り、百二十余名の兵を救いし功、今ここに明らかなり。故アルディン・レイヴァルドを騎士長に叙し、王国白銀章を授ける。その名を大聖堂英霊碑に刻み、王国の記憶に留めるものとする」


 声は、橋の上に硬く響いた。

 騎士たちは一斉に膝をついた。剣が抜かれ、その切っ先が石畳に伏せられる。星の光はまだ降っていなかったが、刃は夜気を受けて白く光った。

 エリシアはしばらく黙っていた。

 やがて、骨壺を抱いたまま、小さく笑った。


「遅いこと」


 勅使は言葉を失った。

 騎士たちも動かなかった。

 エリシアは静かに続けた。


「けれど、戻ってきたのですね。戻らぬものに、遅いも早いもありませんから」


 彼女は骨壺に目を落とした。


「お聞きになりましたか、アルディン。あなたは騎士長ですって。困ったことでしょうね。出世など、いちばん似合わない方でしたのに」


 リオネルは革袋を開いた。

 中から、色褪せた青い組紐を取り出す。


「これを、父上はお持ちでした」


 エリシアの手が、初めて震えた。

 彼女は組紐を受け取り、長いあいだ見つめていた。若い日に自分が結んだものだった。祈りも、恐れも、愛も、その結び目に残っているようだった。


 リオネルは、もう一つの小さな品を差し出した。

 銀の鈴だった。


「こちらも。私へ、と」


 鈴には、かすかに名が刻まれていた。

 リオネルへ。

 エリシアはその文字を見た。

 長い沈黙が落ちた。


「あなたの名を、覚えていたのね」


「出立の前に、母上が話されたのだと思います」


「ええ。話しました。まだ決めたわけではないと言ったのに、あの方は、その名を忘れなかった」


 エリシアは鈴を指先で包んだ。


「リオネル。あなたに、父親らしいものを何も残してやれなかったと、ずっと思っていました。顔も、声も、手の温かさも。私が語るほど、あの人は私の中の人になってしまって、あなたの父にはならない気がしていた」


「私は」


 リオネルは言いかけて、言葉を失った。

 エリシアは彼を見た。


「無理に答えなくてよいのです。親が残せなかったものを、子が補って答える必要はありません」


「私は、父上を知らぬまま、父上を恨みました。知らぬまま、探しました。今も、知ったとは言えません」


「それでよいのです。死者を知り尽くすことなど、生者にはできません。夫であっても、子であっても。同じ家で暮らしていた者でさえ、知らぬまま別れるのです。あなたは、知らぬことを知った。それは、知らぬまま憎むより、ずっと遠くまで来たということです」


 そのとき、橋の上に光が降りはじめた。


 初めは、霧のようだった。

 空から落ちてくるというより、石の内側からにじみ出すように、淡い銀が欄干を濡らした。谷を渡る風が光を揺らし、騎士たちの鎧に細い線を引いた。森は黒いまま沈み、山の稜線だけが、かすかに白く浮かび上がった。


 銀の鈴が、小さく鳴った。

 リオネルが鳴らしたのではない。エリシアの手の中で、風に触れたように、かすかに震えた。

 音は小さかった。

 けれど、橋の上にいる者たちは、皆それを聞いた。

 四十年、鳴るべき相手の手に届かなかった音だった。

 エリシアは骨壺を抱いたまま、橋の向こうを見ていた。


 そこに、若い騎士の姿があるように思えた。

 遠征へ発った日のまま、まっすぐに立ち、困ったように、けれど確かに微笑んでいる。手首には青い組紐があり、片手には小さな銀の鈴がある。


 待たせた。


 そう言ったのかもしれなかった。

 エリシアは目を閉じた。


「ええ。ようやく来てくれたのね」


 それだけを、彼女は答えた。

 責めるには、あまりに長い歳月だった。

 許すには、あまりに深い喪失だった。

 けれど、約束は果たされた。


 エリシアは骨壺を抱き直した。四十年のあいだ空いていた腕の内側に、ようやく重みが戻った。軽すぎるほどの重みだった。それでも、確かにそこにあった。


 銀の鈴が、もう一度鳴った。

 星降る橋の上で、騎士長アルディン・レイヴァルドはようやく名を取り戻した。


 夫として。

 父として。

 そして、帰る場所を失わなかった者として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ