星降る橋の約束
北境へ続く街道の外れに、古い石橋があった。
王都の北門を出て、刈り入れの終わった麦畑を抜け、黒い森を半日ほど進むと、道は深い谷に突き当たる。谷底には細い川が流れていたが、橋の上からは水面さえ見えない。聞こえるのは、石の裂け目を抜けて吹き上がる風の音だけだった。
その橋を、人々は星降る橋と呼んだ。
橋は古かった。誰が架けたのか、いつ架けたのか、確かな記録は王都の書庫にも残っていない。ただ、古い年代記には、王国がまだ王国と呼ばれる以前から、北へ向かう者はこの橋を渡り、戻る者もまたこの橋を渡った、とある。
夏至の夜になると、その橋には星が降るという。
雲があっても、雨が降っても、真夜中になると橋の欄干だけが淡く銀に濡れる。旅人はそれを吉兆と呼び、兵士は死者の道標と呼び、村の老人たちは、帰る場所を失った魂が一夜だけ通るのだと語った。
エリシアは、その話を幼いころから知っていた。
信じていたわけではない。ただ、人の世には、信じるとも疑うとも言わずに受け継がれるものがある。古い橋、古い祈り、古い約束。そうしたものは、人がそれをどう扱おうと、変わらずそこに残る。
エリシアがアルディンと最後に会ったのも、その橋の上だった。
アルディン・レイヴァルドは、王国騎士団に仕える若い騎士だった。名家の出ではない。父は地方の小役人で、母は早くに亡くなっていた。騎士に取り立てられたのは、剣の腕よりも、命じられたことを最後まで投げ出さぬ性質を買われたからだと、彼自身は言っていた。
エリシアは城下で薬草を扱う家の娘だった。貴族でもなく、騎士の家の女でもない。薬草を摘み、干し、煎じ、時には死にゆく者の枕辺に座った。人がどれほど簡単に熱を失うかを、彼女は若いころから知っていた。
二人の婚姻は慎ましいものだった。
神殿の片隅で誓いを交わし、数人の友人に祝われただけの、目立たぬ婚礼だった。王都の誰も、その日を覚えてはいないだろう。けれどエリシアは、その日の光をよく覚えていた。神殿の高窓から差した細い陽が、アルディンの左手を白く照らしていた。彼は誓いの言葉を一度だけ言い違え、ひどく真面目な顔で最初から言い直した。
その春、エリシアの腹には子がいた。
まだ外からはそれと分からぬほどだったが、彼女の中には確かに別の命があった。アルディンはそれを聞くと、しばらく黙った。喜ばないのかとエリシアが問う前に、彼は椅子から立ち上がり、部屋を一度歩き、また戻ってきた。
「困ったな」
彼は言った。
エリシアは眉を上げた。
「困るとはどういうことですか」
「いや、違う。困ったのは、何を言っても足りぬ気がすることだ。嬉しいと言えば軽い。心配だと言えば、お前を不安にさせる。ありがたいと言えば、誰に礼を言っているのか分からなくなる」
「あなたは、たまに面倒ですね」
「そうかもしれない」
アルディンはそう言って、ようやく笑い、エリシアを抱きしめた。
その笑い方を、胸の温かさを、エリシアは長く覚えていた。
北境で反乱が起きたのは、その直後だった。
山脈の向こうにある小領主たちが、王国への臣従を拒み、古い砦を占拠したという。騎士団は遠征を命じられた。王都では、それは短い戦になるだろうと噂された。北境の反乱など、王国軍が動けばすぐ鎮まる。広場の商人も、酒場の客も、城門の番兵でさえも、そう言った。
アルディンは何も言わなかった。
ただ、剣をいつもより長く磨いた。革の籠手の紐を確かめ、馬具の傷みを見、荷袋を無駄なく整えた。エリシアはそれを見ていた。戦が短いか長いかは、王都で噂する者にとっては賭けのようなものだったが、行く者にとっては生死そのものだった。
出立の前夜、アルディンはエリシアを星降る橋へ連れていった。
夜はよく澄んでいた。森は黒く沈み、谷底からは湿った冷気が上がっていた。橋の石は昼の熱を失い、足裏から静かに冷えが伝わってくる。遠くで梟が鳴いた。声は一度きりで、あとは風がすべてをさらっていった。
アルディンは橋の欄干に手を置き、北の山影を見ていた。
「夏至までには戻るつもりだ」
彼は言った。
つもりだ、という言い方が、エリシアにはかえって重く響いた。彼は守れぬかもしれぬ言葉を飾る人ではなかった。
「夏至など、すぐに来てしまいますわ」
エリシアはそう言ってみせた。責めるつもりではなかった。ただ、黙っていれば彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。何か言葉を置かなければ、この夜があまりに早く終わってしまう。
アルディンは欄干に置いた手を見下ろした。
「すぐに来るなら、なおさら戻らねばならないな」
「戻るとおっしゃる方は、皆そう言います。戦へ行く男は、たいてい似たような顔で、似たような言葉を残すものです」
「俺もその一人に聞こえるか」
「今夜ばかりは」
アルディンはようやく彼女を見た。暗がりの中で、その目だけが静かに光を受けていた。
「ならば、言葉を変えよう。戻るのではない。ここへ来る」
「同じことではありませんか」
「違う。王都へ戻ると言えば、軍の道を帰ることになる。家へ戻ると言えば、世間の許しを得ることになる。だが、ここへ来ると言えば、俺とお前の間だけの話になる」
エリシアは返事をしなかった。
その言い方が、いかにも彼らしかった。大きな誓いを立てることを嫌いながら、いったん口にした言葉からは決して逃げない。
「では、ここへ」
彼女は言った。
「夏至の夜に。王国が勝とうと負けようと、軍がどの道を通ろうと、誰が何を命じようと、あなたはここへ来る。そういう意味に受け取ります」
アルディンはかすかに笑った。
「それでよい。この約束なら、戦場まで持っていける」
エリシアは懐から細い組紐を取り出した。青い糸で編んだ守り紐だった。薬師の家に伝わる、旅に出る者へ渡す古いまじないである。魔術と呼ぶにはささやかで、信仰と呼ぶには生活に近すぎる。ただ、代々の女たちが、行く者の手に結んできたものだった。
「効くかどうかは分かりません」
「お前が結ぶなら、効く」
「そういうものではありません。薬でも呪でも、効くものには理があります」
「なら、理はあとで考える。今は効くと思っておく」
「騎士というのは、もっと理性的なものかと思っていました」
「戦へ行く前の騎士に、理性ばかり求めるな。持っていけるものがあるなら、何でも持っていきたくなる」
彼は静かに手首を差し出した。
エリシアは、革の籠手の下、脈の打つ場所に近いところへ紐を結んだ。結び目を作るとき、指先が震えた。アルディンは気づいたはずだったが、それには触れなかった。
代わりに、彼は腹の前に視線を落とした。
「名を考えていると言っていたな」
エリシアは少し笑った。
「覚えていたのですか」
「聞いたことは覚えている。答えられなかったことも」
「リオネル」
その名を口にしたとき、エリシアは不思議な怖さを覚えた。まだこの世に出ていない子の名を呼ぶことは、未来をこちらへ引き寄せるようだった。未来というものが、いつも人に優しいとは限らないことを、彼女は知っていた。
アルディンは低く繰り返した。
「リオネル」
「男の子なら、です。女の子なら、また考え直さなくては」
「男でも女でも、その名でよい気がする」
「あなたは、私が言ったことなら何でもよいと言います」
「何でもよいわけではない。ただ、お前が長く考えて選んだものなら、俺がその場で退ける理由がない」
「ずるい言い方ですね」
「そうか?」
「ええ。私を信じているように聞こえて、実は考えることを私に任せていますわ」
アルディンは少し困ったように笑った。
「では、今から考える。リオネルはよい名だ。呼ぶときに、遠くまで届く。谷の向こうにいても、聞こえそうだ」
「あなたが谷の向こうにいることなど、望んでおりません」
「では、橋のこちら側で呼ぶ」
「夏至の夜に」
「ああ。夏至の夜に」
翌朝、騎士団は北へ発った。
夏至が来た。
だが、アルディンは来なかった。
遠征軍は凱旋した。王都の門は開かれ、広場には鐘が鳴り、旗が掲げられた。兵士たちは疲れた顔をしながらも、勝利の列を成して石畳を進んだ。人々は歓声を上げ、花を投げた。戦に行かなかった者ほど、勝利という言葉を朗らかに扱った。
エリシアは群衆の中で待っていた。
彼の姿はなかった。
名簿にもなかった。戦死者にも、捕虜にも、帰還者にも。軍務局に通い、騎士団の詰所を訪ね、負傷兵に尋ねた。それでも答えは同じだった。
北境戦役において行方知れず。
それが、王国の与えた唯一の言葉だった。
「行方知れずとは、どこにいるという意味ですか」
軍務局の窓口で、エリシアは尋ねた。
係官は顔を上げなかった。帳簿の頁を繰り、そこに記された字を読むだけだった。
「生死が確認されていない、という意味です」
「生きているのですか」
「確認されておりません」
「死んだのですか」
「確認されておりません」
「では、何が確認されているのです」
係官は、そこで初めて顔を上げた。面倒を避けるような、哀れむような目だった。
「遠征軍の帰還者名簿に名がないことです」
エリシアはしばらく、その男を見ていた。
「人ひとりが戻らぬことを、王国ではそれだけの言葉で済ませるのですね」
係官は口を閉ざした。
沈黙は、しばしば最も便利な返答になる。
夏至の夜、エリシアは星降る橋へ行った。
腹は大きくなっていた。歩くたびに息が切れた。それでも彼女は白い花を一輪持ち、橋の中央に立った。森は黒く、谷は深く、空はあまりに遠かった。
星は降った。
銀の光が欄干に積もり、石畳を淡く染めた。谷から吹き上げる風が、彼女の髪を揺らした。
「アルディン」
声は谷へ落ちていった。
返るものはなかった。
翌年も、エリシアは橋へ行った。
腕には幼い子を抱いていた。子はリオネルと名づけられた。まだ父の顔を知らぬその子は、夜風に驚いて泣いた。エリシアは子をあやしながら、橋の上に立ち続けた。
さらに翌年も、その次の年も、彼女は夏至の夜に橋へ行った。
城下の者たちは、初め彼女を慰めた。やがて諭した。さらに時が経つと、何も言わなくなった。人は、長すぎる悲しみを前にすると、それを悲しみではなく性癖のように扱い始める。あの人は毎年橋へ行くのだ、という言葉は、やがて、あの家の戸口には薬草が吊られている、というのと同じ調子で語られた。
エリシアは誰かに見せるために待っていたのではなかった。
彼女は、ただ約束を覚えていた。
リオネルが七つのころ、母に尋ねたことがある。
「父上は、なぜ戻られないのですか」
エリシアは、干した薬草を束ねる手を止めた。窓の外では雨が降っていた。軒先から落ちる水音が、細かく庭石を叩いていた。
「戻れぬのでしょう」
「死なれたのですか」
「分かりません」
「母上は、分からないことを、どうしてそんなに長く待っていられるのですか。私は、知らないことがあると、胸の中に棘が残ったようで落ち着きません」
エリシアは束ねた薬草を卓に置いた。
「棘は、抜けるものばかりではありません。深く入ったものは、無理に抜こうとすると傷が広がることもあります」
「では、父上のことは、抜かない棘なのですか」
「あなたには、そう見えるのですね」
「違うのですか」
エリシアはすぐには答えなかった。雨の音が、部屋の中の沈黙を細かく満たしていた。
「私は、あの方を待っているのではないのかもしれません」
彼女はやがて言った。
リオネルは顔を上げた。
「では、何をしているのです」
「あの方が、どこかで約束を守ろうとしていることを、忘れないようにしているのです」
「戻らなければ、守ったことにはなりません」
「そうね」
「それなら、父上は約束を破ったのではありませんか」
エリシアの手が、薬草の上で止まった。
リオネルは叱られると思った。だが、母は叱らなかった。
「そう思うなら、そう思ってよいのです」
「母上はそうは思わないのですか」
「私は、あの方を少し知っています」
「私は知りません」
「だから、あなたは怒ってよいのです。知らぬ相手を許すことは、とても難しいものだから」
リオネルは黙った。
母の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさは彼を突き放しているようでもあった。母の中には、リオネルの知らぬ父がいた。父を知らぬ息子がどれほど怒っても、そこには届かない。
それが、リオネルには悔しかった。
父の記憶は、彼の中にはなかった。あるのは母の語る断片だけだった。灰色の目をしていたこと。剣を手入れするときだけ、少し楽しそうにしていたこと。苦い薬を飲むのが下手だったこと。嘘をつくとき、必ず黙ってしまうこと。
それらは父というより、母の胸の中に残された影だった。
リオネルは成長した。
彼は騎士にはならなかった。剣を取るには、母の沈黙を見すぎていた。人を英雄にするものが、同時に誰かの人生を壊すことを、彼は早くから知っていた。
彼が選んだのは、記録院だった。
王宮の奥、陽の差さぬ石造りの一角に、記録院はあった。そこには王国の歳月が眠っていた。王命、租税台帳、裁判記録、軍務報告、系譜、封印文書。人の声が失われたあとにも、紙は残る。紙は沈黙しながら、ときに人よりも多くを語った。
若いころのリオネルは、ただ古い帳簿を運び、傷んだ羊皮紙を修復する下役にすぎなかった。埃を吸い、黴の匂いの中で日を過ごした。冬は指がかじかみ、夏は書庫の湿気が肌にまとわりついた。
それでも彼は、そこを離れなかった。
母は何も言わなかった。
ただ、初めて王宮へ出仕する日の朝、彼の襟元を直しながら言った。
「紙は、嘘をつきます」
リオネルは意外に思って、母を見た。
「記録院へ行く息子に、そのようなことをおっしゃるのですか」
「だからこそです。紙は人の手で書かれます。人は、見たいものを書き、見たくないものを余白へ追いやります」
「では、何を信じればよいのですか」
「余白です」
母は言った。
「本当に大事なことは、そこに押し込まれていることがあります。けれど、余白を読むには、まず文字を読む力が要ります。あなたが行く場所は、そういう場所でしょう」
その言葉を、リオネルは長く覚えていた。
歳月は彼にも職責を与えた。
四十年が過ぎるころ、リオネルは記録院の上席書記官となっていた。旧軍務文書の整理を任され、封印の解かれた戦役記録や、軍務卿宛の私信に触れることを許される立場になっていた。
その冬、北境戦役に関わる文書箱が開かれた。
箱は黒ずみ、金具は錆びていた。蓋には、北境遠征、未整理、とだけ記されていた。誰かが一度は整理しようとし、途中で放置したのだろう。封蝋の残る書簡、破れた兵站表、濡れて滲んだ報告書が、雑然と収められていた。
リオネルは、それらを一枚ずつ取り出した。
その中に、父の名があった。
アルディン・レイヴァルド。
文字を見た瞬間、書庫の冷えが遠のいた。
文書は、北方軍副官が軍務卿へ宛てた報告書だった。正式に処理された形跡はない。戦後の混乱の中で、別の箱に紛れたのだろう。そこに記されていたのは、公の記録とは異なる事実だった。
北境の最後の砦で、王国軍は退却を余儀なくされた。敵兵は谷を越え、橋門へ迫っていた。そこを抜かれれば、撤退する兵は背後から討たれる。
誰かが残らねばならなかった。
アルディンは、残った。
わずかな兵とともに橋門を守り、味方の退却を支えた。最後の部隊が谷を越えたのち、砦は崩落した。敵の火によるものか、古い城壁が限界を迎えたためかは不明である。ただ、崩落ののち、彼の姿は見つからなかった。
報告書は淡々と述べていた。
騎士アルディン・レイヴァルド、橋門にて敵軍を足止め。撤退兵百二十余名を救う。砦崩落に巻き込まれたるものと推定。遺骸収容かなわず。
さらに末尾に、小さな追記があった。
石棺谷の慰霊堂に、身元不明騎士一名を仮葬す。所持品に青き組紐あり。
リオネルは、その一文を見つめた。
青き組紐。
母が、自分の手首に結んだものと同じだった。
長いあいだ、彼は動かなかった。
怒りはなかった。悲しみも、すぐには来なかった。ただ、胸の奥で何かが静かに崩れた。
父は去ったのではない。
忘れたのでもない。
帰る道を失ったのだ。
リオネルは王宮に申し出た。
古い戦役記録の再調査を願い出ることは容易ではなかった。まして四十年前の行方不明者である。多くの者は、今さら何を、と言った。
軍務局の老官は、書類を前にしてため息をついた。
「上席書記官殿、お気持ちは分からぬでもありません。だが、戦は多くを呑みます。すべての名を拾い上げようとすれば、王国の書庫は墓標で埋まる」
リオネルは静かに答えた。
「墓標で埋まるなら、書庫としてはましでしょう。名を失った者を、失ったままにしておくよりは」
「それは学者の理屈です。政は、そう綺麗には動きません」
「承知しております。ですから私は、父のためだけに願い出ているのではありません。未整理の戦役記録の中に、王国がいまだ処理していない事実があると申し上げています」
老官はしばらく彼を見た。
「あなたは、父君の名を取り戻したいのですか。それとも、王国の過ちを正したいのですか」
「どちらか一つでなければ、許可は下りませんか」
「答え方によります」
「では、こう申し上げます。私は記録院の者として、誤った空白を埋めたい。息子として、その空白に父がいることを知っている。それだけです」
老官は黙った。
やがて、書類に許可の印を押した。
紙は、彼を裏切らなかった。
古い兵站表には、撤退時に救われた兵の数が残っていた。負傷兵名簿には、橋門で時間を得たために生還した者たちの名があった。別の手紙には、名も知らぬ若い騎士が最後まで橋を守った、と書かれていた。
その名が、ようやく一つに結びついた。
リオネルは北へ向かった。
石棺谷は、王都から十日余りの地にあった。
北へ進むにつれ、空は低くなった。森の木々は痩せ、葉は硬く、風は乾いていた。山の斜面には古い砦の跡が点々と残っていた。焼けた石、崩れた見張り台、草に埋もれた塹壕。戦が去ったあとも、土地はそれを忘れない。
谷に入ると、昼でも薄暗かった。両側の崖が迫り、空は細い帯のように見えた。風が石の間を抜け、低く唸った。そこには、人の暮らしの匂いがなかった。
慰霊堂は、谷の奥にあった。
半ば崩れた石造りの建物だった。扉は傾き、屋根の一部は落ちていた。中には名のない石棺が並んでいた。古い花の痕も、祈りの燭台も、すでに朽ちていた。
管理人の老人は、無言で一つの石棺を示した。
棺の前には、文字の消えかけた木札があった。
身元不明騎士。北境戦役。
棺の中には、錆びた剣があった。割れた徽章があった。骨は白く乾き、長い眠りの中で静かに形を失いつつあった。
そして、小さな革袋があった。
リオネルは、それを受け取った。
革は硬くなり、縫い目はほつれていた。中には、色褪せた青い組紐が入っていた。ところどころ切れかけていたが、結び目だけは固く残っていた。
もう一つ、小さな銀の鈴があった。
赤子の手に握らせるほどの、小さな鈴だった。磨かれぬまま四十年を経た銀は黒ずんでいたが、刻まれた文字はかすかに読めた。
リオネルへ。
リオネルは息を止めた。
父が自分を知るはずはない。だが、母はかつて言っていた。子の名はリオネルにしたいと、出立の前に二人で話したのだと。
父は覚えていた。
帰ったなら、これを渡すつもりだったのだ。
四十年、鈴は鳴らなかった。
四十年、母は橋に立ち続けた。
リオネルは棺の前に膝をついた。祈りの言葉は出なかった。ただ、額を石の床に近づけた。
その冷たさだけが、確かなものだった。
夏至の夜、星降る橋には、今年もエリシアが立っていた。
彼女の髪は白く、背は少し細くなっていた。だが、橋の中央に立つ姿は、若いころと変わらぬものをどこかに残していた。片手には白い花があった。
谷から吹き上げる風が、花弁を震わせていた。
夜は深かった。森は黒く沈み、遠い山脈は空と一つになっていた。まだ星の光は降っていなかった。
王都の方角から、馬車が来た。
車輪の音が石畳に近づく。馬車の後ろには、騎士団の正装をまとった者たちが続いていた。さらにその後方に、王命を携えた勅使の姿があった。
エリシアは振り返った。
問いはしなかった。
リオネルが馬車から降りた。彼はゆっくりと母の前へ進んだ。その腕には、白い布に包まれた骨壺があった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
谷風だけが橋の上を渡っていた。
「その布は、王宮のものね」
最初に口を開いたのは、エリシアだった。
声は静かだった。あまりに静かで、リオネルはかえって胸を衝かれた。
「はい。王命により、北境からお連れしました」
「王命」
エリシアはその言葉を、ゆっくり繰り返した。
「四十年も経つと、人ひとりが戻るにも、王の言葉が要るようになるのですね。若いころのあの方なら、きっと困った顔をしたでしょう。自分の帰り道にまで、そんな大げさな札を付けるなと」
リオネルは答えられなかった。
エリシアの目は骨壺に向けられていた。白い布に包まれたそれは、あまりに小さかった。四十年という歳月も、一人の男の生も、帰らなかった夏至の夜のすべても、その中に収まっているとは思えなかった。
「人は、こんなに小さく戻るものなのね」
彼女は言った。
「母上」
「いいえ、責めているのではありません。ただ、不思議に思っただけです。あれほど場所を取る人だったのに」
「父上は、寡黙な方だったと伺っております」
「寡黙でしたよ。けれど、黙っている人ほど場所を取ることがあります。何を考えているのか、こちらが考えねばならないから」
エリシアはそこで、ほんの少し笑った。
「若いころの私は、それを誠実さだと思っていました。今思えば、少しずるい方でした」
「ずるい、ですか」
「ええ。言葉を惜しむ人は、残された者に考えさせるでしょう。なぜ言わなかったのか。何を言おうとしたのか。言えなかったのか、言わなかったのか。こちらは何年でも考えてしまう」
リオネルは骨壺を抱く手に力を込めた。
「私は、父上を恨んだことがあります」
「知っています」
「ご存じだったのですか」
「母親ですから」
エリシアは静かに言った。
「けれど、それでよかったのです。あなたまで待つ必要はなかった。待つのは、私だけでよかった」
リオネルは唇を噛んだ。
「石棺谷に、おられました」
エリシアの瞼が、かすかに震えた。
「石棺谷」
「北境の慰霊堂です。名は失われていました。けれど、所持品が残っておりました」
人ではなく、所持品。命ではなく、記録。帰還ではなく、確認。四十年を経て戻るものは、違う名で呼ばれるようになる。
「青い組紐が」
リオネルは言った。
エリシアの手から、白い花が落ちた。
花は石畳に当たり、谷風に押されて少しだけ転がった。誰も拾わなかった。
「持っていたのね」
その声は、問いではなかった。
ただ、長い間閉じていた扉が、内側から少し開いたような声だった。
母の口元には、笑みのようなものがあった。だが、それは笑みと呼ぶにはあまりに痛ましかった。
「そんなもの、本当に戦場まで持っていく必要などなかったでしょうに」
「父上は、橋門に残られました」
リオネルは、言葉を選びながら続けた。
「撤退する兵を逃がすために、最後まで退かなかったと、記録にありました。砦はその後に崩れ、父上は戻れなかった。公式の報告には残らず、副官の書簡だけが未整理の文書箱に紛れていました。私が上席書記官になり、旧軍務文書を扱うことを許されて、ようやく見つけることができたのです」
エリシアは目を閉じた。
「それなら、あの方らしい」
驚きはなかった。
「人に道を譲って、自分の帰る道を失くすような方でした。きっと、そのときも同じ顔をしていたのでしょう。何かを諦めた顔ではなく、ただ、自分の番が来たと思っただけの顔を」
「母上」
「腹が立ちますね」
エリシアは静かに言った。
その言葉に、リオネルは息を呑んだ。
「誇るべきなのでしょう。多くの兵を救ったのですから。王国のため、誰かの夫や息子のため、立派なことをしたのでしょう。けれど私は、その兵たちの名を知りません。救われた多くの兵士より、帰らなかった一人を数えてしまう。薬師としては、ひどく狭い考えです」
「狭くなどありません」
「いいえ、狭いのです。けれど、人はそういう狭さを抱えて生きるものです。国は大数を数える。妻は一を数える。どちらも間違いではないのでしょう。だからこそ、始末が悪い」
リオネルは、抱えていた骨壺を差し出した。
「お戻りです」
エリシアはすぐには受け取らなかった。
長い間、その白い壺を見ていた。
エリシアは、ようやく骨壺に手を伸ばした。
エリシアはそれを胸に抱いた。抱きしめるというより、失われたものの形を、今さら確かめるようだった。
「アルディン」
名を呼んだ。
四十年、橋の上で呼び続けた名だった。
「ずいぶんと、遠回りをなさいましたね」
谷風が吹いた。
騎士たちの外套が鳴り、勅使の持つ王命の紙がかすかに揺れた。
エリシアは顔を上げた。
勅使が一歩進んだ。
リオネルは息を呑んだ。母は分かっているのだ。この帰還が、ただ遺骨を返すためだけのものではないことを。
勅使は王命を開いた。
「北境戦役において退路を守り、百二十余名の兵を救いし功、今ここに明らかなり。故アルディン・レイヴァルドを騎士長に叙し、王国白銀章を授ける。その名を大聖堂英霊碑に刻み、王国の記憶に留めるものとする」
声は、橋の上に硬く響いた。
騎士たちは一斉に膝をついた。剣が抜かれ、その切っ先が石畳に伏せられる。星の光はまだ降っていなかったが、刃は夜気を受けて白く光った。
エリシアはしばらく黙っていた。
やがて、骨壺を抱いたまま、小さく笑った。
「遅いこと」
勅使は言葉を失った。
騎士たちも動かなかった。
エリシアは静かに続けた。
「けれど、戻ってきたのですね。戻らぬものに、遅いも早いもありませんから」
彼女は骨壺に目を落とした。
「お聞きになりましたか、アルディン。あなたは騎士長ですって。困ったことでしょうね。出世など、いちばん似合わない方でしたのに」
リオネルは革袋を開いた。
中から、色褪せた青い組紐を取り出す。
「これを、父上はお持ちでした」
エリシアの手が、初めて震えた。
彼女は組紐を受け取り、長いあいだ見つめていた。若い日に自分が結んだものだった。祈りも、恐れも、愛も、その結び目に残っているようだった。
リオネルは、もう一つの小さな品を差し出した。
銀の鈴だった。
「こちらも。私へ、と」
鈴には、かすかに名が刻まれていた。
リオネルへ。
エリシアはその文字を見た。
長い沈黙が落ちた。
「あなたの名を、覚えていたのね」
「出立の前に、母上が話されたのだと思います」
「ええ。話しました。まだ決めたわけではないと言ったのに、あの方は、その名を忘れなかった」
エリシアは鈴を指先で包んだ。
「リオネル。あなたに、父親らしいものを何も残してやれなかったと、ずっと思っていました。顔も、声も、手の温かさも。私が語るほど、あの人は私の中の人になってしまって、あなたの父にはならない気がしていた」
「私は」
リオネルは言いかけて、言葉を失った。
エリシアは彼を見た。
「無理に答えなくてよいのです。親が残せなかったものを、子が補って答える必要はありません」
「私は、父上を知らぬまま、父上を恨みました。知らぬまま、探しました。今も、知ったとは言えません」
「それでよいのです。死者を知り尽くすことなど、生者にはできません。夫であっても、子であっても。同じ家で暮らしていた者でさえ、知らぬまま別れるのです。あなたは、知らぬことを知った。それは、知らぬまま憎むより、ずっと遠くまで来たということです」
そのとき、橋の上に光が降りはじめた。
初めは、霧のようだった。
空から落ちてくるというより、石の内側からにじみ出すように、淡い銀が欄干を濡らした。谷を渡る風が光を揺らし、騎士たちの鎧に細い線を引いた。森は黒いまま沈み、山の稜線だけが、かすかに白く浮かび上がった。
銀の鈴が、小さく鳴った。
リオネルが鳴らしたのではない。エリシアの手の中で、風に触れたように、かすかに震えた。
音は小さかった。
けれど、橋の上にいる者たちは、皆それを聞いた。
四十年、鳴るべき相手の手に届かなかった音だった。
エリシアは骨壺を抱いたまま、橋の向こうを見ていた。
そこに、若い騎士の姿があるように思えた。
遠征へ発った日のまま、まっすぐに立ち、困ったように、けれど確かに微笑んでいる。手首には青い組紐があり、片手には小さな銀の鈴がある。
待たせた。
そう言ったのかもしれなかった。
エリシアは目を閉じた。
「ええ。ようやく来てくれたのね」
それだけを、彼女は答えた。
責めるには、あまりに長い歳月だった。
許すには、あまりに深い喪失だった。
けれど、約束は果たされた。
エリシアは骨壺を抱き直した。四十年のあいだ空いていた腕の内側に、ようやく重みが戻った。軽すぎるほどの重みだった。それでも、確かにそこにあった。
銀の鈴が、もう一度鳴った。
星降る橋の上で、騎士長アルディン・レイヴァルドはようやく名を取り戻した。
夫として。
父として。
そして、帰る場所を失わなかった者として。




