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Closer【女子大生の眠れない夜と、男の明けない夜】

作者: すずき
掲載日:2026/03/31

*プロローグ


「虹が綺麗に見えてさあ」

 私たちの一つ上の代の先輩たちの修学旅行の行き先は沖縄だった。いっそう日焼けして帰ってきたサッカー部の先輩が、後輩たちにお土産を配りながら話している。人の輪の真ん中にいる先輩は太陽のようだ。

 なんで来年の私たちの行き先は北海道なのだろう。今の一年生たちが羨ましい。

 私も輪に加わりたいけれど、上手く話せる気がしなくて動けない。もうすぐ先輩は卒業してしまうのに、募ったこの思いを伝えられる気がしない。

 サッカーボールを磨き終えた雑巾を洗いに行く。

 グラウンドの隅の水道の冷たい水で雑巾の汚れを落としていると、不意に後ろから声が掛けられた。

「お疲れえ」

 少し間延びした喋り方は、聞き間違えるわけがない。

ひかる先輩」

「いつもありがとねえ、マネージャー」

 そう言って現れたのは、先ほどみんなの真ん中で話していた先輩だった。

 グラウンドの隅の流しで、私の隣の水道を一つ開けて、蛇口を上に向けた。

「え、ああ、いえ」

 何年も見ていただけで、一度も上手く話せたことはなかった。それでも今がチャンスだ。夏休みが明けたら三年生の先輩は引退してしまって、話せるチャンスがないかもしれない。

「沖縄、羨ましいです」

 先輩は蛇口の水を飲んでいる。顎を伝って落ちた雫が光っている。

「虹、好きなんで。私も見てみたかったです」

 ああもう、気持ち悪いって思われたかな。中学でサッカー部のマネージャーを始めたのは、先輩に一目惚れしたからなのに。

 雑巾を絞って蛇口の水を止めると、静かになった。

「……いつか一緒に見に行く?」

 それは思わぬ言葉だった。

 信じられなくて先輩を見ると、私を真っ直ぐに見ている。

「え、あ」

 嘘でしょ。心から声が出た。

「はい!」

 私が返事をすると、先輩は水を飲んでいた蛇口の下に頭を突っ込んだ。流れる水に黒髪がてっぺんから濡れていく。

「先輩!?」

 驚く私の前で、蛇口を閉めると、水を払うように髪を掻き上げた。濡れた髪に心配はしてない。だって太陽を味方につけるような先輩の髪は、きっと直ぐに乾くだろうから。

「約束するよ、うみちゃん」

「はい」

 きっと、その時。私はこの人に。

 空にいつか見上げる虹を空想した中学二年生。夏休み明けに先輩は突然転校して、姿を消した。


 言えなかった思いは燻ったまま、ずっと火がつくのを待っている。



*大学二年生


 飲みすぎた。そう思って、ファンデを塗り直した。

 友人が紹介してくれたバイトは、いわゆるギャラ飲みってやつだった。普段通学で使っていたこのみちにこんな店があったのか、というような場所。この場にいるのはそれなりの有名人やお金持ちらしい。だって女子トイレに綿棒が置いてある。

 怪しくない、と言っていた友人はうまく笑っていた。街コンのサクラみたいなもん、と言っていたのに全然違う。

 クラクラする頭でお手洗いから戻ろうとした廊下だった。

「あっ、いたいた」

 明らかに私を見付けて、トイレの近くの壁から背を離したサラリーマンがいた。

「ねえ、きみ、よかったら僕とこのあと付き合わない?」

 そう言って正されたジャケットには、ご自慢だろう社員章とレインボーのマーク。これは彼らの武器なんだろう。いつか私だって欲しがる。

「ライン教えてよ。二人でゆっくりしない?」

 けど今の私には、それは致命傷にはならない。

「結構です」

 吐き出される酒臭い息に、露骨に顔を顰めた。避けて戻ろうとすると、腕を掴まれた。振り払っても解けない。

「いいじゃん。ちょっとさ」

「ごめーん」

 ふいに、後ろから間延びした声が聞こえた。

「この子、もう俺のなんだあ」

 私の手首を掴む手を振り払ったその手は、誰よりも白かった。ワイシャツからの袖口から覗くその手首には、黒い模様があった。

「もうラインは俺以外の男禁止だし、この後も俺のものなの。ごめんね?」

 流れるような嘘だけど、否定する意味はない。

 私の背後に立ったその人を見て、男の人は口元をひくつかせて身を引いた。

 会場内に戻っていくジャケット姿を見て、それから背後から助けてくれたその人物に向き直る。

 手首にはタトゥーが見えていて、正直気後れする。けどこの場で私は困らせたのはサラリーマンで、タトゥーのお兄さんが助けてくれたのだ。この人の方が悪役じゃない。

「あの、ありがとうございます」

 振り向いて、その顔を見上げた。

「ん? ああ、いいのいいの」

 何度もブリーチをしたであろう、綺麗な金髪。

「むしろ役得って感じ」

 少し間延びしたその口調。

 こんな人いたっけ。むしろ、こんな顔。

 見付けていたら私から声を掛けないわけがないのに。

 青空の下で見た一人の男の顔がダブる。こんな目の色だったっけ、見つめ合うと男の人も何故か黙ってしまったから、私から声を掛けた。

「…………あの?」

 声をかけると、すぐに反応があった。

「あ、うん?」

 その声に、聞くことを決めた。否定されたら、すぐに謝ろうと思った。

「光先輩、ですよね?」

 白い肌は思い出通りじゃない。けど、青空の下で見た顔と重なった。声だって。少し間延びした話し方だって、記憶の中の彼のもの。

 なのに目の前の顔は、首を傾げた。

 そのリアクションに胸が痛む。それでも。

「……私、海です、海」

 言わなきゃ。

「私、探してたんですよ。ずっと、待ってたんですよ」

「へえ、待ってたあ?」

 その唇が弧を描いた。牙のような歯が見えた。そんな歯は、知らない。

「それって、処女のままってこと?」

 そんなことを言う人も、知らない。

「……最っ低」

 こんな人じゃなかった。私が探して求めてた先輩は、こんなことを言うタイプじゃない。そもそもこんな場にいるような人じゃないはずだ。そうであれ。

 私が間違っていた。

「人違いでした、すみません」

 胃の底から不快感が迫り上がってくる気がする。もう一回トイレに行こう。背を向けた私に、男の人は尚も話しかけてきた。

「ねえ、ここにはバイトで?」

 この人が会場内のお客さんだとしたら、否定した方がいいのだろうか。けど、先ほどの態度が少し腹立たしかった。

「そうですよ」

 振り向いた私に、彼は肩を竦めた。

「きみにはこういうバイト向いてないんじゃないかなあ?」

 いきなり失礼なことを。

「酔っ払いの一人もあしらえないんじゃ難しいと思うけど」

 聞いていて腹の奥からぐつぐつと沸き立つような感じを覚える。……違う、これ、胃だ。

 何か言い返そうと思って開いた口を手で覆う。だめだ、もう。これは危ない。

「……吐きそうです」

「ええ!?」

 すみません、吐きます。

 そう言えたかわからないけど、私の胃は容赦なく吐瀉物を吐き出して、ただでさえ色の白いその男の人の顔が更に白くなったことだけを覚えている。



 次に目を開けたら、知らない天井が目に入った。

 上半身を起こして周囲を確認する。間接照明に壁一面に並んだお酒。バーの店内のようだ。

「びっくりしたあ。目ぇ、覚めたね」

 見回したその後、すぐそばにいた男の人を見る。先ほど会場で会った先輩によく似た金髪の男の人は、何故か上半身が裸だった。すぐに自分の衣服を確認する。脱いだ形跡も、乱れた感じもない。再び彼を見る。

「あの……私……」

 人魚。

 間接照明に白く照らされて浮かび上がる細身の体。その体の鎖骨の下あたりに、長い髪を踊らせる人魚がいた。

「いいよいいよ。店の近くだったから、すぐに洗えたし、気にしないで」

 一体どういう意味なのだろう。

 彼はタトゥーが入っている腕で抱えていたものを広げた。広げてはたかれるそれは、先ほどより重い色になっている、彼が着ていた服だ。

「まさか……」

「海ちゃんにはついてない?」

 その言葉で事の次第を完全に理解した。血の気が引いたそのままに頭を下げる。

「ごめんなさい!」

「いいよいいよ。大したことない」

 やっぱりそうだ。そのリアクションで確信した。私が吐いたゲロが服についたんだ。

「それより、水飲む? 口ん中、気持ち悪くない?」

 彼は裸の上半身のまま、広げた服をカウンターの椅子にかけて、バーカウンターの内側に入った。あれ、待って。

「……海ちゃんって?」

 先ほどの彼の言葉を思い出して反芻した。寝ていたソファ席から立ち上がる。

「あの、名前」

 名乗った記憶はない。ねえ、知ってるって、ことは。私たちの間のカウンターテーブルは高い。

「やっぱり、光先輩ですか?」

 音を立てて、グラスがカウンターに置かれた。

「……とりあえず、飲みなよ」

 言われて一気に飲み干した。喉の奥の焦燥感と、口の中の不快感を腹の奥に流し込む。グラスを置くとやっと真っ直ぐに目があった。

「……久しぶりだねえ、海ちゃん」

「先輩」

 信じられなかった。

 私が知ってる先輩は、陽の光に愛されたように日焼けしていて、黒髪で、もっとちゃんとしている人だった。なのに目の前の先輩は金髪にシャツの隙間からはタトゥーが見えていて、前を歩いていたら絶対に避ける人種だ。

 関わり合いになりたくないタイプ。

 夜の生き物とあからさまにわかる、不健康なまでの白い肌。

「なんで」

 数年分のあらゆる疑問を詰めた三文字だった。先輩が答えたのは私のことだった。

「吐いて倒れたんだよ」

 それだけ酔ってたんだねえ、と流れるように言われて頭を押さえる。ここまでの記憶はない。ビルの中だろうバーの店内は、窓がないから何階かもわからない。

「ここ、先輩お店ですか?」

「うーん、まあそんな感じ。雇われだけどね」

 そうなんですか、と押し出したグラスを先輩が受け取る。

「雇われだけどね。さっきの飲み会はオーナーの代理」

 数年分の空白に、いきなり思っていたのと違うピースを突きつけられて、何から話せばいいのかわからない。

 黙る私に、先輩はまた水を入れたグラスを差し出してくれる。ソファー席とカウンターのあるバー。そこそこ広い店内で、存在感を放つそれが気になった。

「あれって」

「ああ、ビリヤード台?」

 本来客席を増やせるであろう面積を占めるのは、木製のビリヤード台。

「これは俺が置いてくれって頼んで置いてもらったの。いいでしょ?」

「はあ」

 良し悪しなんてわからない。ビリヤードはスポッチャくらいでしか経験がない。

 カウンターに立つ彼の、露わになった上半身の人魚と目が合う。

 タトゥーを入れてるような人、周りにいなかったから正直怖い。どうしてそんな人になってしまっているのか想像つかない。けどここまでの言動は、私にとってのヒーローのままだから困惑する。

「……あのバイトは、初めてだよね?」

「そうですけど」

「バイト、探してたりする?」

「そうです」

 大学入学と同時にバイトを始めた居酒屋は、つい先週潰れてしまった。先月の給料は、調子の悪かったパソコンの買い替えに使ってしまって、仕送りも遅れるわで非常に状況は切迫している。

 つい頭の中にクレカの利用履歴が浮かぶ私を横目に、ふむと頷いて顔を上げた。

「それだったらうちで働かない? ちょうど、人手、足りなかったんだよね」

 前職は? と聞かれて答えると、合格、と彼は笑った。その笑みに心が焦がされる。あの日と同じ細くなる目。

「よかったらどう? とりあえず日払いするよ」

 あそこほどの時給は出さないけどね、と言われながら提示された時給を計算すると、とりあえずの支払いには十分だった。



「で、今日からあの怪しいタトゥー兄ちゃんの店でバイトだと」

 泉に自販機で買ってもらった紙パックのジュースを受け取る。

「怪しい兄ちゃんっていうか」

 光先輩の風貌を思い出して言い淀む。

「まあ、そう」

 このジュースは、昨日のギャラのみが思ったより面倒な奴らだったお詫びだそうだ。スナイデルかGRLかわからないワンピを着る泉の首筋には、ティファニーのオープンハートが光っている。

「あの兄ちゃんが海が高校生ん時から言ってた先輩?」

 ずいぶん聞いてた感じと違うね、と言った泉の言葉に、ストローを突き刺して頷く。

「好きだった人との再会があれはウケる」

「何がウケるの?」

 音を立ててジュースを啜る私の顔を、覚えてないの? と泉が覗き込んだ。

「だって見事なマーライオン! あの人、見事にキャッチしてたね」

「え? キャッチ?」

 思わぬ言葉にストローを口から離した。

「あのタトゥーの兄ちゃん、あんたが吐き出したげろ、両手でキャッチしてたよ」

 嘘でしょ。そう言って再現のつもりなのか、両手をくっつけてお椀のような形にした。

 口を丸くする私に、まじだってと泉が言う。

「嘘じゃないって! まじで華麗なキャッチで」

 信じられない。先輩に向かって吐いた私にもキャッチしたなんて先輩にも。

 先輩から聞いて思っていた吐き方じゃなかった。頭が痛い。二日酔いじゃなかったのに。

 泉は言葉を続ける。

「それから駆けつけてきたスタッフさんと二、三言話して二人で消えていったから、気になってたよ」

「ええ、もう。そこ心配じゃないんだ」

 そこはそう言うところでしょ。私の口調に、泉は華奢な肩をすくめた。

「だって、それは番犬くんで足りてるでしょ」

「え?」

 ほら、と顎で指された方向から、こちらに向かってくる人影が見えて、それがだんだんと見知ったシルエットに変わっていく。

「忠犬の方が近いかな?」

 そんなんじゃないんだけど。私たちの前でナイキの靴を履いた足が立ち止まった。

「海さん!」

「竜太郎くん」

 私が返事をすると、スポーツマンらしい筋肉質な体に不似合いな人懐っこい笑みで答えた。

「泉先輩も、おはようございます」

 おはよ、と泉が短く返事をした。それからチラリと私を見る。その目は何よ。何も言わなくなった泉に代わるように、竜太郎くんが私に向かって話し出した。

「海さん、この前バイト探してるって言ってたじゃないっすか。あれ、どうなりました?」

 ああ、と濁した相槌を打つ。そういえば彼にもバイト先が閉店になることを話していたっけ。なんて言おうか。

「俺んところのバ先が、経験者なら大歓迎って言ってくれて……」

「それなら海はもう、新しいバイト見つけたって」

 竜太郎くんの言葉を遮って、泉が話し出した。

「なんか知り合いのタトゥーの兄ちゃんのバーだって」

「ちょっと泉!」

 口を塞ごうとしたが遅かった。竜太郎くんが訝しげに片方の眉を吊り上げている。

「それ、大丈夫っすか。変なバイトとかじゃないっすか」

「大丈夫大丈夫。中学の時の先輩だから」

 竜太郎くんの顔の怪訝そうな色は変わらない。あんまりこの話題をしたくない。竜太郎くんは今の光先輩と相性が悪いだろうから。 

「えー、けど、心配じゃない?」

「やめてよ」

 泉の言葉を制して、ちらりと竜太郎くんを伺う。そうっすね、と顎に手を当てて目を伏せる姿に、慌てて話題を変えようとする。この空気にした犯人が立ち上がった。

「じゃ、あたし予定あるし行くね。じゃあね」

 揺れるワンピースの裾に合わせて、泉の影が踊った。メゾンキツネのバッグを肩にかける泉の姿が見えなくなって、竜太郎くんが口を開いた。

「新しいバ先、ほんと大丈夫なんすか」

「ほんと大丈夫だって!」

 そうっすか、と言って竜太郎くんは黙ってしまう。早くこの話題を変えたかった。なのにマーライオンのせいで話題は思いつかなくて、結局先に口を開いたのは竜太郎くんだった。

「今日のサークル、どこでしたっけ」

「記念公園のフットサルコートだよ」

 私が答えると、あそこっすか、と欠伸をした。

「通り沿いに見られるから好きじゃないんすよねえ」

 言いながら二人で歩き出した。そう言いながら、始まったらすぐに夢中になるのだろう。高校の頃から知っている。マネージャーをしていたサッカー部の新入生だった彼は、嫌なことがあってもグラウンドに出れば真っ直ぐにボールに向かう。私はその姿に、何度も先輩の姿をダブらせたのだから。



 十八時半頃に店に繋がる階段を登っていると、踊り場に高い声が響き渡った。

「じゃあまたね、こうちゃん!」

 それから扉が強く閉められる音がして、女性が降りてきた。階段の手摺りに引っ付いて存在側を消すと、案の定彼女は私を気にも留めなかった。禿げたヒールの金属音が遠ざかっていくのを聞いて、先ほど閉められたであろう扉の前に立った。

 扉にかかるプレートにはCLOSEの文字。よく見ると最後にボールペンで、Rと書かれている。CLOSER(抑え投手)? ふにゃふにゃの字に、落書きだろうと視線を外してドアノブに手をかけると、内側から扉が開いた。

「ラインしてねえ」

 鼻につく高い声とともに現れた女の人とは目が合わなかった。ケープの匂いのする髪を上下に揺らして階下に消えて行った。

 なんで開店前に女の人が。邪推してすぐやめる。ドアノブを引くと、抵抗なく扉は開いた。

「おー、早いねえ」

 カウンターでスマホを見ながら煙草を吸っていた。その顔はただの笑顔で、隠すことも暴くこともなさそうだった。

「おはよー」

 そう言って一つ吸い込むと、口を離して灰皿に押し潰した。

「おはようございます」

 店の中で時間を知る唯一の手段である壁掛け時計は、開店三十分前を示している。

 私は店内の隅に掃除用具を見付けてとりあえず客席の床を掃除する。

「喫煙って条例違反じゃないんですか?」

「今は開店前だからセーフなの」

「そうなんですか」

 床に落ちていた長い髪の毛を拾い取る。感じた鬱は髪の毛以上に重い。先ほどの女の人の横顔を思い出す。

「なんでこうちゃん、って呼ばれてるんですか?」

「あ、聞いてたの?」 

「聞こえたんです」 

「なんか呼び間違えられて、ずっとそのまま」

 目を伏せてから、しつこく押し潰していた煙草から手を離した。ふう、と吐いた息はもう白くない。

「訂正しないんですか」

「いいよいいよ、面倒くさいからねえ」

 そんなこと言う人じゃなかった。彼はコートの中でも人間関係を大切にする人だったのに。

 静かな店内にラインの着信音が響き渡る。自分のスマホを確認したが、彼のスマホだったらしい。

「布巾ここにあるから。よろしくね、海ちゃん

 そう言い残すと、スマホを耳に当てた。わざわざ店の外で話すのか。扉を出る寸前、スピーカーで女の人の声が聞こえた。こんな人じゃなかったのに。



 客層は予想に反して悪くなかった。タトゥーだらけの悪いお兄ちゃんたちの溜まり場かと思いきや、女性客が多かった。それ目当てだろう若い男性客たちのマナーも悪くない。

「こうちゃん、ビリヤード教えてえ」

 カウンターにそう言いにきた女性の谷間には、ステラマッカートニーのロゴストラップが食い込んでいる。

 店内に流れる洋楽のBGMはそんなに大きくないのに、わざとらしく顔を近付ける。強調された胸元は、むしろビリヤードの上達には邪魔だろうに、あからさまだ。

「いいよいいよ」

 光先輩はグラスを置いて、カウンターから出ていく。

「手取り足取り教えてあげちゃう」

 ビリヤード台でキューを持つと、女性に密着して教え始めた。

 うわ、見たくない。

 友だちだろう女の子たちも交代で教えを求めて、そこで集まる女の子たち目当てに男性客が酒を持って近づいて行く。光先輩はしばらくその二つの輪を取り持つように話すと、しばらくしてカウンターに戻ってきた。

「ビリヤードっていいよねえ」

 先ほど寄りかかってきた女性は今度はツーブロックの男の人にくっついていて、男女のグループは打ち解けたようだった。

「サッカー、もうしてないんですか」

 あの頃と違う色の白い肌が答えだとはわかっていたけど、一縷の希望を持って質問した。

「やめたよ」呆気なく言われる。「全部ね」

 高校でサッカー部のマネージャーになったのも、大学でフットサルサークルに入ったのも、全部、全部、突然いなくなった先輩に会うためだったのに。

「先輩、そんな男の人でしたっけ」

 つい言ってしまった。

「そんなって?」

 言ってて勝手だ。期待で糊付けしたラベル付け。嫌になるけど、今の先輩のことはもっと嫌だから言ってしまった。

「……チャラくて、女ったらしな」

 ねえ、そんな人じゃなかったでしょ。

 言外の意味に気が付いた様子もなく、ははっと笑うだけだった。

「今の俺には褒め言葉だよ」

 答えて冷蔵庫からカフェパリのボトルを取り出した。カウンターに戻ってきたのはドリンクを取りに来たらしい。

「ごめん、シャンパングラス四脚持ってきてくれる?」

「あ、はい」

 ビリヤード台の傍で、カフェパリのボトルが音を立てて開く。シャンパングラス中で立ち昇る泡の中で、先輩の姿が弾けた。

 


 それからお客さんたちは日付を超えてだんだんと減っていき、お客さんがいなくなった頃、帰っていいよと先輩は言った。

「あ、けど片付けとか」

 まだやることありますか。

 いきなり夜の終わりを告げられて、この感情に行き場がない。

「えー、いいよいいよ。帰んなよ」

「けど私」

 先輩と話したい。そうしたら、変わった理由がわかるかもしれないから。

 そこまで言えない私のポケットで、ラインの着信音が鳴った。帰っていい、と言われてオフにしたマナーモード。スマホは呼びかけに素直に震えてる。

「出たら?」

 ポケットから取り出したスマホの画面には、竜太郎くんの名前が表示されていた。

 もしもし、と電話に出ると、俺です、と昼間に聞いた声が聞こえた。

「さっきバイト終わったんすけど、先輩はどうっすか?」

 えっと、と答えようとすると、カウンターの中の光先輩はやけにはっきりと声を出してきた。

「お疲れさまー、早く帰んなよー」

 近くなのにわざとらしく言われた大きな声を、アイフォンのスピーカーはしっかりと拾う。

「今のがお店の人っすか?」

 竜太郎くんにも聞こえていたらしい。あ、うん、そう、と頷く。

「じゃあ、俺迎えに行きますよ、一本違う通りでしたよね」

「いいよそんなの」

「いいって言いましたね」

 なんて便利な言葉だ。ノーにもイエスにも取れる。これ以上やり取りをするのも気が引けて、なんとなく場所を伝えて電話を切ると、光先輩ははこっちを見ていた。

「やっぱそういう人、いるんだねえ」

「今のは大学の後輩で、同じサークルの子です。高校から一緒だから仲がいいだけで……」

「ふーん、そう。夜中に迎えに来るぐらい仲がいいんだねえ」

 含意ある言い方をする。なら先輩が送ってくれたらいいのに。どうして愛情のような欠片もくれないんだろうか。かつて私はあなたを見て眩しいほどに感じていたのに。

「どんな犬だって祖先は狼だよ。気をつけて帰ってね」

 そんなこと言ったら猫は虎だし人は猿だ。火ともに覚えた理性っていうものを軽んじるにもほどがある。



 ビルを降りると、小さい折りたたみ自転車を押しながら歩く竜太郎くんの姿が見えた。

 私を見つけると駆け寄ってきて、自転車の音が嬌声のように聞こえた。

「お疲れさまです」

「お疲れさま」

 わざわざごめんね、と言うと、近くなんで、と言われる。竜太郎くんの下宿してるアパートと、私の住んでいる大学の女子寮は目と鼻の先の距離だ。

 まだ夜にしけこみに行く人たちとすれ違いながら、私たちは街灯とネオンが作る影を踏んで行く。

「新しいバ先、どんな感じっすか」

「え? ああ、まあ」

 先輩のことを言うのはやめておく。

「結構気楽だったよ」

 私が答えると、そうっすか、と竜太郎くんは頷いた。

「よかったです。心配してました」

 そういう言葉を、私は先輩に言われたかった。

 歩いて行くにつれ、だんだんと街灯が減って行く。時間は朝に向かっているのに、進むほどに暗くなる道に、もう影は見えない。



 その日から学校が終われば、バーでのアルバイトに通った。午前二時ラストオーダー。午前二時半閉店。先輩も、三時には片付けを終えて帰るらしい。

「本当はお客さんがいるなら朝までやるべきなんだろうけどねえ、めんどくさいから」

 そう言いながら、照明が透けるテイスティンググラスを持ち上げた。

「これ? ジンだよ。透明なものしか飲まないの、俺」

 そう言ってテイスティンググラスでちびちびとドリンクを飲んでいた。私の中では中学生のままだったから、その姿に違和感がある。蛇口を上に向けて飲んでいたものの色は変わらないのに。

 店内のBGMが耳に入って、ふとグラスを洗う手を止めた。少し重いピアノの音で始まったその曲は、呼びかけるような英語から始まって、静かに男性が歌い出した。ポップな洋楽ばかりが聴こえる店内で、その洋楽だけがメロウだった。

 手を止めたままの私に、隣でドリンクを作りながら先輩が言った。

「いい曲でしょ?」

 素直に認めるのも癪だ。なんて曲ですか、と聞く。男性の歌声が、語りかけるような女性の歌声に変わる。

「なんて曲ですか」

「んー、忘れちゃったあ」

 そう答えて、先輩はカウンターのお客さんにドリンクを出した。私も再び手元を動かす。

 忘れっぽい男なんて、ろくなもんじゃない。グラスを一つ洗い終えるとその曲は終わっていた。踊らせるための低音ばかりが響く店内で、その曲の余韻がいつまでも耳に残った。



 親からの仕送りも復活して、バーのバイト代も十二分で、生活は十二分に余裕ができた。ネイルを陽に透かす。

 目標残高で超えた引き落とし日が住んでも、バイトは辞められなかった。

 フットサルコートで試合を終えて、ビブスが入っているバスケットを足元に置いたまま虹色に光るオーロラパーツを見ていると私服姿の竜太郎くんが駆け寄ってきた。

「俺持ちますよ」

 じゃあお言葉に甘えて、と竜太郎くんに荷物を持ってもらう。

 自転車のハンドルにバスケットの取っ手を引っ掛けて並んで歩き出してしばらくしてから、竜太郎くんが言った。

「まだ、あのバイト続けてるんですか?」

「ああ、うん」

 その言い方は、やっぱり私の働くバーのイメージが良くないのだろう。最初にタトゥーだなんだと聞かれたのが悪かった。

「俺んとこのバイト、人手、足りないんすよ」

 力になってあげたい気持ちはある。けどその言葉が、本当に助けを求めてる言葉なのかわからなかった。伸ばされただけの手じゃ、助けてくるつもりなのか救いを求めてるのかよくわからない。

「うーん」

 バスケットの影の歩幅分、考える素振りをする。

「ごめんね」

「ま、考えてくれたら嬉しいっす」

 何を考えるべきと言うのだろう。時間が経てば人は変わると信じるタイプの言葉は、私には響かなかった。



「わっ!」

 扉を開けると、彼は煙の燻る煙草を咥えながら、ズボンの金具を鳴らしていた。彼のすぐ傍のビリヤード台の上にお尻を置いている女性は衣服が乱れていて、床に落ちたキャビアスキンのバッグからコンドームの箱が見えている。

「ごめん、大丈夫だから」

 何が大丈夫だというのだろう。そう言われたから立ち去ることも立ち入ることもできなくなってしまって、所在なく足元を見つめるしかできない。

 女性は乱れた衣服を直してバッグを拾った。

「またね、こうちゃん」

 それから私の爪先から頭の先までスキャンして、目の前を通り過ぎて出て行った。甘ったるい匂いに、思わず鼻に皺を寄せる。

「彼女ですか?」

「違うよ」

 それ以上言ってよ。ねえ、腕に描かれたその模様を、さっきの女になぞらせていたの。

「何してたんですか」

 言えば積年の思いに火がついた。だってずっと燻っていた。

「今も、今までも! 何してたんですか!」

 先輩は黙って私の叫び声を聞いている。

「ずっと好きだったのに! やっと再会できたと思ったら変わっちゃってて!」

 約束だって覚えてないんでしょう。私はずっと覚えてたのに。

 あなたはあの頃と違う生き物だから、きっと《《今まで》》の中に生きていた私のことなんて気にしてなかったでしょう。

「最低最悪! 先輩なんて」

 先輩なんて。光先輩なんて。

 叫ぼうとしてその続きが言えなかった。夜の中で正しく彼の名を呼べるのは私だけなのに。

 吸い込んだ息を吐けない。掲げた拳を振るえない。

「……すこし落ち着いた?」

 先輩はカウンターの中に入って、涼しい顔をしている。

「叫ぶと喉痛いでしょ」

 聞いた方は耳が痛いでしょう。心を痛めさせるために叫んだのに。無傷みたいな顔をされているのが辛い。震えてるのは私だけだ。

「カシスとピーチ、どっちが好き?」

「え?」

 突然聞かれて顔を上げると、お酒が並ぶ棚から、色違いのルジェのボトルを両手で見せるように持っていた。

 思わぬ質問に答えは口から漏れた。

「……どっちかって言えば、ピーチです」

「わかった、ピーチね」

 そう言うと、いつも使っているテイスティンググラスにピーチのラベルのルジェを注ぐ。

 飲む気分じゃないんだけど、と思ってると、光先輩はそのグラスを自分で飲み干して、私の手首を引いた。

 唇が重なってる。あの日見てただけの、蛇口の水を飲む唇。

 割って入ってきた舌は、ピーチの味なんかじゃなかった。最悪のシチュエーションでのキスに冷静になった。

「……色付きのお酒は、飲まないんじゃなかったでしたっけ」

「だめ?」

 いいよいいよが口癖で、人のことは簡単に許すくせに、どうしてここでいつもの口癖を言わないの。

 飲み込んだ唾液にほんの少しピーチの味がした気がする。

「しょうがないですね」

 だから私が許しを与えるしかなかった。

「いいですよ」


 お客さんがいない時間は、二人で同じ味を分かち合うようになった。

 ルジェのピーチが減った分が私たちの時間だ。

 甘くなくっていい、と言ったのに彼はいつも飲んでからじゃないとキスをしてくれない。

「今度は私から、いいですか」

 テイスティンググラスに触れると、こうさんは薄く笑った。

「よかろう」

 光先輩は笑うと八重歯が見える。あの頃は知らなかった。歯はどれも尖って見えて、まるで吸血鬼みたいだ。

「私、先輩と外でも会いたいし、もっと話したいんです」

「それはだめ」

 さっきと同じこと、言ってくれないんだ。

 いつだって二人きりの時は唇を塞ぐばかりで、大事なことは話してくれない。

 ハイブリーチで傷んでる髪の毛はふわふわで、月と同じ色。その感触は知ったのに、服の下タトゥーのすべてを知らない。

 店の扉の前から聞こえた話し声と足音に体を慌てて離して、その日はそれきりルジェのピーチのボトルは開かなかった。



「結婚してるんじゃない!?」

 いっそう高い声になった泉に首を振る。

「え、一個上だよ? そんなわけなくない?」

 中学で突然いなくなって以降のことを知らないが、先輩は本来なら大学三年生だ。早すぎるでしょ。

 そうかな、と言った泉の首筋に、今日は金色のV字のネックレスが光っている。

 考えなかったわけじゃない。けど会えば、その場の彼がすべてだった。だからそれ以外の場所にいる彼に思いを馳せないようにしていた。

「そんな、こと」

 指先のネイルが一本剥がれていることに気が付く。大きめのパーツはお気に入りだった。どこで落ちたんだろう。指先を見ていると私の前に影が落ちてきて顔を上げた。

「海さん、泉先輩。おはざっす」

 おはよう、と泉が上げた手から、ハンドクリームの匂いがした。

「おはよう」

 私も返事をすると、どうしたんすか、と顔を窺ってくる。

「海が好きなバーテンの人、昼は会ってくれないんだって」

 竜太郎くんに泉が説明すると、その顔が歪んだ。

「なんすかそいつ」

「そいつって言わないでよ」

 私が顔を上げると、竜太郎くんは目を逸らした。何も知らないくせに。彼を知った後の私しか知らないくせに。

「……じゃあ、土日の昼間に遊びに誘えばいいじゃないっすか」

「え?」

 聞き返した私に、竜太郎くんは後ろ手で髪を掻く。

「黒なら応えないでしょうし、白なら来てくれるでしょ」

「ドベタ過ぎて一周回って思い付かんかった」

 泉の言葉に頷くと、竜太郎くんが言った。

「まあビーリアルとジャガット入れてないやつって何してるかわからないし誘えないっすよね」

 私たちは、知らないものを愛せない。少し前はゼンリーだったし、いつでも位置情報はオンで共有されている。

「ライン送ってみる」

 ラインの友だちリストのお気に入り開く。鳥の絵文字だけの、こうさんのアカウント名。ラインの登録名が本名じゃない男なんて、ろくな男じゃない。

 シフトの連絡なんていらないよ、と言うから、未だにトーク画面はなにもない。いつもあれだけ触ってるスマホは、誰とやり取りをしてるんだろう。

「いいの?」

「なにがっすか」

 話し始めた二人の会話は、心臓の鼓動のせいで聞こえない。メッセージを打ち終えて送信した時には、もうそこには竜太郎くんしかいなかった。

「行きましょ、先輩。今日はスポーツセンター集合っすよ」


 それからずっとスマホを気にしていたけど、光先輩からの返事はなくて、やっと開店寸前で現れた先輩は、片頬を真っ赤にしていた。薄暗い照明の下でもわかる赤みは、叩かれたか、ともすれば焼かれたようだ。

 私と目が合うと、光先輩の口角が上がった。

「あ、これ?」

 笑って自分の赤い頬を指差した。

「女の子に叩かれちゃったの」

「先輩がひどいことしたんじゃないですか」

 私と先輩の関係がわからないから怒り方がわからない。叩かせた男にも原因はあるだろう。

「ひどい人ですね」

 だって女は無意味に手のひらを痛めたりしない。

「ひどい男は嫌い?」

 嫌いに決まってる。なのに。

「それは」

 心から言葉を逃せない。

 変わってしまった。

 なのにどうして、私はまだこの男を諦めきれないのだろう。希望を持ってしまうのだろう。

「ライン、見てくれました?」

「ごめんごめん、返信忘れてたあ」

 女に叩かれる時間はあるのにか。

「昼は無理。海ちゃんとは、夜しか会えない」

 そうはっきりと言われてやっと、火のついた怒りに足が動いた。

「今日は帰ります!」

 入ってきたばかりの扉を開いて店から飛び出す。追いかけてきてくれなかった。彼は私と、星空の下にすら出てきてくれやしない。

 スマホの通知音量を最大にして眠りについたのに、そのままアラーム音まで起きなかった。



 ストレッチが終わって、他のメンバーが試合をしてるコートの脇で、竜太郎くんが私に言った。

「どうだったんすか、あの話」

「……竜太郎くんには関係ないじゃん」

「はあ? そんな言い方あります?」

 私の言葉に、竜太郎くんは露骨に顔を顰めた。

「ごめん」

「……意見を出したのは俺だから、聞きたかっただけなんすけど」

 そうだよね、ごめんね。ともう一度頭を下げる。

「だめだった。昼間は会えないって」

「黒じゃないっすか」

 ベンチに座ったまま、空を見上げて竜太郎くんに言う。日焼けした肌の竜太郎くんは青空が似合う。

「……黒でもいい」

 だって夜の色だから。一緒に過ごせる時間の空は、いつも闇の色だから。

 照らされないならちょうどいい。きっと、暴いたらいけないのだ。



 開店前に開いた扉と現れる私に、煙草を咥えていた光る先輩は驚いた顔をした。最近は開店前に煙草も吸ってなかったのに。

「おはようございます」

 普段通りの挨拶は、精一杯の強がりだ。なのに挨拶を返してくれやしなかった。

「来ると思わなかった」

 光先輩は煙を吐き出して、煙草を灰皿に押し付けた。

「辞めていいんだよ」

 いきなりなんてこと言うんだろう。矢みたいに言葉を放っておいて、的になった私の顔を見てくれない。

「辞めません」

「辞めなって。きみに夜は似合わない」

 夜行性の生き物以外に、夜が似合うも似合わないものあるわけない。どんな爪の生き物なら、夜が似合うと言うの。

「先輩が連れてきたんじゃないですか」

 私を夜に連れてきたのは先輩だ。

「私、ずっと会いたかったんですよ」

 好きだった。言えなかった気持ちを時間の波に流されないよう、ずっと守って抱えてた。

「わかった、ごめんね」

「なんにもわかってない」

 わかってるよ、と言った先輩は、今度は私の顔を見ていた。

「わかってる。けどごめん、何も言えない」

 ただ。そう続けた。

「俺、きみと明るい場所を歩けないよ」

 タトゥーだらけで、仕事はバーテン。確かに日の当たるような人じゃない。隠されている本心を聞きたいのに、肝心なことはいつも話してくれない。

「構いません」

 それでもいい。

「昼間は会えないよ、それでもいいの?」

 誰と眠っているのか、どこで眠ってるのかなんて知らない。

「構いません」

 暗い夜が泥沼でも構わない。連れてこられた夜の中で、あなたは白く光っていて見付けやすい。その日ルジェのピーチのボトルが空になった。



 控えめに開いた扉から覗いたのが、見知った顔だったから驚いた。

「泉」

 名前を呼ぶと扉が開かれて、ワンピース姿の泉と、その後ろから竜太郎くんも入ってきた。

「お疲れさまっす」

 バイトはないと言っていたけれど、遊びに来るとは思わなかった。驚きながら二人をカウンターに案内する。こうさんはトイレに行っている。

「遊びに来たよ」

 泉が手を振ってそれから、私に耳打ちをした。

「海が心配なんだって」

 そう囁かれて竜太郎くんを見ると、落ち着かない様子で店内を見ている。普段居酒屋かダーツにしてもスポッチャくらいなはずなので、ビルの中のひっそりとしたバーには慣れないのだろう。

「お友だち?」

 トイレから戻ってきたこうさんがカウンターの私たちに話しかけた。最近トイレが多くて、様子を窺うと吐いている。飲み過ぎだ。

「おんなじ大学なのかな? 美人さんだねえ」

 色の白い顔に、笑うと尖った歯がよく見える。

 オフショルダーのワンピを着た泉の肩が揺れて、首筋のヴァンクリのネックレスが光った。

「いつも海から聞いてます、お世話になってまーす!」

 サービスするよ、と言って光先輩はお酒の並ぶ棚を見せるよう手を広げた。

「なにがいい? きみも」

 視線を受けて、竜太郎くんが小さく頭を下げる。そんな竜太郎くんに光先輩は笑いかけた。

 竜太郎くんどんな人にも本能を礼儀と愛嬌で隠すから好かれるのに、今日はそんな顔をしてなかった。どもっす、と赤べこのように揺れて置いて、目元は鋭い。

 四人で乾杯すると、ビリヤード台にいる女の子たちがこうさんを呼んだ。

「はーい! ちょっと行ってくるね、ゆっくりしてってねえ」

 光先輩がカウンターから出て行って、泉が小声で私に言った。

「あれはダメな男だね」

「話してないのに?」

「ビジュでわかる」

 泉が笑った。

「顔で育ちはわかるし話せば合うかわかる。ビジュがすべてじゃん?」

 確かにそうだ。私たちは可視化できるものしか愛せない。

 ベーリアルで可視化されるリアルタイムと、ジャガットの位置情報。インスタのビジュ。目に見える情報が愛の全てだ。

 ビリヤード台にいる光先輩が、飲み過ぎだよ、と言ってボムグラスを女の子の手が届かないように掲げていた。女の子は嬉しそうに手を伸ばしながら胸を押し付けている。見たくなくて顔を背けた。

 しばらく三人で話してると、光先輩はこちらに戻ってきた。私と泉の会話に混ざって、テイスティンググラスに口をつける光先輩に突っかかったのは、竜太郎くんだった。

「何飲んでるんすか?」

「サウザだよ」

 今日はジンじゃないんだ。答えた光先輩に竜太郎くんが言った。

「同じのください」

「えー? 本当に?」

 やめた方がいいんじゃない? そう笑った光先輩のコップを、上半身を乗り出した竜太郎くんが奪った。

「こら!」

 泉が服を引っ張ったが遅かった。竜太郎くんはテイスティンググラスの中身を一気に飲み干してしまう。

「…………は?」

 空になったグラスを見て、顔を顰めた。それから光先輩を見た。

「きみ、強引だねぇ」

 ちょっと来てよ、と光先輩は言った。

「え、あの」

「すぐ戻ってくるから」

 店の扉の前を示す光先輩に、竜太郎くんは素直に立ち上がった。竜太郎くんが開いた扉を押さえて、どうぞ、と光先輩に言った。

「俺、男の先には出ない主義なの。刺されたら痛いからねぇ」

 冗談みたいな言葉に、竜太郎くんは笑わない。

「そうっすか」

 竜太郎くんが先に出て、それから光先輩も扉の外に出た。いつも自分で扉を引いて、先に通る。けど、私が通るときには扉を押さえててくれる先輩の姿が、外に消える。

「ヤバい感じじゃない?」

 さすがの泉も笑えないようだ。どうしようかと思ってると、カウンターの私に声が飛び込んできた。

「クライナーくださあーい!」

「あっ、はーい」

 待っててね、行ってくると泉に言うしかなかった。女子グループにお酒を届けてそれからカウンターを見ると、光先輩と竜太郎くんは戻って来ていた。

 自分のグラスに口をつける竜太郎くんを見て、隣に立つ光先輩を見上げる。

「何話してたんですか?」

「これは男同士の秘密」

 はぐらかして教えてくれない。ただ、洋楽の低音が響く店内で、その声は私にしか聞こえなかった。

「ねえ、きみには、本当は、ああいう男の方が似合うんだよね」

 いきなり何を言うのかと思った。

 似合うとか似合わないとか、ブルベイエベ以外でそんなの聞きたくない。どうしてみんな、鏡の中の自分よりスマホの他人を信じるんだろう。

 隣にいる人の言葉も、信じたくないのに。

 いつまでも浮かない顔の竜太郎くんに泉もしらけて、その一杯きりで二人は帰ってしまった。



 日付を超えてお客さんがいなくなってしばらくしてから、閉めようかな、と先輩が言った。

「送っていくよ」

 ずっと言われたい言葉だった。けど今は、喜びよりも心配が勝った。

「え、お店は」

 閉店にはだいぶ早いし、突然の誘いは竜太郎くんに何を言われたのかと心配になる。

 先輩が隣にいる私の顔を見下ろした。白い頬は痩せた気がする。シャツの隙間からタトゥーが見える。

「夜のうちだから、一緒に歩きたい」

 ああ本当に、明るい時間は一緒には歩いてくれないんだな。引っかかる物言いだった。けど、それでも嬉しさが滲む。

 閉店作業もそこそこに、扉に鍵をかけた。初めて二人並んで天井のない場所にいる。薄い月明かりは店より明るい。

 ついていくように歩いた。送っていくよ、と言っていたのに家の方向じゃないし、場所だって聞いてくれてない。それでも何も言わなかった。どこに行っても後悔しない夜は滅多にないから。

 普段は歩かないシャッターの降りた商店街で、私が先に気が付いて足を止めた。

「あ、可愛い」

 見付けたのはアクセサリーの路上販売だった。広げられた敷物の上に帽子を被ったお兄ちゃんが座っている。私の声が聞こえたようで、いらっしゃい、と手を広げて鴨とネギを迎えてくれた。

「一個千円だよ」

 トレーの上には銀色の指輪が並んでいる。いろんなデザインの指輪を見たくてしゃがみ込む。

「可愛い」

 気に入った指輪を手に取って眺めていると、すぐ後ろに先輩が立った。

「これくれるかなあ?」

 そう言いながら帽子のお兄ちゃんに千円札を手渡した。先輩、と言おうとして遮られる。

「そこの指に、綺麗にハマるね」

 指輪をはめると、少し大きかった。それでもストーンの取れた指にその指輪は馴染んだ。帽子のお兄ちゃんにお礼を言って再び歩き出す。

「なんか急に優しくないですか?」

「なんでだろ」先輩はポツリと言った。「あの凶犬くんのせいかなあ」

 本当の感情をぶつけない彼の方が一番人間らしいのに、彼をみんな犬呼ばわりだ。

 指輪を着けた手が握られた。

 色白の手とは思えない体温に口元が緩んだ。骨ばっている手の甲にはタトゥーがある。

 全部全部、夜に溶ければいい。全部ひとつになって、見えなくなればいい。

 しばらく歩いていると、ふいに目の前に男の人たちが立った。キャッチにしては不穏だ。

 ホスト然としたスーツの男の人たちの中から、一人が私たちに声をかけるように前に出た。

「おい」

 長い前髪に、片目しか見えない男の人だった。

「お前俺の女とヤっただろ」

 重たい沈黙の後。光先輩の口が開いた。参ったなあ、と動いた口の中に、赤い歯茎と、尖った八重歯が見える。

「やっぱ俺に、幸せになる資格はないかあ」

 その顔は、今まで見たどんな顔とも違っていた。

 どんな悪役に絡まれても、私は先輩がいれば幸せだから、手を離す気はなかった。なのに、それはまるで別れの言葉だった。先輩は片目の男に向き直った。

「先輩?」

 無視して帰りましょうよ、と言おうとした。金髪にタトゥーの男なんて、星の数ほどいるから、人違いで通じるだろうと。

「あの子の彼氏かなあ?」

 なのに、先輩は動かなかった。正面の片目の男に牙を見せた。

「あの子ね、痩せすぎじゃない? いれててもスカスカだったよ」

 笑いに揺れた肩に、鎖骨の下の人魚が揺れた。

 まだ肌の下のタトゥーに触れたことがない私に、その生々しい言葉は致命傷だった。

「最低!」

 今までどんな夜を超えていたとしても、そのせいでどれだけボロボロになったとしても。言葉で事実にされなきゃ、その手を離さなかったのに。

 言葉を投げつけて走り出した。男の人たちは笑うだけで、私を追いかけてはこないようだった。

 じゃあね、と言う声はあまりに呑気だった。


 震えるままに走った。

 今度こそ先輩なんて知らない。もう夜は終わりだ。

 朝に向かって駆け抜ける。だんだんと色濃くなる影を踏む。振り向かないで走り続けて、足がもつれて転んだ。

 もうアスファルトの色は夜と同じじゃない。地面に手をついた指から指輪が抜けた。そのまま転がる指輪は、私の視線の先で側溝に落ちる。

「あ……」

 腰を上げ切らないまま、指輪が消えた側溝を覗き込む。買ったばかりの、お気に入りのデザインの指輪は見えない。

 側溝の中は暗くて、もう見えない。

 先輩に買ってもらった指輪。

 戻らなきゃ。見えなくなったそれに、戻らなきゃ、と思った。

 今なら先輩のところに戻れる。

 数年間会えなかった。変わってしまった、なんで変わったかも、何も知らないのに。

 なんで変わったかも知らないのに。

 知らないままでも繋がった手のひらは優しかった。アスファルトの感触を最後に確かめて、立ち上がって来た道を戻り走り出す。


 人の姿が見え出した商店街で、露店のお兄さんは立ち上がって先ほど敷いていたシートを畳んでいた。

「さっきの男の人たちって!?」

 息を切らせた私に、あっちの方に行ったよ、と指を差して教えてくれる。

「ありがとうございます!」

 駆け出して探した。だんだんと空が白んできている。光は道を照らしてくれる。

 あの金髪とタトゥーを隠す体は、朝の空気の中ですぐに見つかるはずだ。そう思って名前を呼びながら通りを探すのに、なかなか姿は見つけられなかった。

 どこかに連れてかれたんじゃないか。

 いまさら最悪を想像して、足が動かなくなったその時、ビルの合間の狭い路地に、光先輩の姿を見つけた。

「光先輩!」

 暗い日陰でゴミ袋の上にその体は倒れていた。

「いいよいいよ、来ないでよ」

 私の声に返事はするのに、体を動かさない先輩に駆け寄ろうとする。殴られたりしてボロボロだろう。なのに口調は変わらない。

「大丈夫だから」

 助けを求めてほしい。手を伸ばしてほしい。

「嫌です」

 送ってくれるって言ってくれた夜に、一人で帰れるわけがない。

 歩み寄ると、深い溜息が聞こえた。先輩の傍に寄ると、口の端から血が滲んでいたし、目元は紫になっていた。

「頼むから」

 隙間に日差しが差し込んでくる。

「俺を見ないで」

 その途端、光先輩の頬が、赤く染まった。まるで太陽の光に灼かれるように。

 その瞬間背を向けて丸くなった姿は、さきほど痛みに動けなくなっていた体とは思えない。聞こえた声は獣の唸り声のようで、それが先輩の喉から発せられたことにしばらく気付かなかった。

「嫌ってよ。さっきので、嫌ってよ。どうして」

 陽の光から逃げるように、ゴミ袋の影に隠れた。

「見られたくなかった、知られたくなかった」

 先輩?

 こっちを向いてくれない。何が起きたかわからない。

「あの頃、きみにこんな姿を知られたくなくて離れたのに」

 路地裏に差し込んだ光を厭うその姿は、人間らしくない。

「どういうことなんですか」

 何も意味がわからない。ちらばるゴミに構わずしゃがみ込んで、先輩の顔を覗き込む。さきほど陽の光に照らされた肌が、爛れたように赤くなっていた。明るい場所で見ると、その赤みは女に叩かれたなんて甘い言葉では誤魔化せるものではない。

「きみと虹を見られない」

 その言葉は、あの日の約束を覚えてくれていたという嬉しい告白のはずなのに、まるで懺悔みたいだった。

「陽の光の下は歩けない」

 日陰に落とされるその嘆きに返事をするには、私はなにも知らなすぎた。

「日光過敏なんだ」

 そのあと先輩は病名らしいカタカナの言葉とアルファベットを言ったけれど、頭の中で単語として繋がらなかった。なに、それ。

「吸血鬼病なんて言われてる」

 笑っちゃうよね、と言った先輩の表情は腕に隠されたせいで見えなかった。朝日がカーテンのように、私たちを分けた。



 その夜バーに行くと、扉の前には知らないおじさんがいた。

「あ、きみが光くんが言ってたバイトの子?」

 私以外が呼ぶ、夜に聞こえた彼の正しい名前に少し驚いた。このおじさんとは《《正しい》》関係だったのだろうか。

「まだ病院から帰れそうにないから、しばらく臨時休業するよ」

 悪いね、と言っておじさんは扉に臨時休業と書かれた紙を貼る。大丈夫? と聞いてくれたのはお金の心配だと思う。

「大丈夫じゃないので、病室教えてください」

「え?」

 それからおじさんは、閉店中に飾られていたプレートを見て笑った。

「R? あの子らしいねえ」

 CLOSE。書き足されたRは、先輩の文字らしい。



 朝イチで病院に行こうと思っていた。家を出たところで、自転車に跨っている竜太郎くんがいた。

「あの店、しばらくやらないんすね」

 それが光先輩のバーの話だとすぐにわかった。

「あの人、体、大丈夫っすか」

「どういう意味」言われた言葉に耳を疑う。「知ってたの」

 なんで。私も知らなかったのに。

 詰めるように言ったら、歯切れ悪く話し始めた。

「あの日、飲んだのが、水だったから」

 あの日。言われて思い出す、泉と竜太郎くんが店に来た日を。竜太郎くんが奪ったグラスを。

「酒を飲んでるふりして、あの人が飲んでたの、ただの水だったんすよ」

 いつも飲んでた透明のドリンク。店の外に出た二人。

「言わないでって言われました。どういうつもりだって聞いたら、肝臓が悪くて酒が飲めないって」

 キスをするために飲んだルジェ。トイレから聞こえていた嘔吐に呻く声。

「早く死ぬから、そうしたら海先輩を大事にしてやってくれって、言われました」

 減ってたのはお酒だけじゃない。火がつかないリキュールの度数で、命の時間は燃えたのだろう。

 馬鹿じゃないの。

「海さん、俺」

「ごめん」

 言いかけた言葉を遮る。竜太郎くんの気持ちなど知ってる。私に似ていたから、とっくにわかってる。

「ごめん、私は」

 この太陽の下に出られないようなあの人と、ずっと一緒にいたい。



「わざとらしい」

 殴られて他の女を匂わせて、嫌われようとして。

「嫌いになんかなりませんよ」

 それにもう、私以外に会いに来るような女、あなたにはいないでしょう。

「ええ、そうなの?」

「そうですよ」

 白い部屋なのに薄暗かった。降ろされたブラインドは光など差し込まない。病院の中にも、光を厭う場所があるのを初めて知った。

「あはっ、そっかあ……うーん、俺さあ、海ちゃん見ると死にたくなるんだよねえ」

 ひどい言葉だ。

 ベッドの上に寝たまんまで、星もないのにどこを見つめているんだろう。

 やっと聞けた気がする。甘くない言葉が彼の本心だ。

「夜に生きるって決めて、タトゥーも入れて全部捨てたのに」

 尖って見えて、やけに目立つ八重歯も、病気で痩せた歯茎のせいでそう見えるのだと知った。それで吸血鬼病なんて言われるのも、最近知った。夜の生き物。

「海ちゃん見ると、陽の光の下に出たくなるんだ」

 心を昼間に置かせたのは私だ。けどもう、夜の中でいい。ずっと前から覚悟していた。夢の中で会えた人に現実で会えるようになったら、夜に眠る必要なんてない。

「明けない夜ってエモくないですか」

 ネオンの光はインスタ映えする。先輩が私を見た。ガーゼが貼られた頬は、女に叩かれたって言うには無理がある。けど、獣みたいに爪で引っ掻かれた、なら通じるかもしれない。

「虹が好きって言ってたじゃん」

 覚えててくれた。なら、もう。

「そんなの」

 そんな触れられないものどうでもいい。先輩の手を握った。

「……店で聞いてきたあの曲のタイトルだけどさあ」

 脈絡なく言われた話。あの日手を止めた音楽を思い出せたのは、病室が静かだったおかげだ。

Closer(もっと傍に)

 思い出せる。暗い店内に流れる音楽。キスの味はピーチ味じゃなくていい。

 虹なんて見れなくてもいい。夜の中でいい。光ならこの腕の中に。

「ずっと好きです」



 旅行に行きたいな、と先輩が呟いた。

「石垣島。沖縄、行きたいって言ってたでしょ?」

「けど」

 紫外線が凄いはずだ。咄嗟に喜ばないくらいには、私も先輩の病気を勉強した。

 退院した先輩に招かれた部屋は、シンプルなワンルームだった。街の怒りや夜の嘆きさえ入ってこないような黒いカーテン、ガラステーブルの上の、灰皿になった欠けたコップ。彼を守るこの部屋の中で。あれから私は、惜しまずに夜を数えている。

「運が良ければ、夜に虹が見られるかもしれないんだって」

「夜に」

 復唱すると、いいでしょ、と先輩が笑った。

「思い出作りに」

「そんなこと言わないで」

 これからいくらだって作れる。インスタのストーリーだって、米粒になるくらい先輩との写真をあげてやる。

「言うよ。だって先がない男だし」

 突然転校して、行きたかった高校を諦めて荒れていたという先輩は、今日までどれだけ辛酸を舐めてきたのだろう。あのオーナーのおじさんと出会うまで、タトゥーを刻むしか生きる実感を得る方法がなかった先輩は。

「遺伝性みたいなんだ。親は発症しなかったみたいだけど。でも、だから」

 それ以上言わせない。

「行きましょう、先輩」

 移動を夜に限ればきっと大丈夫だろう。そう信じて、二人で旅行サイトを巡った。タトゥーの入った腕の中で目覚める夕方は安心感があった。朝日を見ない私たちには、後朝きぬぎぬの別れは訪れない。



 先輩の入院が決まったのは、ホテルのキャンセル料金が七十%になった時だった。

「やー、肝硬変だってえ」

 色の白い顔がどこか黄色い気がするのは気のせいではなかったらしい。

「ごめんね」

「謝らないでくださいよ」

「謝らせてよ」

 ベッドの上で上半身を起こす先輩のラインアイコンは私とのツーショットに変えてもらった。死ねとラインが来まくったそのことを、今になって後悔している。

「あの出会いは偶然であれ、再会しちゃってごめん、こんな思いをさせてごめん」

 再会してなきゃ、私は幸せになれなかった。

「もっと悲しませるかもしれない」

 わざわざCLOSEと拒絶の看板にRと書き足した先輩の気持ちを想像すれば、返事はためらわなかった。

「大したことないです」

 朝日を見るたび今日こそ会えるかもと期待して終わる一日の悲しさを、先輩は知らないでしょう。

「ねえ今夜、病院の庭に来れる?」

 言われた時間はとうに面会時間は終わっている。だから庭なんだよ、と言われるが、患者だって夜に自由に出歩けないはずだ。

「病気が病気だからね。多少大目に見てもらえるんだよ」


 茂みを掻き分けて病院の敷地に入ると、入院着を来た先輩が庭の真ん中に立っていた。色白の肌は暗闇でよくわかる。手を振るとおいでおいでと手招きされた。

「懐かしくない?」

 先輩が持っていたのは、百均やコンビニに売っているようなシャボン玉セットだった。

「売店に売ってた」

 袋を開ける音が庭に響いてハラハラしたけれど、誰も飛んで来たりはしなかった。

 先輩はストローを咥えてシャボン液の蓋を開ける。

「煙草よりも似合いますよ」

「ああ、そう?」

 そう言って液をつけたストローに息を吹き込んだ。

 月と同じ形をした輪郭の夜が浮かぶ。シャボン玉は風で揺れてゆっくりと昇っていく。

「虹っていうには、おこがましいかなあ?」

「そんなことありません」

 シャボン玉は色を変えながら昇っていく。七色に見える丸は、手の届かない位置まで上がって弾ける。先輩がまたシャボン玉を吹いた。ここが虹のふもとだ。

「約束守ってくれて、ありがとうございます」

「いいよいいよ」

 先輩の胸元に触れる。病院着のサラサラした感触の下に、骨ばった体を感じた。けれどちゃんと、鼓動を感じる。服の下のタトゥーはここ。彼の部屋で見た線の記憶を指先でなぞる。跳ねる鼓動。人魚姫は生きている。

 先輩は片手で私の手を取った。

「指輪、また買おうか」

 鮮やかだった金髪の根元は、夜と同じ色になっている。



*エピローグ


 泉と竜太郎くんとこんな時間まで飲んだというのに、意外と頭はしっかりしている。むしろ吐くほど飲んでいたのは竜太郎くんだった。

 マーライオンという言葉を思い出して少し笑う。深夜を過ぎた商店街は、朝の匂いと人影が増え始めていた。

 こんな時間に一人で歩いている自分に少し違和感がある。エアポッズを耳に入れて音楽で誤魔化す。まだ薄暗いその道を進んでいると、敷物の上に座る帽子を被ったお兄ちゃんが私に言った。

「いらっしゃい」

 アクセサリーの路上販売だった。ずいぶん久しぶりに見た気がする。

 並ぶ指輪のデザインを見たくてしゃがみ込む。売れていたのかトレーの上はところどころ空いていて、ピンと来るデザインはなかった。

「また来てね」

 立ち上がった私に、帽子を被ったお兄ちゃんが言った。

「二人で」

 笑って会釈して、側溝の中に消えた光を思い出す。それから耳にイヤホンを入れた。再生した曲名はCloser(終わらせる人) 。

 私は一人で、曙光が差し込む道を歩き出した。

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