Epi1.0:踏んだり蹴ったり
大理石の床に膝をついた千紘の視界には、まだ講堂の壇上で揺れていた、あの満開の桜の残像が焼き付いている。
だが、鼻腔を突くのは春の柔らかな香りではなく、使い古された魔法触媒の焦げた臭いと、カビ臭い権威の匂いだった。
「……勇者ではない、だと?」
玉座に座る「黄色の国」の国王が、顔を不快そうに歪めた。
王の傍らでスキャン結果を読み上げる魔導官の声が、静まり返った謁見の間に無機質に響く。
魔導官「はい、陛下。固有ギフトは『トリロジースレッド』。空中に三色の線を引くだけの、戦闘能力を持たぬ外れスキルかと。身体能力、魔法などの何れの強化系統にも該当いたしません。」
周囲に並ぶ貴族たちの間から、失笑が漏れた。
貴族A「莫大な触媒を注ぎ込んで、得られたのはただの『落書き屋』か」
貴族B「無能な異界人を養う余裕など、我が国にはないな」
貴族C「(あのスキルが普通ではないことは明らかだろう。これまで73回の召喚を行い73回ともの召喚者も勇者かあるいは勇者に準ずるチカラを持っていたのだから、74回めで覆るわけがない。それに…あいつに復讐できるなら多少のコストなど0に等しい。全力で支援するべきだろう。これは世紀一番の大博打になるぞ…)」
千紘はゆっくりと顔を上げた。
端正な顔立ちを彩るはずの卒業の歓喜は、すでに氷のような無表情へと塗り替えられている。
彼は、仕立ての良いブラックスーツの袖に付いた、召喚時の焦げ跡を静かに見つめた。
(……卒業証書の受け取りまで、あと数秒。そこから始まるはずだった僕のキャリアプラン。商社での実務、投資、家族との夕食。それらすべてをこの男は『無能を引いた』という一言で、勝手にサンクコストへ変えたのか、野郎ぶち殺してやる!と言いたいとこだけれども、まだこのスキルがあいつを安全に仕留められるかわからない。リスクが大きすぎる。)
「陛下」
千紘の声は、震えるどころか、凍りつくほど冷静だった。
「僕をここに呼ぶのにかかった魔力と予算を、何年で減価償却するつもりでしたか? 僕というリソースを査定もせずに『外れ』と断じるのは、経営者としてあまりに短視眼的だ」
「……何だと?」
「此処ぞという時にリスクを背負い”投資”をしなければより良い栄光は貴方のもとにはやって来ませんよ?おっと、これはただの独り言です。お気になさらず。」
千紘は、床に投げ捨てられた金貨15枚――王が「手切れ金」として投げ寄越した、命の値段にも満たない端金――を、躊躇なく拾い上げた。
「これはありがたく頂戴いたしましょうかね。じゃ、私はここいらで帰りますから。」
「フン、さっさと連れて行け! その無能な面を二度と見せるな!」
騎士たちに両脇を抱えられ、引きずり出される間際。
千紘は肩にかけた卒業式のアカデミック・マントを、誇り高く翻した。
「(……せいぜい、今のうちにその玉座の座り心地を楽しんでおいてください。
次に僕があなたに会う時、あなたは僕に対して『頭を下げる』ことすら許されない、ただの債務者になっているでしょうから)」
王宮の重厚な門が、背後で重々しく閉ざされた。
目の前に広がるのは、無人地帯から吹き付ける極寒の風と、絶望に凍りついた貧相な街並み。
千紘はマントの襟を立て、漆黒の布地を強く握りしめた。
バシで学んだ経済学。そして、何一つ持たない自分。
「……さて。金貨15枚で、このクソみたいな世界をどう買い叩きましょうかね。」
去渡千紘の、異世界での「最初の投資」が始まった…かに思えた。
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