表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

彗星の如く消えた小説家

作者: 沢 一人
掲載日:2025/11/27



小説家、サワ(沢)は、空の冷蔵庫の前でつぶやいた。


「我が家に熊が出没することはない。何しろ、食料が何もないのだから」


食料はもちろん、彼の頭の中も空っぽだった。


編集部の女性から要望された、今話題のアトラス彗星をテーマにしたSFのアイデアが、微塵も出てこない。


「それにしても、困った。」


彼は、原稿用紙の横に置かれた、最終手段として残しておいた最後のコーヒー豆を一粒、口に入れた。


昨今の急激な物価高は、彼の創作意欲と家計を同時に破壊した。


彼は、空腹と不眠で、彗星の如く現れたデビュー当時の輝きを、とっくの昔に失っていた。


彼の目の下には、連日の徹夜が彫り込んだ、深い黒い「くま」があった。


その日の午後、町では奇妙な噂が広がり始めた。


「聞いたか? 沢さんの家に、熊が現れたそうだぞ」


当初、それは本当に熊の出没情報として広まった。


しかし、彼の周囲、特に食料危機に陥った隣人たちの間では、話は徐々に変質していった。


「熊が現れたんじゃない。沢が現れたんだ!」


「沢さん、最近家に引きこもってたからな。まさか、飢えてとうとう外に出てきたのか?」


物価高と空腹がもたらした言葉の連鎖と錯覚によって、「熊が現れた」という町の騒ぎは、「空腹で困窮した小説家が遂に人前に現れた」という、滑稽なゴシップに変わってしまった。


その夜、サワは、自分の窮状をヒントに、新作のタイトルを決めた。


『彼は知っていた。次に熊を仕留めるのは、彼自身の過労であると。』


そして、極度の疲労に達したサワは、ついに机に突っ伏し、彗星の如く姿を消した。


奥さんが異変に気づいたのは、町中が再び大騒ぎになった時だ。


「熊が出たぞ〜! 沢先生の家だ! 何か黒いものが落ちている!」


警察が現場に駆けつけ、奥さんは最後にサワが書き残した原稿の切れ端を握りしめた。


警部は、黒い物体を見ながら、奥さんに質問した。


「先生の行方は? それに、この黒い物体は一体どこにあったんですか!」


奥さんは、震える声で、その紙切れに書かれた、サワの最後の言葉を読み上げた。


「どこだ、目の下に。」


そして、警部がその言葉の真意を理解したとき、鑑識の結果が出た。町中を騒がせた「熊」の正体は、やはりサワの目の下の隈が凝固し、剥がれ落ちた塊だった。


サワは、自らの過労と困窮という名の「熊」によって、この世から消滅した。


そして、彼の最後の痕跡である隈こそが、彼が小説で描こうとした「熊」だったのだ。


彼の小説の冒頭には、タイトルとして一言だけ記されていた。


「彗星の如く消えた小説家」


         完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ