彗星の如く消えた小説家
小説家、サワ(沢)は、空の冷蔵庫の前でつぶやいた。
「我が家に熊が出没することはない。何しろ、食料が何もないのだから」
食料はもちろん、彼の頭の中も空っぽだった。
編集部の女性から要望された、今話題のアトラス彗星をテーマにしたSFのアイデアが、微塵も出てこない。
「それにしても、困った。」
彼は、原稿用紙の横に置かれた、最終手段として残しておいた最後のコーヒー豆を一粒、口に入れた。
昨今の急激な物価高は、彼の創作意欲と家計を同時に破壊した。
彼は、空腹と不眠で、彗星の如く現れたデビュー当時の輝きを、とっくの昔に失っていた。
彼の目の下には、連日の徹夜が彫り込んだ、深い黒い「隈」があった。
その日の午後、町では奇妙な噂が広がり始めた。
「聞いたか? 沢さんの家に、熊が現れたそうだぞ」
当初、それは本当に熊の出没情報として広まった。
しかし、彼の周囲、特に食料危機に陥った隣人たちの間では、話は徐々に変質していった。
「熊が現れたんじゃない。沢が現れたんだ!」
「沢さん、最近家に引きこもってたからな。まさか、飢えてとうとう外に出てきたのか?」
物価高と空腹がもたらした言葉の連鎖と錯覚によって、「熊が現れた」という町の騒ぎは、「空腹で困窮した小説家が遂に人前に現れた」という、滑稽なゴシップに変わってしまった。
その夜、サワは、自分の窮状をヒントに、新作のタイトルを決めた。
『彼は知っていた。次に熊を仕留めるのは、彼自身の過労であると。』
そして、極度の疲労に達したサワは、ついに机に突っ伏し、彗星の如く姿を消した。
奥さんが異変に気づいたのは、町中が再び大騒ぎになった時だ。
「熊が出たぞ〜! 沢先生の家だ! 何か黒いものが落ちている!」
警察が現場に駆けつけ、奥さんは最後にサワが書き残した原稿の切れ端を握りしめた。
警部は、黒い物体を見ながら、奥さんに質問した。
「先生の行方は? それに、この黒い物体は一体どこにあったんですか!」
奥さんは、震える声で、その紙切れに書かれた、サワの最後の言葉を読み上げた。
「どこだ、目の下に。」
そして、警部がその言葉の真意を理解したとき、鑑識の結果が出た。町中を騒がせた「熊」の正体は、やはりサワの目の下の隈が凝固し、剥がれ落ちた塊だった。
サワは、自らの過労と困窮という名の「熊」によって、この世から消滅した。
そして、彼の最後の痕跡である隈こそが、彼が小説で描こうとした「熊」だったのだ。
彼の小説の冒頭には、タイトルとして一言だけ記されていた。
「彗星の如く消えた小説家」
完




