第8話 恩恵
次の日も、大地は挨拶運動を続けた。
歩鳥が挨拶したことが影響したのか、その日は数人挨拶を返してくれた。
次の日も、その次の日も、雨の日も、風の日も、大地は負けずに立ち続けた。たとえほとんど返事がなくても、大地は人気者になるために、腕章を巻き続けた。
確かに手応えを感じていた。日に日に、挨拶を返してくれる人が増えてきたのだ。
確実に変化を感じたのは、挨拶活動が二週間目に入る月曜日だった。
「……ボンジョルノこい、ボンジョルノこい」
一年生と思しき女子が、大地の前で祈りを捧げていた。
「ボンジュール??」
大地が華麗に一回転をして挨拶を投げる。
「ぼ、ぼんじゅーるですう」
女子生徒はひどく落胆して、大地の前から立ち去ると、すぐに他の生徒が大地の前に立つ。
その次の順もすでに待機しており、なんと坂の下まで長蛇の列ができていた。
「……なんなのこれ」
顔を真っ青に染めた歩鳥が、列の隣を通り過ぎる。
「これ全部成島くんの挨拶待ち?」
「そうみたいだね。私たちも並ぶ?」
香恋に言われて、歩鳥はぶるぶると頭を振った。
「そっかあ。じゃあ私は並んでくるね」
「え? 香恋まで??」
香恋は軽やかなステップで、『最後尾』のプラカードを持った生徒会役員のもとへ向かう。
「こんなの……、こんなのまるで、人気者みたいじゃん!」
歩鳥の小さな叫びは、誰にも届かなかった。
ことの発端は、大地が挨拶運動を始めて三日ほど経った時だった。
『成島と同じ挨拶を返すと、その日良いことがあるらしい』
そんなバカげた噂が、校内で徐々に流れ始めた。
ある者は、長年の恋が成就したといい、またある者は、推しアイドルとの一日デート券が当たったと言った。
その噂は瞬く間に各クラスのグループチャットで拡散され、空前の大地への挨拶ブームとなっていた。
ちなみに、その中でも『ボンジョルノ』と挨拶されると特段良いことがあると言われている。
一度、小賢しい男子生徒が自ら大地にボンジョルノを要求したが、その後彼は腹を下し、三日ほど寝込む生活を送ったという。
本当の幸せを手に入れるには、大地の気まぐれにまかせてボンジョルノを待つしかないのだ。
無論、大地は自分が今どんな状況なのかは知らない。どこのグループチャットにも入れてもらえてないからだ。
「すごい列だね、大地」
レイは隣で踊る大地に声をかける。もちろん、レイは学校で何が起きているのかは知っているが、あえて大地には伝えていない。
「ああ、みんなが俺を求めている」
言いながら、大地は長蛇の列に並ぶ生徒たちを、捌いていく。
この一週間で、九十二カ国の挨拶を習得した。
大地は知らず知らずのうちに、悩める子羊たちの幸せのハードルを上げてしまっていたのだ。
「おい、泉」
渋滞している時の原付のように、長蛇の列の合間を縫ってきた歩鳥に気づいて声をかける。
「な、なに?」
「ボンジョールノ!」
「ボ、ボンジョルノ」
歩鳥は胸の前で手を合わせ、ぺこりと頭を下げると、足早に校舎へ向かった。
「ボンジョルノでたぞ!」
「おい嘘だろ……」
「でもまだ今日は一回しか出てないから大丈夫だよね?」
「いけるいける」
周囲のそんな声が、歩鳥の歩くスピードに拍車をかける。
幸福をもたらすと言われるボンジョルノ。
歩鳥の願いはただ一つ。
もしも、本当にそんなバカげた噂があたるのならば。
「……成島くんから解放されますように」
あと五分で朝礼が始まるというのに、ほとんど人のいない廊下で、歩鳥は切実に独りごちた。
◇
その日の放課後、歩鳥は再び神社に向かっていた。
昼休みが終わるころ、大地から『重要な話がある』という連絡が飛んできたからだ。
どうらボンジョルノの効果は、歩鳥には利かなかったようだ。
なかなか進まない足で、階段を一段一段上る。
ボロボロの木製ベンチに座る大地が視界に入る。が、どこかいつも違う様子なのが見て取れた。
常に顔をあげ、自信満々なオーラを解き放つ大地が、膝に手を突き俯いていた。
「成島くん」
「お、おお……泉、来たか」
「なんでそんなに落ち込んでるの!?」
さすがの歩鳥も心配になるほど、大地の目からは生気が失われていた。
「師よ。俺は手段を一つ失ってしまった」
「どういうこと?」
歩鳥が聞くと大地は唇を震わせる。
「挨拶運動は、禁止になってしまった」
昼休み、職員室に呼ばれた大地は、生徒会の顧問に挨拶運動の禁止命令を下された。
大地の挨拶運動をきっかけに、校門が渋滞することで、生徒会役員が毎日駆り出される挙句、朝のホームルームに遅刻する生徒が増えたことが理由だった。
ちょうど手応えを感じていた大地は、抗議の姿勢を見せたが判決が覆ることはなかった。
「ちょっと待って、それほんと?」
「ああ、お前もにわかには信じがたいだろうが、残念ながら俺たちの旅路は――」
「ほんとなの!?」
歩鳥が大地の肩をがっしりと掴み、期待を込めた視線を向ける。
まさか、あんなバカげた噂が本当だったとは。頭の中に浮かぶ陽気な西洋人に、歩鳥は感謝してもしきれない。
「……なんで嬉しそうなんだ?」
「とっても悲しいよ」
言葉とは裏腹に、歩鳥の顔はどんどん晴れていく。
「とても悲しいやつの顔には見えんが!」
「世界は広いんだよ成島くん」
「そ、そうか。俺の知らない世界がまだたくさんあるんだな」
人気者の歩鳥が言うのならば大地も納得せざるを得ない。歩鳥は無意識にも師匠という立場を最大限に利用していた。
「ごめんね、私が挨拶しろなんて言ったせいで。人気者になるチャンスを台無しにしちゃった」
「いや、いいんだ。泉は悪くない。これは俺の力不足だ」
これはチャンスのでは? 悔しそうに歯を食いしばる大地の隙に漬け込むように歩鳥が声をかける。
「そんなことないよ! 成島くんはできることを全力でやった。それでもこんな結果になってしまったのは、私のせいだよ」
俯く歩鳥。大地には見えいないが、その下に隠されているのは、高揚感で歪む頬。
「……私は師匠失格だよ」
震える声、悲しそうな表情。すべてが完璧だった。
解放を夢見て顔をあげると、大地が顔をしわくちゃにしながら歩鳥を真っすぐに見つめていた。思っていたのと全然違う。嫌な予感が歩鳥の体を駆け巡る。
「なんていい師匠なんだ……!」
「成島くん? あ、あのね、だから私は、これで――」
「その思い、しかと受け取った!!」
「へ?」
「こんなところで終わってたまるか! だよな!?」
大地がきらりと白い歯を見せた。
初めから隙なんてなかったのだ。歩鳥は自分の甘さを痛感し、ガクリと肩を落とした。
「ああ、うん……そうだね……」
「あと二週間、よろしく頼む!」
大地は右腕をまっすぐ伸ばし、再起の握手を求めた。
応えてはいけないとわかっていながら、その真っすぐな瞳にやられ、行きたくないと叫びながら震えている手を差し出した。
「あと二週間、二週間頑張れば……」
「そうだな! あと二週間気合い入れていくぞ!」
「お、おお」
そう言って小さく拳をあげる歩鳥は、今にも泣きだしそうだった。