第6話 ボンジュール
「ボンジュール????」
「チャオブオイサーン!!!!」
「おはよう」
校門をくぐる生徒たちを世界中のあいさつで歓迎している男の腕には、風紀委員でも、生徒会でもなく、『成島大地』と刻まれた腕章が巻かれていた。
昨日徹夜で作った自信作だ。
もちろん、行き交う生徒たちは大地の挨拶をことごとく無視していく。
それは悪意ゆえの行動ではなく、踊り狂う人間を前にした恐怖ゆえの行動だった。
「大地、なんで日本語だけすごい真顔なの?」
「日本はやはり禅の心が大事だからな」
レイに聞かれて、大地はそっと手を合わせる。
昨日の夜習得した二十か国の挨拶。どうせやるならその国の文化を体現しようと、大地は挨拶に合わせてポーズを変えていた。
「ボンジョールノ!! ザオシャンハオ! おはよう」
大地はひたむきに挨拶を続ける。
校舎の窓からその様子を覗き込み、指を指しながら笑っているものもいるが、大地には関係ない。
「Good、morning」
「「「グ、グッドモーニング……!」」」
楽しそうに挨拶する大地につられて、レイが流暢な英語で声をかけると、すでに通り過ぎていた女子までもが振り返って答えた。
「やはりアメリカか。まだ日本はアメリカには及ばんな」
「俺、イギリスだけどね」
レイの成功例を見た大地が、大きく息を吸う。
「グッド! モーニングッ!」
アメリカ産の挨拶は、跳ね返ってくることなく空へと消えていった。
そんな大地の様子を見ていた歩鳥は、青ざめた顔で佇んでいた。
「どうしたの? 体調悪い?」
たまたま登校中に一緒になったクラスメイトの田原香恋が、顔色を悪くした歩鳥を心配そうに覗き込む。
「大丈夫大丈夫。ちょっとお腹が痛くて」
わざとらしくお腹を押さえる歩鳥が、ちらりと校門を見上げた。
確かに挨拶が大事だとは言ったが、挨拶運動をしろとまでは言っていない。極端すぎる大地の行動に、本当に胃が痛くなりそうだった。
自分は関係ない。みんなと同じようにやり過ごそう。
決意を固めた歩鳥が校門をまたいだその時。
「ボンディーア!」
大地がひょいと体を突き出して、香恋の目の前に飛び出した。
「ひえええええええええ!!!!!」
香恋はすぐさま歩鳥の背中に隠れる。歩鳥も周囲にバレなうように、大地にちらりとジト目を向けた。
大地は、師に自分の頑張りを認めさせようと言わんばかりに目を輝かせる。
「歩鳥、いこ」
「うん」
袖を引っ張られた歩鳥は、そのまま何も言わずに大地から遠ざかっていく。
足取りが、さっきよりもずっと重かった。
「なにあれ、怖すぎない? 私殺されるかと思ったよ」
ほっと胸を撫で下ろす香恋を見て、歩鳥はぎこちない笑顔を向ける。
大地は変わることなく挨拶を続けているが、誰一人としてそれに応えるものはいない。行き場の失った大地の声が歩鳥の背中にちくりと突き刺さった。
「歩鳥?」
「ごめん香恋、先に行ってていいよ」
自分でもなぜそうしたのかわからない。
ただ、気づけば踵を返して大地のもとへ向かっていた。
表情こそは柔らかいものの、足踏みは力強い。
「成島くん」
「ん? はっっ! ど、どうした泉……?」
振り返った大地の肩が跳ねた。学校では話かけないというルールに従っている大地は、どうすればいいかわからないといった感じで歩鳥から目を逸らした。
そんな大地に向かって、歩鳥が小さく口を開いた。
「おはよ」
それだけ言い残し、歩鳥はその場を後にした。
一瞬固まった大地だったが、今日初めて返ってきた挨拶に唇をぎゅっと噛みしめる。
『おい見たかよ。やっぱ泉さんは優しいよな』
『だな。うぬぼれ野郎にまで挨拶返してやるなんて、女神すぎるぜ』
『付き合いてーな』
『やめとけ玉砕するだけだぞ』
周囲からはそんな声が漏れていた。
「おはよう! ボンジュール! グッドモーニング!」
そんな声など気にもせず、大地は小さくなっていく歩鳥の背中にひたすら叫び続ける。
声のトーンがさっきよりも高くなっている。
振り返らずに校舎へ向かう歩鳥は、どこか体が軽くなったような気がして、自然と頬が綻んでいた。