第5話 異名
自宅に帰るや否や、大地はリビングに駆け込んだ。
「美琴、落ち着いて聞いてくれ!」
「お兄ちゃんのほうが落ち着いてくれる?」
美琴はペンを止め、大地に体を向けた。
「お兄ちゃん、ついに人気者になれるぞ!」
「すで人気者なんじゃなかったの?」
美琴はため息をつきながら、再びペンを握った。
自分の過ちに気づいた大地は、まだ春だというのに汗をダラダラ流しながら動かない。
「み、美琴。人気者には、ただの人気者とそうじゃない人気者がいるんだ。わかるか?」
「なにそれ。宿題より難しいよ」
「はっはっはー! まだ中学生のお前には分からんだろうが、そのうち分かる。その日まで楽しみに待っておけ」
難を逃れたと思いこんでいる大地は、意気揚々とソファーに腰かけた。
「そうじゃない人気者というのは――」
「まだその日は来てないよ。私宿題あるからあとでね」
美琴はそれだけ言うと、目の前の漢字ドリルを必死に見つめる。
「そうか、悪かった。それと美琴――」
「もう、なに?」
顔を歪める美琴に、大地の肩がぴくっと跳ねる。
基本的に大地は他人からどう思われていようと気にするそぶりは見せない。そもそも気づいていないのだが。
しかし、美琴の機嫌を損ねることだけは心底恐れている。
大地がまだ中学生の頃、美琴にしつこいと怒られ、三日ほど口をきいてくれなかったことがあった。その時苦しみを忘れてはいない。
「宿題を頑張るお前にご褒美だ。今日はカレーにしよう」
美琴の顔色を伺いながら、彼女のご機嫌取りに走る。
「まじ? やったー! 兄ちゃんのカレー大好きなんだよね! 宿題頑張る!」
ぱあっと顔を明るくした美琴を見て、大地はほっと胸を撫で下ろした。
今日は絶品のカレーを作ると決めた大地は、まだ夕食まで時間があることを確認して、自分の部屋へ向かった。
脱いだ制服をハンガーにかけ、しわが寄らないようにピシッと伸ばす。
バックの中からメモ帳を取り出し、今日の復習をする。
「あの後泉とは話せなかったな」
学校では話しかけるなと言われた手前、大地が歩鳥に教えを乞うのは放課後しかチャンスがない。
しかし、日直という大役を任された大地は、黒板を綺麗に消すことに夢中になり、歩鳥がすでに帰宅していたことに気づかなかった。
「そういえば、連絡先を教えてもらったんだったな」
スマホを開くと、『新しい友達』の欄に歩鳥の名前がある。登録されている友達の数はこれで三人目だった。
大地は何の躊躇もなく、すぐに歩鳥に電話を掛けた。
『はい』
「俺だッッッッ!」
自信に満ち溢れた深く芯のある声の後に、しばらく沈黙が続いた。
『……詐欺ですか』
「ははは。確かに俺からの電話など信じられなくて夢だと思ってしまう気持ちもわか――」
――ツーツー。
虚しいまでの話中音が、耳の中にこだまする。
大地は『通話終了』の画面を除き、はてと首をかしげると改めて歩鳥に電話を掛けた。
「すまん。切れてしまったみたいだ」
『切ったんだよ』
「なぜだ?」
『本当に詐欺かと思って。それで用件は?』
「ああ、そうだな。さっそく明日からなんだが、俺は人気者になるために何をするのがベストなんだ?」
『そんなこと? わざわざ電話じゃなくてもいいでしょ?』
「何言ってるんだ。お前が学校では話しかけるなと言ったんだろ」
思いのほかルールに忠実な大地に驚いたのか、電話越しの歩鳥が少し黙り込む。
『……それもそうだね。成島くん、こういうのはまず自分の現状を知ることが大事なの』
「ほう。続けろ」
『成島くんって弟子だよね?』
歩鳥の語気が少し荒くなる。
「そうだが? どうしたんだ急に」
『いや、大丈夫。この質問はもしかしたら、成島くんを傷つけるかもしれない。だから聞くかどうかは成島くんに任せるよ』
大地は、ふっと鼻で笑い、癖のついた前髪を靡かせた。
「ここまで来て引き返すはずがないだろう。俺を見くびるな、師よ」
『よ、よかった。じゃあ聞くね。今、成島くんはみんなになんて呼ばれてるか知ってる?』
不安が入り交じった声音が、大地の耳に届く。
自分をかっこいいと信じてやまない大地が、陰では『うぬぼれ野郎』という不名誉な異名で呼ばれている。
その事実を伝えようとするのであれば、当然のことだろう。
「まあ噂程度にしか聞いたことはないが……、貴公子? とは呼ばれているらしい」
一人でほんのりと顔を赤くし、鼻先を掻いた。
『――ガシャンッ』
「お、おい大丈夫か!?」
電話の向こうで衝撃音が鳴り、大地は咄嗟に声をかけた。
『だ、大丈夫。ちょっとスマホを落としただけ。つらい現実かもしれないけど聞いてほしい。そう呼ばれてるのは若園くんだよ』
優しく、そして柔らかい、すべてを包み込むような声色だった。
『――うぬぼれ野郎。成島くんは、そう呼ばれているの』
「……」
大地は静かに黙り込む。
「成島くん?」
心配そうな歩鳥の声を聴き、ゆっくりと口を開いた。
「素晴らしい…」
「え?」
「はははは! うぬぼれ野郎か! 俺にピッタリの異名じゃないか!」
「嫌じゃないの!?」
「なぜだ? 実際、俺は自分に惚れているからな。自分に惚れることの何が悪い? 俺は人気者になる逸材だぞ。自分で自分を愛せないやつに人気者になる資格などない! お前も人気者の端くれならわかるだろ?」
電波の先にいる歩鳥が、一瞬言葉に詰まった。
『そう……、だね』
「どうかしたか?」
どこか弱々しい声に、大地が小首をかしげる。
『どうもしてないよ。成島くんのメンタルの強さは十分理解できた。でもね、状況は成島くんが思ってるよりずっと良くない。今日のシャンプーのこともそうだけど、成島くんに対していいイメージを持ってる人は少ないの。だからまず、自分は害がない人間だと言うことをわかってもらう必要がある。そのためには……』
『そのためには?』
「まずは挨拶だけでもいい。それだけでもイメージは和らいでいくよ」
「そんなことでいいのか……?」
あまりに簡単なことに戸惑う大地。
『ふっふっふ、挨拶をなめていけないよ成島くん』
待ってましたと言わんばかりに、歩鳥が鼻を鳴らした。
『殺人事件のニュースなんかを思い出してみて』
「……お前、人を殺め」
『ちょっと黙って聞いててね。そのニュースで近隣住民にインタビューすることがあるでしょ? その時に犯人の普段の様子を聞いたりするんだけど、よくこう言う回答をする人がいます。笑顔で挨拶してくれる人だったので、そんな事件を起こすような人には見えなかった、ってね』
「確かに、聞いたことはある」
『でしょ。殺人事件を起こすような人間でも、笑顔で挨拶をするだけでそう言うイメージを持たれることがあるの。それぐらい挨拶って重要なのよ。わかってくれた?』
「俺を納得させるとは……、面白い女だ」
大地は頷きながら、鋭く目を光らせた。
『そのセリフは今後使用禁止ね。これは成島くんのためにもなるから』
歩鳥の声から伝わってくる責任感は、まるで世界中の女子の思いを背負っているかのような重さだった。
「わ、わかった。気を付けよう」
泉道場に入門後、初めて背筋の伸びる瞬間。
『とにかく、明日成島くんのやることはそれだけ。じゃあ今日はこの辺で』
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「なに?」
電話が切れる前に、歩鳥を止める。
『ありがとう。感謝している。また明日』
「うん、また」
電話が切れると、大地はすぐさま検索エンジンを開いた。
検索欄に「挨拶 世界 一覧」と調べ、またメモ帳に殴り書きを始めるのだった。