第22話 勉強会
そして迎えた土曜日。
歩鳥が改札を出ると、そこには舞衣が立っていた。
「おはよう泉さん」
行ってしまえばもう帰ってこられないような、吸い込まれるような瞳だった。
「お、おはよう。待ってくれてたんだ」
「もちろんだよ。これも仲直りの証ってことで! じゃあ行こっか」
舞衣はそう言って、歩鳥の手を掴み歩き出した。導くというよりは、絶対に離さないという力強い手に、歩鳥の不安が募っていく。
「大丈夫だよ! 道分かるから」
「そうなの? もしかして、成島くんの家行ったことあるの?」
手を放してほしくてついこぼしてしまった。
だが、大地のことなら今日一日の中で、一回ぐらいは自分が家に来たことをぽろっと言ってしまう可能性は高い。
ここで変に嘘をついて音からバレるほうが、やましいことがあると思われかねない。
「一回、メイクのことでね。一回だけ! すぐ帰ったけど!」
重要なことなのでしっかり二回言った。
「ふーん。まあ師匠と弟子だったもんねえ」
「それは……」
「ごめんごめん。ちょっとからかってみただけ」
申し訳なさそうにはにかむ舞衣からは悪意は感じなかった。
「そういえば、香恋は待たなくていいの?」
「ああ、香恋ならちょっと遅れるから先に行っててほしいってさっき連絡来た」
「そうなんだ」
ぶっきらぼうに話す姿に歩鳥は違和感を覚えた。
本当に香恋は遅れてくるのだろうか。スマホを開こうとした時、舞衣が何かを察したのか、歩鳥のほうを振り返った。
「も、もうすぐお昼だね」
時間を確かめるふりをして、スマホをバッグに仕舞う。
もし、本当に仲直りをしているのなら、疑うような行為は舞衣を傷つけるだろう。
そんな歩鳥の人の好さも、舞衣はすべて計算していた。
香恋には、もともと本来の集合時間と違う時間を伝えている。そして、歩鳥の乗る電車が到着したと同時に、勉強会が中止になったことを連絡した。
すなわち、香恋は大地の家には来ない。
そして、レイは初めから誘っていない。英語が苦手なことを指摘されたときの取り乱しようなら、大地から声をかけることはないと確信したのだ。
今日は歩鳥と舞衣、そして大地の3人だけの勉強会となる。
きっと大地は、歩鳥と勉強することをよくは思わない。歩鳥に勝つための勉強会に、その本人がいては集中できないだろう。そうなれば大地は歩鳥を邪険に扱い、彼女のアドバイスも受け入れないだろう。
すると、歩鳥はどうなるだろろうか? 遠いところかわざわざやってきて、のけ者扱いにされる。
目の前では、今まで守ってあげようとしていた男が自分を邪険に扱い、あまつさえ女といちゃついている。
苛立ちで震える歩鳥を想像しては、舞衣の頬が緩んだ。
大地を守る価値などない男だと歩鳥に知らしめ、その後2人きりとなった大地を沼に引きずり込む。
入念に準備された舞衣の計画は、すべて思い通りに進んでいる。
自分の計画に酔いしれながら歩いていると、とうとう大地の家に着いた。
インターホンを鳴らすとすぐに大地が扉を開き、歩鳥の姿を捉えた。
「な、なんで泉がいるんだ!」
明らかに嫌そうに口を歪める大地を見て、歩鳥の眉間にしわが寄る。舞衣にとっては完璧なスタートだった。
「サプライズゲストだよ!」
笑顔を見せる舞衣を、大地が手を使って呼びつける。
「おい、話が違うじゃないか。なんで泉がいるんだ」
「いいでしょ? ライバルが近くにいたら余計気合い入るじゃん」
「分からんでもないが……」
「私邪魔だったかな? 帰ろうか?」
自分の目の間で内緒話を繰り広げる2人に、歩鳥が笑顔で声をかけた。もちろん目は笑っていない。
「そんなことないよ! ほら、成島くんもせっかく泉さん来てくれたんだから、そんな言いかたしないの」
「ま、まあ来てしまったものは仕方ない。とにかく入れ」
舞衣に促されてぶっきらぼうに言い放つ大地に、歩鳥の苛立ちはさらに募る。
大地の反応や言いかたは気に障るが、おおよその原因はわかっている。どうせライバルに弱みを見せたくないとかそういった類だろう。
師匠をやっていただけに、さすがの洞察力を兼ね備えた歩鳥は動揺を見せない。まあ、香恋とレイが来れば気も紛れる。
そう言い聞かせながら、歩鳥は渋々大地の部屋まで上がった。
この前来た時と何も変わりなかったが、変な仮面がないことに気が付いた。
別に思い入れはないものの、妙に気持ち悪かった分記憶に残っている。だが、周囲を見渡してみると、それらしきものが裏返しになっていることに気づいた。
「……なんだ、あるんだ」
表を向けていいたら勉強に集中できそうにないため、歩鳥はそのまま見て見ぬふりをした。
大地が飲み物を取りに行っている時だった。
歩鳥に悲報が訪れた。
「ええ! 香恋来れないんだって。それに若園くんも急用で来れなくなったらしい……」
わざとらしく悲しそうに口を塞ぐ舞衣に、歩鳥は確信ともいえる違和感を覚えた。
「……嘘だよね?」
「嘘じゃないって! ほんとに来れないみたい!」
まだ歩鳥が気づいていないと思っているのか、演技を続ける舞衣を見て自然と歯に力が入る。
「初めから来る予定なかったでしょ?」
歩鳥の真剣な眼差しに、舞衣が一瞬驚いたように目を見開く。だが、その表情はすぐに消え、代わりに口元がゆっくりと歪んでいった。
「……バレちゃったか」
舞衣の声が低く、落ち着いたものへと変わった。まるでさっきまで演じていた自分を脱ぎ捨て、本来の姿を見せ始めたかのように。
歩鳥はその瞬間、背中に冷たいものが走るのを感じた。舞衣の目には、もうあの『仲直り』という言葉の欠片すら残っていなかった。
「そう、今日は最初から泉さんと私と成島くんの3人だけ。ねえ、なんでそんなに驚いてるの?」
舞衣はわざとらしく首を傾げた。
「なにが、したいの?」
歩鳥は静かに尋ねた。冷静に見えながらも、舞衣はその目の奥に混乱と焦りを感じ取った。
「泉さんさ、私のこともなんとかしようとか思ってるでしょ? そういうの、ほんとウザいんだよね。私は今の私で満足してるの。それに……」
舞衣はそこで言葉を切り、歩鳥に一歩近づいた。その距離感が、まるで2人の間にあった透明な壁を壊していくようだった。
「今日は、泉さんに現実を教えてあげるだけ。まあ楽しみにしててよ」
その瞬間、歩鳥は理解した。舞衣は、ただ自分を試しているのではなく、何かもっと深い、冷たい意図を抱えていたのだと。
「どういう――」
歩鳥が聞き返そうとしたところで、大地が扉を開いた。歩鳥は気まずそうに舞衣から目を逸らし、バッグの中をあさり始める。
「なにかあったのか?」
さすがの大地も2人の間に漂う不穏な空気に気づいたのか、佇んだまま2人を交互に見つめながら、麦茶をテーブルに置いた。
「なにもないよ! さ、勉強勉強」
歩鳥がバックから教科書とノートを取り出して机の上に置こうとした時、手を滑らせてしまった。教科書類はすり抜けていき、置かれたばかりのコップにぶつかる。
カランという乾いた音とともに、麦茶はカーペットへと沈んでいく。
「ご、ごめん!」
「大丈夫だ。教科書は大丈夫そうだな。服は濡れてないか?」
「うん、大丈夫。ごめん」
「成島くん、ズボン濡れてるよ?」
動揺する歩鳥に見せつけるように、舞衣が自分のハンカチで大地のズボンを拭き始める。際どいところもお構いなしに手を伸ばされた大地は、ほんのりと頬を赤らめていた。
「お、おい。自分でするから大丈夫だ」
大地は立ち上がり、戸棚からタオルを二枚取り出した。
1枚を歩鳥に渡し、2人に見えないように自分のズボンを拭く大地。一瞬男の顔になった大地を見た歩鳥の表情が雲がかった。
「気を取り直して、二人とも勉強するぞ」
振り向いた大地がテーブルに座る。
舞衣はおもむろに大地にくっつき、まるで2対1のような構図が出来上がる。
「それで、この単語がある場合は、ここは動詞の原形になるの」
「おお! そういうことか! お前は教えるのが本当にうまいな!」
大地の声が耳障りで、勉強に集中できない。
「泉、お前も舞衣に英語を教えてもらったほうがいいんじゃないか? このままだと俺に負けてしまうぞ?」
走らせていたシャーペンの芯が折れた。いつもは全く気にならない大地の煽りも、今日は歩鳥の堪忍袋の緒を刺激した。
「泉さんにも教えてあげよっか?」
「いや、私今日は英語しないから大丈夫かな」
それでも歩鳥は場の空気を悪くしないように作り笑いを浮かべてしまう。
「おい、舞衣、ここはどう考えればいいんだ?」
「えっとねえ、ちょっと待ってね」
舞衣が教科書とノートを遡りながら、解決策を模索する。
ちょうど話を聞いていた歩鳥は、親切心で声をかけた。
「そこは――」
「待て泉。お前の力は借りん。それでは勝負にならんだろう」
「……あっそ。わかった」
大地の考えていることはわかる。それでもこの状況下での大地の言葉は、歩鳥の疎外感をより一層強くした。
「てか成島くんって意外といい体してるよね」
「ま、まあこれでも鍛えているからな。体を鍛えることには限界はないから、高められるものは高めたいんだ」
舞衣が大地の腕や胸をべたべた触ると、大地もまんざらでもなさそうに鼻を鳴らす。
「へえ、かっこいいねえ。守ってほしくなっちゃうね」
「お、おいそんなにくっつくな」
舞衣が大地の腕にしがみつく。
歩鳥は吐き気すら催しそうだった。明らかに演技で見せつけてくれる舞衣も、それを何も疑わずに満足そうにしている大地も、すべてが気にいらなかった。
「……勉強しないの?」
歩鳥が聞くと、舞衣は大地の腕にしがみついたまま挑戦的に眉根を上げる。
「泉さんも触ってみなよ! 成島くんの体意外とすごいよ」
「私は勉強しに来てるだけだから、大丈夫」
「なに? もしかして嫉妬してるの?」
「なんでそうなるの?」
舞衣と目を合わせるのも嫌だった歩鳥は、再びノートと向かい合う。この章が終わったらもう帰ろう。その一心で、歩鳥はペンを走らせた。
「そういえばさ、成島くんって泉さんのことどう思ってるの? まだ友達どまり?」
「あの篠崎さん――」
「なに言ってるんだ。泉は友達なんかじゃないぞ」
ペンを走らせていたページが破れる。まるで張りつめいていた糸が、ぷつんと切れるように。
もうやめよう。
なんで友達でもない人のためにこんなに悩んでいたんだろう。なんで自分を試そうとしている人のために、手を差しのべようとしたのだろう。
――1人だけ頑張って、バカみたいじゃん。
「泉は――」
「私帰るね」
「泉!」
続きなんて聞きたくなかった。歩鳥は教科書とノートをバックに詰め込み、部屋を飛び出した。
大地の声なんて聞きたくない。今すぐにその大きくて図太い声の届かない場所に行きたかった。
歩鳥の涙が、空気に消えていく。
その涙を見るものは、今はいなかった。