第21話 わからない
夏休み目前の教室は、いつもよりも浮ついた空気が流れていた。
そんな空気を引き締めるように、教室に入ってきた担任が名簿を教壇に叩きつけた。
「分かっていると思うが、あと二週間で期末試験だ。夏休み前に浮かれるのも変わるが、赤点をとったものは補修があるからな! 覚悟して取り組むように」
担任が教室を出ていくと、風船を割ったかのように至るところからため息が漏れる。
そんな中、歩鳥だけは窓の外をじっと眺めていた。
あれから数日。
舞衣は相変わらず大地のもとに来るが、特段変わったことはない。
自分がターゲットになることも覚悟はしていたが、その心配はいらなかったようだ。
歩鳥も、大地にはあの日のことを伝えていない。あの時、最後に見せた舞衣の表情が脳裏に焼き付いており、彼女を絶対的な悪にすることはできなかった。
むしろ、自分が余計なことをすれば、より悪い方向へ進んでしまうのではないかという懸念もある。
それぐらい、今の歩鳥と舞衣、そして大地の関係性は不安定だと感じていた。
「おい泉!」
ぼーっとしているところに、何やら挑戦的な笑みを浮かべる大地が声をかけてきた。
歩鳥の考えていることなどつゆ知らず、呑気な顔を浮かべる大地。歩鳥はなんとなく足を踏みつけたくなる衝動にかられた。
「なに?」
「お、怒っているのか?」
「驚いた。そういうのわかるようになったんだ」
歩鳥は純粋に感心した。
今までは自分本位だった大地が、他人の機微に気づくようになってる。確実に大きな進歩だが、歩鳥の苛立ちが消えるわけではない。
「なぜ怒ってるんだ?」
「そういう時もあるの。それで、どうしたの?」
「そ、そうか。ああ、今度も期末試験俺と勝負をしよう!」
大地の発言に、歩鳥はため息をつき、周囲はあざ笑うような声を上げた。
「成島」
大地の肩に手を置いたのは、香恋だった。
香恋はゆっくりと首を横に振り、大地に諭すように囁いた。
「歩鳥は入学以降学年1位なんだよ。やめときなって」
香恋の意見に同意するようにクラスメイトも大きく頷いた。
だが、その情報は大地に火をつけるには十分だった。
「学年1位だと!? 素晴らしい! それを超えてこその成島大地だ。今こそ学年12位の実力を見せつけてやる!」
高らかと拳を突き上げる大地を見ていたクラスメイト達の目から色が消えた。
「成島って、そんな頭いいの……?」
「うそでしょ……、私負けてるんだけど」
衝撃を受けたクラスメイト達は、すぐに自分の席に着き、ある者は単語帳を凝視し、またある者は数学の問題集に取り掛かった。
大地に学力で負けているという事実があまりもショックだったのだろう。
この日から職員室では、『2-Aの授業態度が凄まじい』と話題になり、担任は歓喜の涙を流したという。
その日の帰り道、レイが委員会で遅くなるということもあり、大地は一人で下校していた。
外周を走る陸上部を感心しながら眺め、「ご苦労さん!」と声をかけながら校門を抜けると、待ち構えていたかのように、舞衣が立っていた。
「舞衣、どうしたんだ?」
「面白い話聞いちゃったから、いてもたってもいられなくて」
「面白い話とはなんだ?」
大地が聞くと、舞衣は悪戯をするかのように笑った。
「今度のテストで泉さんと勝負するんでしょ? それ私にも手伝わせてくれない?」
「だめだ。これは俺の力だけでやらねばならんのだ」
ふんと鼻を鳴らす大地。断られることは想像できていた。
しかし、舞衣には強力な武器がある。
「成島くん、英語苦手でしょ?」
「な! お前、なぜそれを知っている!?」
周囲に聞かれることを危惧したのか、大地は舞衣の肩を抱えて隅まで移動する。
別に英語が不得意だからと言って、誰もそこに漬け込む奴なんていないが、大地からすれば知られたくない欠点なのだ。
「私ね、実は学年3位なの。それも英語は学年1位だよ。英語に関して言えば泉さんより上ってこと。私も人に教えることでさらに勉強になるし、この作戦どうかな?」
「……お前がどうしてもというのなら、致し方ない」
大地は顔を歪めながら苦渋の決断をした。
「どうしてもだよ! ありがとね! じゃあ場所は成島くんの家でいいかな?」
「問題ない」
「今週の土曜日とかでいいかな?」
「そうだな。ちょうど妹も合宿でいないから、迷惑をかけることもないだろう」
良い風が吹いている。舞衣は心の中でガッツポーズをした。
家族が家にいないことは、舞衣の計画を遂行するにあたってこの上ない条件だった。
「じゃあ、土曜日成島くんの家行くから、位置情報送っておいて」
舞衣は慣れた手つきで大地のスマホを操作し、連絡先を交換する。
「それじゃ、また土曜日ね!」
舞衣の長くなった影が、大地から遠のいていく。その影を見つめながら、大地は少し引っかかりを覚えつつも、その場を後にした。
翌朝、舞衣はまた校門で誰かを待っていた。
坂を上ってくる2人組を見つけた舞衣が駆け下りる。
「香恋! 泉さん!」
手を大きく振ると、香恋が足早に舞衣の元までやってきた。
歩鳥は一瞬驚いたかのように足を止めたが、香恋の後についてくる。
「舞衣ちゃん、どうしたの朝から」
「あのね、明日、成島くんの家で勉強会することになったんだけど、香恋たちも一緒にどうかなって?」
「ええ、成島の家?」
「若園君もいるよ」
「え、まじ? そ、そっかあ」
おもむろに嫌悪感を見せた香恋が、一瞬で女の顔になる。これがイケメンの正しい使い方だ。
「泉さんはどうかな?」
聞かれて、歩鳥は言葉に詰まる。
明らかに、何か意図がある。そう感じた歩鳥が返答に困っていると、舞衣が歩鳥の目の前までやってきて、頭を下げた。
「この前はごめん! 私感情的になっちゃって、泉さんを困らせちゃった。泉さんは私のこと思ってくれてたんだよね。それなのに……」
本音なのか建て前なのか、歩鳥にはどちらかわからなかった。だが、香恋も見ている手前、迂闊なことはできない。
「ちょ、顔上げて篠崎さん。私も言いすぎちゃったところあるしお互いさまってことで」
「なになに、二人何かあったの?」
何も知らない香恋が、興味深そうに二人を交互にみる。
「私と泉さんだけの秘密。じゃあ仲直りってことで、二人とも一緒に勉強会きてくれないかな? 正直二人きりだと何があるかわからないでしょ……?」
舞衣はどこか恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「まあ、歩鳥もいくなら……」
香恋が探るように歩鳥を見つめる。こうなってしまえば行かないとは言えない。
「香恋もいるなら私も大丈夫だよ」
ぱあっと顔を明るくした舞衣が、歩鳥と香恋の手を包む。
「ありがとう!! ちなみに成島くんには内緒ね! 一人の力で泉に勝つんだーとか言ってたから、泉さんたちが来るの知っちゃうとダメって言うかもしれないから! 香恋に成島くんの家送っておくね! じゃあまた明日!」
仲直り。その言葉に歩鳥はどこかつっかえたような感覚を覚えた。
大きな何かが起こりそうな不安が、歩鳥の中で渦巻いていく。だが、レイも香恋もいるとなると、舞衣も大胆なことはできないだろう。
ただの気まぐれか、それとも計算か。
考えれば考えるほど、歩鳥の頭の中はぐちゃぐちゃになっていった。