炭点前 千猫が口を開く
「染付、染付。うーん。僕はお見かけしたことがないような」
「あら、そう言われれば、彼女がもらわれていったのは、天蜘蛛さんがいらっしゃる前ですわね」
千猫さまは細い指をおとがいに当て、ほうとため息を吐かれていました。
「みっちゃんはね、きれいで、優しい子でした。かたちは色紙重ねという、ほら、正方形をふたつ、少しななめにずらしたかたち。ちょうど主人のてのひらに納まりのよい、大きさでした」
「手に馴染むといって、そんなところも、主人は気に入っていたなあ」
「ええ、そうなんです。蓋には青で描かれた伝統の紋がいくつか、品良く散らされていて。とろりとした穏やかな地の白に、その青が溶けるように寄り添う、風合いがまたよろしかった。蓋と身もぴたりと合う、ていねいに作られたことがよくわかるお香合でした。主人はよく、庭の白玉椿の葉を切って、そのうえに練香を置いていました。お炭点前で、彼女の蓋を開くと、白の上に緑、そしてくろぐろとした練香がてん、とある有様になるの。ほんの小さな空間なのに、雲海や山や空のようだった。すてきだったわ」
「今日ご用意いただいたお香合とは、だいぶんに趣が違う方のようですね」
天蜘蛛さまが拝見をされながら、そう仰います。本日の香合は織部のハジキ。正円や楕円ではないゆがみのかたちが美しい。いかにも織部らしい緑の釉薬が掛かり、鉄絵で草花の模様が描かれています。うん、良い品だ。そう呟いてくださるのを、嬉しく水屋から聞きました。
「そうね、その子もとてもすてきだけれど、似てはいないわ」
「姉妹のような方と離ればなれになったのでは、お寂しかったでしょう」
「それは、もう。でもね、あの子はもらわれていってよかったのよ。それが、彼女のためだったんだわ」
天蜘蛛さまから渡された香合の蓋を開けて、なかや裏をご覧になっていた千猫さまが、音を立てぬ様に蓋を閉められました。その後に処心さまも拝見を終えられ、香合と手燭がこちらに戻されたのを確認して、茶室に戻ります。香合を前に一礼します。
「たいへん結構な御香合で。織部ですね」
「はい。かたちはハジキでございます」
「良いかたちですね。釉薬の緑も、手燭の灯りに照って美しい。すばらしいものを見せていただきました」
「もったいない御言葉で御座います」
「香銘はどのような?」
「夜半の雪で御座います」
「ありがとうございました」
礼をして下がり、粗飯を差しあげたい旨をお伝えします。この後は一献を交えつつの懐石に進んでゆくのです。一度襖を閉めて、膳の用意を確認をしました。黒塗りの膳に、飯碗、汁椀、向付、それから箸。揃っていることを確認し、席中へお持ちしてまず天蜘蛛さまにお渡しします。それから、お手元が照らせるように膳燭を持ち出しました。茶室のなかに加わった長く白いろうそくの上で踊る膳燭の火が、辺りの暗闇の濃淡と茶室の色彩を変えていきます。
「粗飯で御座いますが、どうぞお取りあげを」
千猫さまと処心さまにも膳を御出しした後にご挨拶をして、襖をまた閉めます。さてこの後は、御飯と汁ものを召し上がった頃合いを見て、燗鍋の御酒の持ちだし。それから、飯器と汁の御替え。煮物碗は熱めで御出ししたいのだけれども、用意はどうなっているかしら。と、算段しておりますと、茶室のなかから、献立をお褒め頂く感嘆の言葉とお食事をされる微かな音に続いて、天蜘蛛さまの御声が聞こえました。
「そういえば、さきほど千猫さんがおはなしに出された染付の香合は、どうかされたのですか?なにやら意味深なことをおっしゃっていたように感じましたが」
「意味深?」
「ほら、寂しいけれど彼女はもらわれていってよかったんだって、仰っていらしたでしょう」
「ああ、そのこと。そうなのよ、あんな困ったことさえ言い出さなきゃ、ずっといっしょにいられたらと思ったろうけれど」
「ほう、困ったこととな」
興味深そうに、処心さまが千猫さまへ水を向けます。
「実はな、彼女のことはおれも気になっておったのだ。彼女がもらわれていったあたりは、おれはすっかりしまいこまれて寝こけていたころで、ふいと目を覚ましたときには彼女はもう、おらなんだ。主人はずいぶん気に入っていたように思ったから、孫娘が相手とはいえ手放したのかと、驚いたのだが。なにかあったというなら、是非聞きたいものだ」
「そうねえ。楽しいばかりのおはなしではないのだけれど、こうしてふといま彼女を思い出したのも、詳しくお尋ねいただいたのも、なにかのご縁かしらね」
束の間逡巡してから、千猫さまは微笑まれたようで御座いました。
「せっかくだから、彼女のことをみなさんに聞いてもらうのも、良いように思えてきましたわ。それはね、こういうことでしたの」