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話の終わりと炭点前

「あの頃には、もう稽古場を閉めることを、前の主人は決めていたようです。ですから、あの小鳥の羽には、稽古場の終わりも乗っていて、そういう場所や思い出の塊や繋がりの来し方も供養されたのかもしれないと、そんな風に思うことがあります」

天蜘蛛さまが口を閉じられてからしばらく、茶室にはゆるやかな沈黙が満ちておりました。その沈黙に温度があるのであれば、それは火にかざした手のひらのような温度で御座いました。その温度を包み込むように、ぽつんと千猫さまが呟きました。

「ものにも、極楽というものがあるかしら」

「どうだろうなあ。おれはこのような恰好をしているが、あの世どころかこの世というものすらよくは知らないからしかとは言えぬ。ただ、魂が宿ったならば、やはりどこぞへ行くのだろうし、そこが何か良きところであるようにと願われていたならば、それは極楽なのではないか」

処心さまの御言葉に、天蜘蛛さまはひとつ頷き、しばしのあと、もう一つ頷かれました。

「それでしたら、きっと彼らは極楽往生したと僕は思います。彼らの短い生のなかで宿ったかそけきなにかが、安らかなどこかへ飛んでいった、あれはきっとそういう景色でした」

「そうね、そうだといい。そうだといいと思うわ」

少し照れくさそうな天蜘蛛さまの言葉を、千猫さまの柔らかな御声が受けとめました。処心さまが、合掌して頭を下げられました。

「良いはなしを聞かせていただいた」

「いやそんな、もったいないことです」

恐縮された天蜘蛛さまは慌てて首と手を振ってから、その手を、合掌のかたちにされました。処心さまに倣ってか、それともむかしの主人が七輪の前でそうしていたのに倣ってか。

「久方ぶりに前の家のことをおはなしできて、なにやら、清々とした気持ちです。まざまざと、あの日の空や、前の主人の口元の皺やなんかが、瞼の裏に浮びます」

そのお顔に、ほんのりと穏やかな笑みが浮かびました。

「人は案外にもののことを忘れるけれど、ものの方は、ちゃんと覚えているのよね」

「覚えているから、次の主人のもとへ行けるのさ。忘れてしまうなら、別れがつらい」

「忘れてしまう方が辛くないなんて、人は言うようですが」

「人はひと、物はものさ」

「そう、近くて遠くて遠くて近い。だからきっと、私たちはこうして、時折ひとまねをしてみたくなるのよ」

おはなしがひと段落して茶室にまた沈黙が落ちたときには、炭点前がはじまっておりました。みなさまのおはなしのあいだも、点前は止まることはありません。おはなしも点前も、お互いに邪魔をすることなく、支え合って、ゆうるゆると進んでいきます。茶事には、そういうところが御座います。しばらく口を開く方はなく、みなさまじっと、こちらを見ていらっしゃいました。

良い茶を点てるには、良い湯を沸かすこと。

良い湯を沸かすには、良い炭をつぐこと。

炭と炭をつぐための道具を入れた炭斗などを運び、それぞれ定座に広げます。釜に釻を掛けて、畳に真四角に切られた炉のなかから紙釜敷へあげ、避けておきました。それから羽箒で炉縁を清めていくと、みなさまがお互いにご挨拶をされてから炉中をご覧になるために、膝を進めて近寄っていらっしゃいました。

炉中にはあかあかと熾った種火となる炭がみっつ、三角のかたちに並べてあります。乏しい灯りのなかで、黒々とした炭を染めるその赤は、広がるのではなく内へ内へと明るさを引き込んでいるように見えました。みっつのうちひとつを、手前から向こうに動かしてから、湿し灰を撒きました。炉中の乾いた灰のうえに、少し茶色にも似た濡れ濡れとした炭の線が引かれていきます。その色の違いは不思議と、乏しい灯りのなかでも明らかでした。

冬の炭は、どれもこれもたくましい。でっぷりとした胴炭を種火に接するように気を付けながらいちばんに手前に入れ、そこから次へ次へと炭を繋いでいきます。

俵型のぎっちょ。それを半分にした割ぎっちょ。細長い管炭。それを割った割管。火が付きやすいよう胡粉を塗って真っ白にした細い枝炭。

かたちの違う炭たちを、火箸で挟んでは炉中に入れていく途中、ぱちんと音がして、やれどうやら火が付きそうだと胸をなでおろしました。最後にひときわ小さな点炭が入ったのを合図に、みなさま順に席に戻られていきます。

炉中の温度が上がっていくのを感じます。この熱が、闇に交じって茶席中に広まっていくのを思います。畳の縁に、掛け軸の裏に、突き上げ窓の桟に、躙り口の手掛かりに、御客様の足袋のあいだに。茶室の四隅に届くころには、それはとてもささやかな熱かもしれません。それでも確かにここから、暖かさが繋がっていくのです。炉の熱は、釜の水を沸かすものであり、茶室のなかを満たすものです。

織部焼の香合を手に取り、なかにかたちを整えて入れておいた練香を温灰に丁寧に降ろすと、香合の拝見をお願いされましたので、手燭を添えて御出ししました。

今日の釜は、地金が霰のたっぷりとしたもので、口は内側へ窪んだ姥口のものです。なかは水で満たされています。それを炉に掛け直して水屋へ下がると、どこかしんみりと、千猫さまが口を開きました。

「こうしてお炭手前を拝見していますと、先だってもらわれていった九谷の染付香合のことを、思い出しますわ」

「染付の……ふむ、主人の孫娘さんにもらわれていった子か」

「そう、その子ですよ。水九喜という名です。私はみっちゃんと呼んでいました」

「覚えておる、覚えておるよ。千猫さんと彼女は、姉妹のように仲が良かったなあ」

「ええ、なんだかとても気が合いました。それに、彼女の出番は炉に炭をつぐためのお炭点前で、練香を入れて運ぶこと。釜の私は、よく茶席でもごいっしょしましたから、相棒みたいな気持ちもあるの。ちょうど今の、こちらのお香合と、お釜みたいに」

水屋から、座帚を持ち出します。大きな羽で出来た、はたきのような箒のようなそれで点前座を掃き清めていけば、畳と羽がこすれあって強い音を立てました。茶道口へ下がり襖を閉めると、天蜘蛛さまが手燭と香合をお手元に御引きになりました。

「天蜘蛛さんたちお茶碗や、処心さんたちお茶杓は、お茶を点てるための点前に出られるから、なかなか茶室のなかではごいっしょにならなかったかもしれないわね」

「いやいや点前のなかでは会わぬとも、茶室でいっしょになることも、少なくはなかったよ。茶事ではそうはならないが、大寄せの茶会なんかでは香合は床の間に飾られているだろう。主人は濃い紫の釜敷のうえに彼女を飾るのを、好んでおったよ」

「ああ、そうでしたわねえ」

少し床の間を見やった千猫さまの目は、今置かれているものではなくて、すこしむかしの風景をご覧になったようで御座いました。その横で、天蜘蛛さまが首を傾げておられます。

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