前茶 天蜘蛛が口を開く
省略したかたちで薄茶の道具を水屋から茶室へと持ち出し、さらりと茶を点てます。大ぶりの瀬戸の茶碗に、御三方ぶんをたっぷりと。淡い緑は、薄暗い灯りのもとで夜の差し色のように思えます。天蜘蛛さまが茶碗を手元へ御引きになりました。天蜘蛛さまはするすると薄茶を召し上がると、茶碗の縁を清め、千猫さまへ茶碗を送られました。
「薄茶を一碗でごいっしょにいただくとまた、夜咄らしさを感じますね」
「前茶は、夜咄の茶事ならではだからなあ」
「ええ、こちらもみなさんで前茶を召し上がられるのを見ていると、おなじ思いで御座います。今年も恒例の夜咄だ、と改めてしみじみと」
「恒例というのは、良いものです。変わらぬことの大切さと、変わらずにいることの大変さを思います」
「そうよなあ。年年歳歳、おなじ日がめぐりきておなじことをできるのは、幸せなことだ」
「ももとせを経ようと、それは変わりませんわねえ」
それぞれの御言葉にうんうんと頷かれながら、天蜘蛛さまは据えられた茶筅に目を落とし、そういえば、と呟かれました。
「恒例と言えば、前におりましたところでは、年末の風物詩として、茶筅供養をやっておりました。毎年とは行かず、数年に一度でしたが」
「ほう」
「あら」
今度は千猫さまから処心さまへ、茶碗が手渡されます。茶碗から離した細い指をおとがいにあてて、千猫さまは視線を薄暗い天井へと彷徨わせました。
「私は詳しく存じあげないのだけれど、使いきってくたびれた茶筅を、捨ててしまうんじゃあなくて、お焚き上げして供養するのでしたね?」
「そうです。と言っても、彼らのしていた茶筅供養が、何か本式な決まりに乗っ取ったものなのかそうでないのか、僕も分からないのです。本来は、寺や神社で御経やらなにやらあげてやるものなんでしょうね?我ら茶碗が割れたときの供養にと、塚が建てられているような寺社仏閣もあるように聞きました。それと比べて、その家で行われていたのは、ただみんなで集まって茶筅を燃すだけで、正しく供養という言葉を使ってよいのか……」
「なに、供養をしてやろうという心が、いちばんの手向けだろうよ。あとはそれを表すためのもので、そこはどういうかたちをとろうと、いいのだろうさ」
茶を喫しおえた処心さまが気持ちの良い笑い声とともにそういえば、天蜘蛛さまは嬉し気に肩をすくめられました。
「そう言っていただけると、なんだか僕までほっとします。自分たちで使った道具をきちんと送り出してやろうという人間の心は、なかなか心地の良いものでしたし、僕らにとってもたいせつな時間ではありましたので」
「ははは、それはいい。それならきっと、それはもちろん、紛うことなき、茶筅供養だったのさ。正しいとか間違っているとか、そういうことは周りが勝手に言うだけのことだ」
ああ、まったく、おっしゃる通りと存じます。きっと御寺や神社で催されるものも、うちでされるものも、手を合わせてもらえるだけでも。どうであれ、そこに送り出す心があるならば、間違いなどという言葉にはなり得ない。
「私もほんとうにそう思います。それにしても」
そこで御言葉を区切り、千猫さまがため息を吐かれました。
「毎年のことになるほど、茶筅は役目を終えるのがはやいのね。おなじ茶道具と括られても、茶筅は私たちに比べるとだいぶんに、命が短い。ものの命は人しだいといえど、もともとの定命は、役目によって長短がある。それが、なんだか切なく感じることがあるわ」
「うむ、稽古場で使われる茶筅ならば出番も多かろう。それらの寿命は、ひととせ、ふたたせほどか。道具にとって役目を全うして果てるのは立派、それぞ誉ぞと思いつつ、おれらとあれらはおなじく竹から生まれたためか、なにやらひとしお、いとしゅうて、いとしゅうて」
「分かりますわ。私も、なんとはなしに、鉄から生まれたものは近しく感じますよ。人のいう、血のつながり、親戚の子のようなものとは、こういう感じかしらねえ」
「そういう思いからでしょうね、茶筅供養があると、竹のものたちは、人といっしょに見送るものが多かったですね」
みなさまの召し上がりおわった茶碗がこちらへ戻されます。湯ですすげば、御しまいください、と天蜘蛛さまから御声がかかりましたので、受けました。
茶碗に柄杓で水を注ぎ、清めるために茶筅を振ります。注ぐときはちゃぷちゃぷと弾むような転がるような水音が、茶筅を振るときにはシッシッシッと切るような鋭い音になります。天蜘蛛さまが耳を澄ますように目を細められたのが、ぼんやりとした明かりのなかでも見えました。
「茶筅が水や湯を切る音は、羽ばたきのようです。だからでしょうか、僕は茶筅供養で、彼らが鳥と成って飛んでいくのを見たことがありますよ」
鳥と成って。鸚鵡返しにそう呟いた千猫さまは、興味津々といったご様子で、目を輝かせておられます。
「あらあら、そんなこと、私は聞いたことがないわ」
「何かと化すには、あれらの命は短すぎるような気もするが」
「そうよねえ。是非詳しく、おはなしくださいな。ねえ、処心さんも、お聞きになりたいでしょ?」
「無論だ、是非にお願いしたい」
楽し気な御二方に口々に乞われて、天蜘蛛さまは少し戸惑っておられましたが、ご自身が言い出されたことでもあり、頬を掻きながら、それではおはなしします、と仰いました。
「けれど、僕ははなしが下手なもので、そこはご容赦くださいね」