処心の語る「とりかへじや」、六
それから、さて、どのくらいの日が経ったときだったか。いつも通り稽古が終わった後に、主人と弟子たちが数人、稽古場である広間に残っていた。誰を呼ぶか、何を出すか。そういうことを、わいわいと打ち合わせをしている。茶事の支度だ。仲間内のいくたりかは、自分は出番があるだろうかとそわそわして、様子を見に行っていた。そういう風景は、どこの家でもいつの時代でも、なんとなく変わらないものだろう。
あれを使ったらどうか、これはあれと取り合わせが良いんじゃないか、新しいあれが季節にあうだろう。そんな打ち合わせのなかで、「初心」にお声がかかって、おれは踊りあがりそうになった。ほかの仲間たちも歓声をあげている。やっと、やっとだ! 入れ替えられてから、もうかなり月日が経ってしまったところで、やっと小結を出してやれそうな機会がやってきたのだ。
「ほかに名の上げられた茶杓たちには悪いが、どうしてもこの機会で、小結を出してやりたいのだ。頼む、頼む、『初心』を使っておくれ」
おれは、小結にならって人々に声を掛け、手を合わせて拝んだ。聞こえなくとも、通じなくとも、そうするしかなかったのだ。
「どうぞ、出すだけでも、出してあげてくださいな」
「戻しておくれ、どうか小結を戻してやっておくれ」
「どうか、あやつをあの筒から出してくれ」
あちこちから沸き出す声にふと見渡せば、ほかの仲間たちだった。おなじように言葉を挙げて訴えに加わってくれたのが、ありがたかった。小結は愛嬌良く優しい性質だったから、小結のことを憂いていたのは、なにもおれだけではなかったのだ。みんな、どうしてやればいいのか分からず、そっとしておくしかなかっただけで、それぞれに心を痛めておったのだろう。
実際に道具をいくつか並べてあわせてみよう、と人々のはなしが進んだときにも、「初心」は候補に残っていて、倉庫から出してくることになった。並べてみないと色や形の取り合わせが掴みにくい茶碗や水指や茶入なんかのほかの道具たちとちがって、茶杓は準備段階の道具合わせでは後回しにされやすいので、これはとても幸運なことだった。
主人が奥の部屋から道具を取ってこようと立ちあがり、それでは水屋の横の倉庫のものを取ってきましょうと請け負ったのは、例の粗忽ものだった。あれ、これ、それ、と指を折りながら倉庫へ入っていく。おれはもちろん、その後を追った。
「戻してくだされ、どうぞ私を戻してくだされ」
倉庫に人が入れば、いつものように、うろん、うろろん、と、小結がまじないを唱えるように訴える。もちろん粗忽ものには聞こえぬ。だけれど、おれもみなも、その声に加わった。粗忽ものは、相変わらずがたぴしと倉庫から箱を出しては、水屋に箱を並べていく。そして「初心」の筒も、水屋にやってきた。小結は自分の置かれている状況を理解していないらしく、戻してくだされ、と言い続けている。
「やっと、やっとだぞ」
小結に声を掛けても相変わらず姿は見せないし、様子は変わらないが、おれたちは安堵していた。ずっとかは分からない。さすがに月日が経ってしまって、主人が取り違えに気付いて戻してくれる、ということは難しいようにも思った。ただ、とりあえず今だけは、小結を筒から出してやれそうであった。それはきっと、小結にとっては良いことのはずだ。
いくつかの箱を並べたところで、粗忽ものが、おやと動きを止めた。「初心」の筒の蓋がきっちりと閉まっていないのに気が付いたらしい。それはそうだ。しまったときに、無理に押し込んで無理に閉めたのだから、栓のかたちである蓋は閉まりきらず、身とのあいだにはあいだが空いてしまっている。なぜしまうときに気付かず、今それを気にするのか。粗忽ものは力を込めて筒の蓋を引き抜いた。そんなことをせず少しずつ左右に揺すりながら開けてくれればいいものを、という小言はこの際呑み込んだ。
蓋は開いたが、筒を逆さにしても小結は出てこない。常々小結から聞いていた通り、すっかりはまりこんでしまっているようだ。筒を縦に振ったり、横にゆすったり、筒の底を叩いたりしても、出てこない。しまいには金槌で釘でも打っているのかと思うような動作になったが、小結は出てこなかった。
「ほんとうにぴたりとはまり込んでいますのね」
「いやはや、これでどうして入れたときに気付かないのか」
「出すのにこれだけ苦労するなら、そりゃ入れる時だって苦労したでしょうにねえ」
呆れたような仲間たちの声に、おやと胸騒ぎがした。粗忽ものが、これを取り出せるだろうか。取り出せないからと諦めて、見つからなかったから今回はやめにしましょうなどと主人に言われてはたまらない。蓋がとれたところまでは、やっとやってきたのだ。あと少しで、出してやれるのだ。
主人か、誰か、通りかからぬものか。廊下を見ても人気がない。おろおろとするおれたちとは対照的に、粗忽ものは変に鷹揚としていた。筒を覗き込み、細い火箸のようなものをおもむろに手にする。それを筒に差し込み、そして。
ぱきん。
それは、でっぷりとした小結が折れるには、あまりにも簡単な音であったよ。
誰も声をあげられなかった。悲鳴に成りそこねた息を呑むような何かが、水屋のあちこちから聞こえた。おれは、呆然として立ち尽くしていた。何が起きたのか、あまりにも明白なのに、まったく理解ができなかったのだ。
畳のうえに、折れた櫂先が落ちた。ずっと見つめても、それは、折れた小結の櫂先以外のなにものにもなってはくれなかった。あまりにも衝撃的なことが起きると、声も体も頭も固まってしまうのだなと、おれは頭のどこかで他人事のように思っていた。
誰よりも平静だったのは、小結を折った粗忽ものだった。少し驚いたような顔はしていたが。もちろん、折るつもりはなかったのだとは思う。隙間に入れてちょいと動かせば出てくるだろう、くらいに思っておったのだろう。
火箸を横に置くと、さらに筒を振り、なかから柄を振り落とした。それは小結が自慢にしていた大ぶりの櫂先にあたって、乾いた音を立てる。今度ははっきりと、水屋にいた仲間たちから悲鳴があがった。それでもおれの喉はすっかり枯れてしまって、空気の音すらでなかった。
もちろん粗忽ものにその声は届かない。眉を寄せて、辺りを見回す。誰も一部始終を見ていなかったと確信すると、懐から懐紙をだしてくるくると小結を包み、袂へ入れた。こんなときばかり手早く静かな動きであった。そして筒を手遊びのように回しながら、なんたることぞ! 水屋の棚の引き出しを開けて吟味もせずにおれを掴むと、筒に入れおったのだ。
こんなことが、許されるのか。
粗忽に粗忽を重ねて行くとは。そしてそれが正しく収まってしまうとは。おれはな、なんだか最初に間違えられたときより、この方がよっぽど頭にきて頭にきて……。あれだけ何事も受け入れろと口を酸っぱくしていってきたのはおれなのに、いま小結とおれに起きたことは、到底受け入れられないと、そう感じた。
あんまりではないか、おれがこうして戻ってしまえば、小結のことは「なかったこと」になってしまう。いっそ、悪意や意図があって欲しかったとすら思った。ただ粗忽であるが故に起きただけなのが、かなしゅうて、かっかときたのだ。
「ああ」
小結がそう小さく呻かねば、おれもぐつぐつ沸騰する感情のあまり、筒のなかで折れてしまったかもしれぬ。小結は、ああ、ああ、といくつか細くため息のような声で、何かを呟いていた。おれは必死に耳を澄ましたが、意味を汲み取れなかった。だというのに。
「よかった、よかった」
最期の、その言葉だけは、何故だかはっきりと……。もはや姿は見えないながら聞こえてきた安堵しきった声に、おれのなかの怒りは、あっというまに萎れきってしまった。
なにも。なんにも、言えなんだ。小結にも、その粗忽ものにも、他のなにかやだれかにも。悲しみも怒りも言葉も声も、その瞬間に、消えてしもうた。
道具とは、困ったものだなあ。人を恨めれば楽だろうに、小結はたとえ何の恩もない粗忽ものであっても人には恨みを向けられなかったのだ。あの黒々とした縄のような呪いをおそらくは、自分に向けてしまった。そうして命を縮めたのだ。
しかし反面、先代の主に呼ばれたかなと、そういう気もせんでもない。先代は小結を、茶友のようなものだと言っていた。だから、人の好いにこにことおおらかな小結に戻れるうちに、先代が呼び寄せたのかもしれんなあと。
うん、そういう風に、おれは思いたいのだろうな。小結で、山盛り二杯。せめてあの世でまた先代の茶に楽しそうに付き合うてやっているのだと、おれは信じてみたいのだろうよ。




