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処心の語る「とりかへじや」、五

ある日おれは、なんとかもう一度はなしをしようと肚を決めて、倉庫の板の間に座った。小結はとりとめなくずっと、耳をそばだてても意味をくみ取れぬなにかを呟いていた。倉庫は掃除が行き届いているが、それでもどこか埃っぽい。日が入らぬように窓はいつも閉められていて、空気は流れず沈殿していく。その重みのなかに、小結の呟きも泥のように溜まっているように思えた。

「なあ、小結」

おれの呼びかけに対しても、小結は声の調子を変えなかった。

「そろそろ諦めろ」

小結の声が途切れる。それが聞いてくれているという合図であるように祈りながら、おれは続けた。

「今のお前は、よろしくないぞ。自分でも、そう分かっているのではないか? 今回の出来事は、のびのび暮らしていたお前には辛かろう。しかも無理やりに合わぬ筒に押し込められて、かわいそうだとは思う。だが、おれたちは、あらゆるものを受け止めて受け入れていくしかないのだ。気持ちの整理がつかぬなら、すぐに出てこいとは言わない。だがせめて、まず、痛い、辛い、と口にすることと、人がやってくるたびに出してくれと呼びかけるのは、もう止めないか」

「痛い?そう、大変痛い」

明確な返事があり、おれは口をつぐんだ。

「ですが、痛いのはいい、もう慣れました」

「うん、そうか。それは、大変なことだったな。そうやって痛みを受け入れたように、ゆっくりでいい、そこを自分の居場所として、受け入れられないか」

「それは、だめだ」

間髪を入れぬ返答に、おれは肚に力を込めた。いつもここから、堂々巡りに入ってしまうのだ。なんとしてでも、ここを翻意させねばならない。

「よいか小結。だめと言うても、これは仕方のないことで」

「だめだ、だめなのです、だめです。ここはだめだ」

小結は急に大きく声を荒げて、おれの言葉を遮った。そのまましばらく、だめだだめだと繰り返す。小結がだめだとひとつ言うたびに、倉庫のなかに灰色の細かくて湿ったものが散り、息が苦しくなるような気がした。ふいに言葉が断ち切られ、沈黙が落ちる。

「ここでは、主人が私に気付かぬ」

主人。今の主人じゃないというのは、すぐに分かった。普段使いの茶杓の棚を開けて、迷わず小結をそのなかから取り上げていった、前の主人だ。

「そうか、お前、主人を待っていたのか」

おれたちは、誰も気付いていなかった。小結が、主人が変わったことを、まだ受け止め切れていなかったことに。どのように、いつ、その人の不在を受け入れていくのか。落ち着くまでにかかる時間はそれぞれだろう。小結の混乱は、前の主人が亡くなったときに始まっていて、こたびの取り違え騒動は、それに拍車を掛けてしまった。

「主人の一服には、私が付き合ってやらねばなりません。あの人は、私がごいっしょに一服をしないと落ち着かないと、そうおっしゃるのでございますから」

滔々と平静な口調で紡がれた言葉を、聞かなければよかったと、おれは思った。小結は、まだ、前の主人と別れることが出来ずに、我々のだれよりも、人々のだれよりも、ずっとゆっくりと、前の主人に別れを告げつづけていたのだろう。だれにもいわずひとりでずっと、喪に服していたのだ。それはおそらく、小結と前の主人とのあいだにのみあるべきもので、だれかが立ち入ってはならぬようなものではなかっただろうか。だから、おれはほんとうに、聞かなければよかったと、つくづく思った。

「そうだなあ。お前で二杓、それがいちばんよいと」

「ええ、そりゃもう、絶対です。山盛りですよ、山盛りにすくって、二杓」

「大服に点てて、ぐっと喫していたなあ」

「少しお行儀は良くないかもしれませんがね、見ていて気持ちが良いですよ。めっぽうお茶のお好きな方ですから」

久方ぶりにすらすらと明瞭にはなす小結には、そのころにはとんと聞けなくなっていた、人懐っこいような口調さえ戻ってきていた。

「主人は水屋の棚に私がいると思っているでしょう。いつも、開けてすぐに、私を見つけていましたよ」

「うむ」

「きっと主人は、私を探しています」

「うむ」

「ね、ですから、戻らねば」

「うむ」

「ここでは、だめだ。だめなのです」

「うむ」

小結の声はそこからだんだんに不明瞭に低くなっていき、倉庫の空気は澱みを増していった。おれはその時やっと、受け入れろ、という言葉は何もならないということがわかった。気の利かぬ自分に心底呆れ果てたよ。よそから見れば、受け入れるのがいちばん楽で、正しくさえある、それはそうだ。だが、いちばんであることが、小結にとってなんの意味があるだろう。元に戻してやらねば、もう、元の小結には戻れない。そういう風に、こんがらがってしまっていたのだ。おれは静かに腰をあげた。

それはつまり、おれにはもう小結にしてやれることがないということでもあった。相変わらずおりおりに声を掛けるようにはしていたが、小結を説得するような言葉はそれ以降は使わなかった。小結のはなしに相づちを打ち、時折前の主人のはなしをする。そうすると、うまくすれば少しのあいだ、小結の声は前の調子に戻る。それだけしか、できることがなかった。

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