会のはじまり、二
「みなさま、ご準備がよろしいようでしたら、どうぞ外の腰掛にてお待ちくださいませ」
「はい、伺わせていただきます。千猫さん、処心さん、お先に失礼します」
天蜘蛛さまが会釈をされ、庭に面する障子と、板張りの廊下のむこう、庭へ降りるガラス戸を開かれました。沓脱石のうえに置かれた手燭が、心細げに揺れながら辺りを照らしております。それを、天蜘蛛さまが続く御二方へと差し掛けられれば、それを頼りに用意の草履を履かれたみなさまが、露地に出られました。つるりと落ちた冬の太陽の面影はもうそこには感じられず、木々の葉が無数の黒々とした影を落としています。ひたひたと、底冷えが苔生した固い地面で揺蕩っておりました。
「なんだか今宵は水っぽい月ですね」
「ほんとうね、摘まんだら指先が濡れそうだわ」
「水の上に揺蕩うものかと思うておったが、水を滴らせるものだったとは、これは面白い」
みなさまが御声を掛け合って、庭の腰掛待合に落ち着かれる気配が感じられました。腰掛待合にも炭を入れた手あぶりを用意しましたが、この寒さではどれほど効果があるものか。あまり御寒くないと、よいのですが。
「天蜘蛛さんがここへ来られて、三年は経ったかの」
「そうですね、そのくらいになりました」
「前は、大きな社中をお持ちの、お茶のお師匠さまのところへいらしたのよね」
「はい。大きな稽古場になったのは先の戦後ですが、こぢんまりとした教室だった頃から、何代か大切にしてもらいました」
外から微かに聞こえる御はなしに耳を傾けながら、こちらは席の支度を進めていきます。もちろん四畳半の茶室はご来駕まえに得心するまで準備を整えてありますが、それでもなお手落ちがないか、最終確認は隅々まで行わねばなりません。最後に香を焚き席中を清めます。御待たせするのは気が咎めますが、万が一にも、準備の手抜かりで御客さまに粗相があっては悔いを残します。ありがたいことに庭の腰掛待合では、寒さもこちらも御気になさらず、会話を交わしながら、ゆったりと御過ごしいただいているようでした。
「それは、良いところにいらっしゃいましたねえ」
「ええ。ただ残念ながら、最後の主人には茶の湯の後継者がいなかったのです。体を壊して稽古場を辞めることにしたときに、道具はみな、散り散りになりました。家にはいくつかを残すのみで、大半を、弟子や茶友に譲ったり、ほかの稽古場へ寄付したり、道具屋へ手放したり」
「むかしは自分がやらずとも後の代のためにしまっておきましょう、なんてことはままありましたけれど、最近はそうでもないから、数年でばらばらなんてこともあるみたいですねえ。ほかに使い道がない、なんて言われ方をしてしまうと、茶道具も肩身が狭いわ」
「さてもさても、諸行は無常なものよ」
処心さまの御声の響きは、少し面白がっているようでもありました。
席中の様子に得心してから、手桶と手燭を持って躙り口から身を乗り出しました。こちらと入れ替わるように、冷えた夜の匂いが、警戒している猫のように背を低くして忍び足で茶室のなかへ入ってきます。
冬の夜の空気は清々として最後の一息、少しだけ甘い。木々の配置によってここからでは枝折戸のむこうの腰掛待合は見えませんが、そこからの静かでいながら和やかな御声は、いっそうはっきりと耳に届きます。
「三代いっしょにいたお公家様の書簡や、茶席でごいっしょすることの多かった捻貫の茶入や、倉で御隣にしまわれていた彫三島の茶碗や……みなさんともう二度とお会いすることはないのだなあと思ったら、僕は寂しくて、寂しくて、離れ難くて。でもそんな水を掛けられた半紙みたいに湿っぽくまとわりついているのは僕だけで、ほかの方はおおむね、そういうもんだとさばさば笑っておられました」
「割り切れた方たちばかりだったのね」
「まあ泣いたところで、自分で行く先を自由に決めるわけにはそうそういかぬ。風任せならぬ人任せ。ものの定めよ」
飄々とした処心さまのお言葉に、天蜘蛛様は苦笑をされたようで御座います。きっとまた、頬を掻いていらっしゃることでしょう。
「そうそう、みなさんもそうおっしゃって。僕みたいなのの方が珍しいんでしょうね。その、僕は窯元から直接前の家に買われて来て、そこでこうして付喪神と成った。ですから、居場所を変えるのは初めてだったんですよ。でもほかのみなさんはもう長いことおられ、あちこちとお渡りになった方が多かったから」
「産まれてから長いと、しぜん、そうなりますわねえ」
手燭と手桶を持って、御はなしを伺いながら庭に出ます。手燭をつくばいの横に置きますと、濡れた石の色がてらてらと生きもののように光りました。手桶からつくばいにいくらか湯を移し、辺りを片づけました。
「僕は幸運です。前の場所も、次にやってきたここも、居心地がよいですから」
しみじみとした天蜘蛛さまの御声が、葉と暗がりの隙間から聞こえてきます。
「そうよな。ここは教場ではなく主人が数寄者なだけだから、たくさんの人の手に触れることはないが、丁寧に扱ってはくれておる。茶室もなかなか具合がよい」
「お仲間も数は多くはないですけれど、こうして気の良い方が多いわ」
「ええ、長くごいっしょにいたいものです」
「まあ、すぐにどこぞへ彷徨う羽目にはならんだろうよ。主人の孫も、我らのごときが好きなようだ」
「ああ、あの子。なんでもかんでも、かわいい! っていうのよ。それこそとても、かわいいわ」
「小さきものはみなうつくし、ですか。人はむかしから、変わりませんね」
みなさまを茶室に御招きする準備は、すっかり整いました。御はなしの切れ目を見つけて、御迎え付けに参ります。天蜘蛛さまがすぐにこちらに気付いて下さって立ち上がり、お手元にあった手燭をもって枝折戸のところへいらしてくださいます。
あちらの火と、こちらの火。
濃い緑の葉とまだ咲かぬ蕾をつけた遅咲きの椿の横で、手燭を交換致しました。お辞儀をすれば、足元で影が、まるで酔った人のように踊りました。
水屋へ戻り控えていれば、粛々と御席入りが進む様子が感じられました。つくばいで手と口を清められたみなさまが茶室へいらっしゃいます。躙り口の戸が小さな呻きのようなため息のような音を立てて開かれました。畳を擦る足音が聞こえ、それからまた戸が鳴り、閉められる。それを合図に庭の後始末をして戻れば、茶室のなかからはひそりとも音も声もなく、みなさま席中の拝見を終えられ、席に御着きになっておられるようで御座いました。
茶道口にて心を静め、襖を開きます。四畳半。月明かりのみの庭は暗い。そして小さな灯りだけの茶室も暗い。しかし、その暗さは、おなじ言葉でくくるにはあまりに種類が違うようでした。暗闇には、ひとつひとつ、名を付けてやりたくなるようなところが御座います。
敷居のあちら、見え辛くとも分かる、みなさまの、穏やかな御顔。床の間の横から、天蜘蛛さま、千猫さま、処心さま、と御座りいただいています。我々のあいだには無限の空間があり、それでいてぴたりとお隣にもおりました。互いに礼を交わします。
四角く畳に切られた炉の横に、短檠を据えています。その灯りが指先を伸ばしたり縮めたりするかのように茶室の畳の目を這い、その周りを色をだんだんに濃くしながら影が覆っておりました。