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処心の語る「とりかへじや」

これはおれが、前の、いや、その前の家に居たときのことだ。その時の主人は、天蜘蛛さんの前の主人とおなじく多くの門人を抱える茶の湯の師匠だった。といっても、そのころよくあったように本業は別で、そちらもなかなかのやり手だったようだ。つまり、ありていに言えば、儲かっていたのだろう。羽振りの良い御仁であったし、目利きでもあって古くから大切にされたものを多く持っていて、自然仲間も多くいたものだ。

さて、ご存じのように、我々のような茶杓には、銘のつけられたものがある。我らはただちょいと曲げられて削られた竹の棒だが、名を付けられてそれぞれに思いや情景を託されるわけだ。例えば、「花霞」「ほととぎす」「武蔵野」「初霜」なぞの季節のもの。おれの銘である「初心」や「一期一会」「白珪」のような禅語。それから、まるで独り言のようなものや、かたちの特徴からとったもの、和歌が名として付けられたものまで、まあとにかく色々だ。数寄者自らの手で削られたり、または宗匠や高僧に名付けられた我らを使い、人はさらにいくつもの意味を見て、思いをつくる。

そういう銘をつけられた茶杓の多くは、筒に入っている。銘と、ときには作ったものの名や花押も書かれた、竹の筒だ。そこに木片できちんと合うように蓋を作る。ワインという洋酒の蓋に似ているな。あれはコルクというのだったか。そのうえさらに、木箱に入っている場合もある。竹の切れ端としては、なかなかありがたく扱ってもらっていると思うぞ。

ただ、普段使いや稽古で使う茶杓は別だ。銘や誰それの作というのはほとんどないし、いちいち取り出さなくても良いように筒などもない。ここでもそうだが、使いやすいように水屋の引き出しにそのまま入れられていたり、箱や缶にまとめられてしまわれていたりする。

前の前の家ではそういう茶杓のうちのひとつに、小結という名のものがおった。

水屋茶杓などと呼ばれる、準備用の茶杓があるな。茶を掬う櫂先の部分がうんと広くなっているようなやつだ。小結はそこまではいかず普通の茶杓であったのだが、おれなぞと比べると背は低いのだが、柄の部分がずいぶんと太く、櫂先もそれに合うように幅広で、たっぷりと茶が掬えた。

そんなところから小結と呼ばれはじめたのか、自分で名乗ったのか。名にしおわばというやつか、付喪神のすがたは愛嬌のある子どものような白いふっくりとした顔立ちで、体つきは体つきででっぷりとしたやつだった。着流しで羽織を着ているのでいでたちはそのころの商家の旦那のようでもあったが、中身と顔がぱんぱんの幼子のようであったから、もし人の目に映ったのなら、いったい何をしているものかと悩まれただろうなあ。白竹で、使い込まれた染みがいくつかあるのだが、それが顔のあちこちにほくろになっていて、にこにこ笑う様子と合って、また愛嬌だった。

その時の主人はとくにそいつを気に入っていた。稽古前や仕事後、がぶりと茶を喫するのが好きな方でな、そういう時は必ず小結が付き合ってやっていたよ。なかなか大きな稽古場だったから、水屋の棚には稽古用の茶杓が何本かたばになって入っていた。そのなかから、おう、いたいた、と小結を摘まみあげて、ひょいひょいと連れていく。

ーこいつで抹茶を山盛り二杓、湯は柄杓に八割。それがいちばん、うまいのさ。

自分で茶筅を振りながら、弟子や家族に向かって楽し気にそんなことをよく言っていたよ。そんな調子だから小結の方ももちろん、主人の喫茶に付き合うのが楽しくてたまらない、良い主人にめぐり合えたと、ありがたがっていた。

その主人は長生きだったが、まあ人の子だもの、ある日亡くなった。我らもしばらくなにやら儚い気持ちになったものだが、小結はそんな風にとりわけ好まれていたものだから、だいぶんに落ち込んでいた。四十九日を終えても折々に、先代は自分で茶を掬うとぴたりと好みの味にできると喜んでいました、などと涙ぐんで手を合わせ、偲んでおった。

商売の方も稽古場の方も、いちばんうえの息子が継いだ。新しい主人というわけだ。前の主人にはその息子以外にも子どもが何人かいて、みんな熱心に茶の湯をしておった。彼らも引き続き、稽古場にやってきていたのだが、その弟のひとりに、どうにも粗忽なものがいてなあ。

その粗忽ものは、茶の湯のことは好きなようだが、おれらのことは好いてはいるのかいないのか。さっきの千猫さんのおはなしじゃないが、人はどれだけ気を付けていてもどうしたって粗相はするさ。それは仕方ない。しかし、その息子の粗相は日常のことだから参った。茶碗同士をこつんとやったり、茶入れの蓋をひょいと転がしたり、お盆をぽいぽいと重ねたり、悪気がないのは分かるのだがとにかく動きがおおざっぱで、まあ楽隊のような、いや、でんでんだいこのような御仁だった。そのうえに、というか、そうだから、なのか分からないが注意力も散漫で、忘れっぽいので困ったものだ。しまわれる途中でほっぽらかされた経験があるものは多かった。

ははは、天蜘蛛さんは震えておるようだが、そこのわれものたちは、みなおなじような様子だったよ。茶杓ならば床に投げられてもやれやれ乱暴なと顔をしかめてそれで済むが、陶器や磁器じゃそうもいかぬ。もし当たりどころが悪ければ……。茶の湯の数寄者は、茶道具が好きで好きでたまらんと、猫の子でも撫でるようにそおっと我らを扱うものが多いが、たまにこういう者もないことはないな。

先代はその気質をよぅく吞み込んでいたものだから、道具の取り扱いには常に目を光らせていて、稽古でも水屋でも、そいつの手つきに細かく口をはさんでおった。作業をしながら目線を外すな、地面に置いてから手を放せ、高い位置で扱うな、一度にやるな、力を入れすぎるな、次のことを考えながら道具を扱うな。なんともはや、小言の嵐さ。しかしそれでましにはなれど完全には直らんかったのだから、それぞれ生まれ持った性分というのは面白くもあるな。

とにかく、先代にそれだけ喧しく言われても直らなかったのに、いちいちの監視がなくなったものだから、その粗忽ものの動きはどんどん派手になっていった。新しい主は、さすがに稽古中の点前で粗雑な動きが見られればぴしりぴしりと直していくが、水屋のことまではなかなか目が届かない。というよりも、兄弟であるから、逆に言いにくかったのもあるかもしれないが。

「ものとて寿命はあるものだ。何かあったらそこが定命だ」

「使われた結果が何であろうか。使われることこそが愛さ」

「使われ方に口を挟むのは、道具としていかがなものか」

そんなふうに嘯いたり悟ったりしたようなことを口にするものが我らの仲間には多いように思うが、そういうやつらですら、その粗忽ものが水屋に入ってきたら首を縮めて息をひそめていたものだ。わざと粗末に扱っているのではないかと疑りたくなるような有様だったからなあ、やむを得まいよ。

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