濃茶 処心が口を開く
夜のなかに音がすっかり溶け切って、空気はまたいちだんと冷たさを増したようでした。外の腰掛待合から露地のなかを雁行して進まれた御三方が御席に再び入られると、部屋の暖かさに少し御体を緩められたようで御座います。
揺れる蠟燭の炎を頼りに、茶碗や道具を持ち出し、清めていきます。御三名さま分をきっちり用意してきましたので、茶入のなかの抹茶は全て楽焼の茶碗へあけきります。細かい陰影が暗い茶碗のなかに溜まりました。ちょうどよく煮えたぎった湯を柄杓で掬って、慎重に注ぎます。抹茶の粉が湯で潰れていく、この時のかぐわしさは、言葉ではとてもあらわせません。
抹茶に対して湯の量が多く飲みやすいようにさばさばと点てる薄茶と比べると、湯と茶を練り合わせてできる濃茶は、色も、香りも、口当たりも、まったく別のものです。液体というよりも、柔らかな個体のようでもあります。
抹茶の粉を茶筅で湯に馴染ませたあと、少し力を込めて、ざり、ざり、と音を立てて練ってゆきます。茶筅が茶碗のなかで身をくねらせ、また新たな影を躍らせます。この茶筅もいま、少しずつ寿命を縮めているのでしょうか。濃茶を点てていると、抹茶茶碗が大切なものを零さぬように丸められた両のてのひらのように思えることが御座います。湯と抹茶がかたちと温度を変えていくのを、手のひらはじっと受け止めています。
湯を足し、満足のゆく茶を練り上げたところで茶筅を上げます。穂先から重みをもったしずくがひとつ垂れ、茶碗のなかの茶に、小さな波紋をゆっくり作り、また消しながら、混ざっていきました。畳のうえへ戻した茶筅の先は、深いみどりに染まっています。みどりとは、色を表す単語であり、艶を表す単語で御座います。乏しい灯りでもその色の豊かさは、はっきりと分かります。
手燭といっしょに茶碗をお出しすれば、天蜘蛛さまがにじって取りに来てくださいました。一口召し上がるのを見計らって、服加減をお尋ねいたしますと、大変結構でございます、と満足そうなお返事を頂戴して、安心しました。
天蜘蛛さまが召し上がり、飲み口を清め、千猫さまへと茶碗を御手渡しされました。双方が礼を交わされ、改めて天蜘蛛さまがこちらに顔を向けられました。
「大変結構に頂戴いたしました」
「ありがとう存じます。茶は主人の好みのもので御座います」
「僕が来たときからずっと、主人の茶はこちらですね」
「美味でもあるのでしょうが、主人は舌になじむ、という言い方をしておりますね」
「主人に似てきたのか、僕の舌にもとてもなじみが良かったです。良いお茶をありがとうございます。ああそれから、先ほどのお菓子も、とてもおいしく頂戴しました。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。初霜を模したものをご用意させていただきました」
「それはそれは、季節を感じられるものをご用意いただきまして」
千猫さま、処心さまと召し上がられた茶碗が、挨拶がひと段落するのを見計らって、天蜘蛛さまのところへ戻ります。みなさまが順々にご覧になられたあとに、手燭とともにこちらへお持ちくださいました。手燭を取り込み、それから茶碗を手に取ります。濃茶が喫い切られたあとの茶碗は、内側にぐるりと緑の釉薬をまとったようになって帰ってまいります。
「さて、遅くなりましてはご迷惑かと思いますので、続けて薄茶を差し上げたく存じます」
「お心遣いに感謝します。どうぞよろしくお願いいたします」
夕暮れに始まる夜咄の茶事は、通常の昼に行われる茶事と違うことがいくつもあり、このように薄茶を濃茶の点前に繋げるようにして差し上げるのも、そのひとつで御座います。
濃茶の道具を水屋に下げ、どうぞくつろいでいただけますようにという思いで、座布団と手あぶりと煙草盆、さらに飴細工と味噌案を挟んだせんべいを並べた盆を御出ししました。それから薄茶用の道具を持ち出し、袱紗をさばいてそれらを清めていきます。
茶杓を清めはじめたところで、処心さまがふいに口を開かれました。
「先ほど、千猫さんのおはなしを聞いたときに思っていたのだが、おれも忘れられない声があってなあ」
「人の声ですか?」
「いや、同胞の声よ。千猫さんとさかしまに、おれはその声を、人の子のように忘れることが万に一つもあってはなるまいと、折々自分を戒めておる」
「すてきなお声だったのね」
「そうさな……うむ、どうだろうなあ。今わの際の、声であったのだが、悪い声ではなかったよ」
処心さまの御言葉に、なんと、まあ、と天蜘蛛さまと千猫さまが口々にあいまいな言葉をこぼされました。それから遠慮がちに、千猫さまが首をかしげて処心さまをご覧になります。
「詳しく、お伺いしても良いものかしら?」
「いや、もったいぶった言い方になってしまったな、気を使わせて申し訳ない。しかしこうして口に出したのだから、戒めのひとつとしてみなさんにも聞いていただけるのはこちらとしてはありがたいのだが、いかがか」
「それはもう、お伺いして良いのならお聞きしたいです」
「ええ、私もよ」
御二方の打って返るようなお返事に軽く頭を下げてひとつ咳ばらいをなさった処心さまは、襟を正し、改めて口を開かれました。
「ではおれも、ひとつ話をさせてもらおう」




