千猫の語る「あの子の声」、五
そんな私の祈りとは裏腹に、彼女の出番はその冬たびたびやってきていました。なにか、その時にふさわしい意匠が彼女のうえに見出されていたのかもしれません。私は彼女がお茶席に出るたびに、どうぞ無事に終わりますようにと、はらはら過ごしたものです。
その日の茶事は、偶然というか、またも主人の竹馬の友を数人招いた小さなものでした。待合では思い出ばなしに花が咲き、近況報告が飛び交って。でも茶室へお客さまが入られてからは、静かな会となりました。気づまりや緊張のあるものではなくて、親密なもの同士だけが得られる、黙っていても心地がよくてほのぼのと暖かい。風のない日の満開の桜を見ているような静寂でした。
私はたっぷり水を注がれて、五徳のうえに収まっていました。真塗の炉縁がつややかでした。下火として入れられていたのは大ぶりの炭がみっつ。丁寧に火をつけられていたので、それだけでもしっかりと熱かった。
お炭点前が始まって、炭や火箸や釻などの道具といっしょに、彼女が茶室に入ってきました。伏目がちに静かに座っている彼女は、山草をかき分けたときにふいに現れた、細身の白い百合の花みたいでした。
炉の五徳のうえから紙釜敷のうえへ、私は動かされました。みっちゃんと私は、並んで炭が継がれていく様を見ていました。主人の手つきは迷いがなく、ああ、これはしっかり炭に火がつくな、と思いました。炭を全て炉にくべたあと、主人が彼女を手に取って蓋を開きます。彼女が抱えていた、かたちを整えられた真っ黒な練香。それが火箸でつままれて、温灰のうえに置かれました。お客さまから香合の拝見が乞われます。
主人が快く受けて、彼女を手のひらのうえに乗せました。向きを変え、畳に置く。その一連の手つきは、十分に注意が払われたものです。彼女も変な気を起こすことなく大人しくしていたので、私はほっとしました。
主人が一度水屋に下がると、お客さまが香合を手元に引いて、しみじみと見ていました。最初の方は、癖なのか、うんうんと頷くようにしながら彼女を眺めました。全体を見て、慎重に蓋を開き、身をひっくり返して見て……。よいねえ、そうだねえと、お客さま同士が言い交わし、とても満足そうに拝見されていて、みっちゃんもそれをどこか誇らし気に見守っていました。その光景はなんだかこちらが嬉しくなってくるように、穏やかでした。
「ふふ」
思わず、小さく笑い声が漏れました。炉のなかは、すっかり熱くなって、私のなかの水は、私を歌わせるのに十分な温度になりつつあったのです。おや、とお客さまが顔をあげました。
ー湯が沸いてきた。ご名炭だねえ。
ーまるで相づちを打ったようじゃないか。
ーいやほんとうだ。良い塩梅で、沸くものだね。
控えめで和やかな笑いが、茶室に響きました。
「あはははははは!」
けたたましい笑い声が、急にそこにかぶさっていきました。みっちゃんでした。自分の肩を抱きしめるみたいにして、体を折って、みっちゃんは笑っていました。いつもにこにことして朗らかな子ではあったけれど、そんな笑い方を見たのは初めて。私は息を呑みました。どうしたのとさえ言えず、ただ、お客さまが香合を戻される音と、つんざくようなみっちゃんの笑い声の不協和音を聞いていました。
ぴたりと、みっちゃんは動きを止めました。
「いいな、やっぱり姉さんは素敵だわ」
じょじょに顔を上げていく彼女の大きく見開いた瞳が、黒々と光を吸い込んでいました。主人が茶室に戻ってきて、香合に関する問答が、主客のあいだでやりとりされます。そして礼が交わされて、主人の指が彼女を取り上げ、主人が身を起こそうとしていました。
「だから、そうだ、きっと、そう」
彼女は、私の方へ手を差し出しました。私は反射的に身をこごめました。その手を取ってはいけないと思ったのです。みっちゃんは身を揺すりました。百合のはなが、はなびらの一枚からぼろぼろと崩れ落ちていくような、どろりとしたしぐさ。
主人の手が、揺れました。香合の蓋と身とをしっかりもっていたはずの、指が、大きく跳ねて、ずれて、滑って。
「あたし、姉さんに当たれば、いいんだわ」
あ。
茶室のいろいろなところから、声があがりました。みっちゃんの、白い体が、釜の、私のうえへ向かって落ちていく。それは須臾のあいだだったのでしょうけれど、とてもゆっくりと、止まっているかのようにゆっくりと、見えました。目を閉じたいと思ったのに、閉じることができなかったのを覚えています。
ー危ない、危ない。
そぞろな主人のひとりごと。お客さまが、一拍置いてから口々に、ああ驚いた、こわいねえ、よかった、と感嘆したので、茶室は賑やかになりました。いつもはゆったりした動きの主人が、さっと左手を私のうえにかざして、みっちゃんの身はありがたいことに、そのうえにちゃんと乗っていたのです。
主人は左右の手をしっかり自分の体の方に引き寄せると、なんとか掴んだ左手の彼女の身のうえに、右手で持ったままだった蓋を乗せました。両手を、蛍を閉じ込めるようなかたちにして、ご無礼ですがこのまま失礼、と水屋に下がっていきます。
みっちゃんが無言で立ち上がり、ふいと姿を消しました。主人の皺のある指のあいだから、その、人の手で作れる小さな暗闇のなかから、あの子の低い声が聞こえました。
「ああ、口惜しい」
あれはいったい、どこから出た声なのか。私はずっとその声の響きを、忘れられたらいいのにと願っているのよ。




