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千猫の語る「あの子の声」、四

みっちゃんの言った「次」は、すぐにやってきました。翌日主人が彼女を箱にしまおうとして、取り落としたの。それもそのはず。これは主人を責められないわ、あの子、わざと身じろぎしたのですから。

人様の手前、そして道具の矜持としても、人前では何があってもじっとしていますけれど、ほんとうはみんな、ちょっと震えるくらいはできますものね。その震えが主人の指を滑らせて、彼女はつるりと落ちました。そう高い位置からではないし、木の箱に当たって畳に転がっただけだから、前の日の悲鳴とはまったく違って、蓋と身が小さく鳴ったくらいで済んだけれど。それでも主人は連日の落ち度にうろたえていましたし、私はみっちゃんの言葉を思い出してうろたえていました。次って、あなた、本気なの!

「ねえ、聞いてくださいな」

主人の耳には、かちゃん、という風に聞こえたのでしょうけれど、彼女はそう言っていました。みっちゃん、何をしているのと狼狽するこちらにはお構いなしで、彼女のほうはけろりとしていました。

「今日はあんまり、大きな声じゃなかったわ」

日々が進めば寒い日が増え、自然と私と彼女の出番も増えていきます。みっちゃんは隙あらば、身を揺すり、捩り、何かに当たっていこうとするのを止めませんでした。あの子はまだ付喪神としては若い方ですからね、ちょっと震えるくらいで、そうそう「もの」以上のことはできません。たいていは上手くいかなかったし、何回か人が指を滑らせたことがありましたけれど、それは軽く蓋が畳に転がる程度のことでしたけれど。

でも、私たちと人は、愛でる愛でられる関係のなかで、ふいと何かが、通じ合うものでしょう。彼女が身じろぎを止めなければ、そういう何かが、いつか主人の手を決定的に滑らせたっておかしくはないわけです。

ああ、恐ろしい。

もちろん、何度もいさめました。私だけじゃなくて、おなじ香合や焼き物の仲間も、おなじ茶事に出ていたものも、みんなで叱ったり諭したりしたのよ。あなたは香合であって、鳴るために生まれたものじゃない。鳴るのは鐘やら銅鑼やら鈴やら、そういう役目をもって生まれたものがいるんだから、彼らに任せておきなさいなって、口を酸っぱくして言い聞かせました。でもだめね。誰が何言ったって聞きゃしない。眉をひそめて、ぷいとそっぽを向いてしまうのです。

「姉さんだって、お湯を沸かすのがお役目でしょうに、茶室で歌ってみせるでしょ。あたしだって、きっとお香を抱きしめる以外にもできる。きっと、はなしたり歌ったりできることよ」

頑固にそう繰り返すのに、みんなが閉口しました。

「あたしたちの声は、人には届かないでしょう。空気を揺らさないでしょう。でも、姉さんの声は届くわ。茶室のなかに朗々と響くし、白い湯気が息のように見えもする。そんなのって、ちょっとずるい」

ずるいと言われたって、こちらは困ってしまいます。それこそ私は、そういう役目なのですもの。

「私は歌うときに身を削ったりしていないのよ。なかの水と、火とがうまいこといけば勝手に起きるだけのこと。みっちゃん、あなたはそうじゃないでしょ。あちこちにぶつかったんじゃ、身が持たないわよ」

「そんなすぐに割れたり欠けたりしないわ。あたし、しっかり作ってもらったのだもの」

誇らし気な声。それは確かに、誇るべきことでした。彼女は確たる業と情熱で、文句なく作られていました。でも、それは、香合としてでしょう。香合は、鳴る道具ではないのです。堂々巡りになりそうで、私ははなしの矛先を変えました。

「誰か声を掛けたい人でもいるの。主人はもう、あなたの声をちゃんと聞いたわ。もうじゅうぶんではないの?」

「それは」

数度瞬きをしてから、彼女は改めて考え込んだようでした。ありがとうと言いたい時がある。ある日みっちゃんはそう言っていたけれど、今はとてもそうは見えませんでしたし、案の定彼女はそのことすら忘れていたみたいでした。

しばらくして、ふふふ、と彼女は明るく笑いました。わかった、わかったわ、と、とてもかわいらしく、ちょっと頬を染めて言うのです。

「あたしですわ。姉さん。あたしは、あたしに声を届けたいの」

まるで、自分の声に恋をしてしまったみたいだった。

もしくは、みっちゃんのなかで、在るということと、鳴るということが、どこかでぐちゃぐちゃになってしまったみたいでした。一度偶然に出ただけの声なのに、それを失ってしまえば、自分でなくなってしまうかのような。

今でも時々思います。あの時どんな言葉をかけたなら、彼女を止められたのかしらって。それから、止めることが正しいことなのか、とも。

たぶん、私たちも人間とおんなじで、姿も声も限りがあって。それをどういう思いでどう使い切ろうと本人の自由ですからね。

実際、そう言って諦めるようにみっちゃんに対して口をつぐむ方が多くなっていきました。でも、目の前で仲良しが割れるようなことをしていたら……どういう道理があろうとも、私は黙っていられません。ただ、そうは言っても、私だってすっかりみっちゃんを説得しあぐねてしまっていました。何を言っても、響かない、流される。普段はどんなおしゃべりもしっかり受け答えしてくれるみっちゃんが、このことになるとすっと身を引いてしまうのです。

結局私も、言葉を探すよりも、春が早く来ますようにと願う方が多くなりました。冬が終わり春が訪れ日差しの力が強くなれば、客から火を遠ざける季節になります。暖かさを茶室に満たしていた大きな炉の蓋が閉じられて、釜の湯を沸かすのは、炭も火も釜も一回り小さなものが使われる風炉になります。そうすれば香は練香から香木に変わりますし、香合も木地のものが好まれますから、彼女の出番もほとんどなくなるでしょう。

夏のあいだ静かに箱のなかで過ごせば、彼女のこんがらがった想いも、解かれていくんじゃないかと思いました。……思いました、は正確ではないわね。どうぞそうであってくれますようにと、祈っていました。

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