千猫の語る「あの子の声」、三
それが奇妙なかたちで彼女を蝕んでいくようになってしまったきっかけを、私ははっきり覚えています。
それはある秋のことで、私たちは茶事を終えて、水屋に並べられていました。主人の旧友をふたり招いたこぢんまりとした茶事で、心の通い合う静かな時間が流れたあとの満足感や幸福感が、まだ主人にも茶室にも満ちていて、時折優しく光っているようにすら見えました。それらをいっしょに収めていくかのように丁寧に、主人は茶事に使った道具の後片付けをしていました。
私たちの主人は私たちを誠実に扱ってくれるけれど、人だもの、手が滑ることもありますね。まだ冬と呼ぶには少し早いのに、妙に冷える日でしたから、火を落とした後の茶室と水屋で作業しているうちに、手がかじかんでいたのかもしれません。片づけの途中、ふいと、主人が火箸をとり落としました。頭に擬宝珠の飾りがついている、水屋用の重い鉄の火箸だった。その時は運も悪く、近くにいろいろな炭道具を広げたままで、まさにその火箸の頭が、ああ、なんてこと! みっちゃんに当たったのよ。
いま思い出してもぞっとする。彼女、すごい悲鳴をあげたわ。
主人はもちろん大慌てで、みっちゃんは倒れこんだまま動かないし、こちらも血の気が一気に引きました。主人は一通り、彼女をひっくり返して見たり、透かしてみたり、指でなぞったりしていました。そうしてしばらくして、安堵のため息をつくと、水屋の棚に彼女を置いて出て行きました。何か粗相をしたときは一服置いて切り替えるのが、あの人の習慣ですから。
主人の様子から大丈夫そうだとは感じたものの、実際のところはわからない。彼女は水屋の板の間でぐったりとうつぶせになっていました。白い着物に覆われた肩に髪の毛が三筋ほど落ちて、痛々しいほどにほっそりと見えました。
辺りにいたのは私と、丸壺の茶入れ。あの子もかわいそうに、自分がぶつかったかのように震えあがってしまっていました。陶器のものですもの、無理もないわね。とにかく私はみっちゃんに駆け寄って、その顔を覗き込みました。あの時の顔の青白さといったら。
「みっちゃん、ねえ、しっかりなさい」
何度か呼びかけたあとに、か細い返事が返ってきたときには、心底ほっとしました。しばらくはとても動転していて、混乱もしているようだった。けれど、私が続けていろいろ問いかけてそれに応えていくうちに、みっちゃんは少しずついつもの様子に戻っていきました。おそるおそる頭を起こした時には、まだ顔色は悪かったけれど、目なんかは随分しっかりしていました。
「ひびや欠けなんて、入ってやしないでしょうね?」
思わず問い詰めるような口調になりそうなのを必死で抑えてそう聞くと、みっちゃんは両手を頬に当てて、それからまだ震えている自分の体をぎゅっと抱きしめました。長い指が着物に皺をつくっていて、そのひとつひとつも小さな震えを孕んでいました。
「だいじょうぶ、みたい」
「ああ、よかった」
「くらくらする。あの火箸の金属が当たった瞬間、頭のなか……いいえ、体中で雷が鳴ったようになって……ああ、ばらばらに砕けたと思ったわ」
「かわいそうに、怖い思いをしたわね」
やれやれ、まったく、不注意は困る。そんなことを言い合って、その場はなんとか落ち着いたのだけれど。
その日も暮れて人々が寝静まったころに、みっちゃんが声を掛けてきたんです。
「姉さん、少し、おはなしできて?」
「ええ、もちろんよ」
結局主人はその日は片づけを中断していたので、私と彼女はまだ箱にしまわれずにいました。私はよく茶室で乾かされて数日してからしまわれることも多かったけれど、彼女はすこし珍しいことでした。
外ではまだ、秋の虫が鳴いていた。みっちゃんはいつもよりぐっと口数が少なかったけれど、今日のことを思えば仕方もない。私たちはいつものおしゃべりはちょっとお休みして、ただ並んで座っていました。ときおり、虫たちよりも小さな声で短くはなしをして、そして静かに薄暗がりの茶室で夜の音に耳を傾けて。そういう風にして、今日のことを忘れようと思っているのねと、私は最初思っていたのですけれど。
「ねえ姉さん、なかなかすてきじゃありませんでしたこと?」
唐突にそんなことを言われても、最初、なんのことなのか分かりませんでした。首を巡らせて彼女を見ると、いつもと変わらぬ微笑みで私を見ていました。
「さっきのあたしの声よ。わりあいによかったと思いません?」
「さっきの声って、あなた、あの、悲鳴のこと?」
「そうよ。ああすれば、あたしもなかなか素敵な声が出せるのね。気に入ったわ」
「あなた一体……何を言っているの」
私、あきれちゃったわ。あんなに真っ青になってしばらく起き上がれなくて震えているほど、痛くて怖い思いをしたのに。それにこっちだって、どれだけ肝を冷やしたと思っているのかしら。それと同時に、もしかしてまだ動転してるのかしらと改めて哀れにも思いました。だって、割れ物である彼女が言うにはあんまりにも、変なことでしょう。自分が何かとぶつかった時の音を気に入った、なんて。
「あの声、主人も聞いていた」
「そうね、それでみっちゃんとおなじくらい真っ青になっていたわよ。自分のしでかしたこととは言え、かわいそうに」
花に留まった蝶のように両手で自分の喉元を覆って、彼女は言いました。静かに、でも決然と。
「でも、次はもっと良い声が出せると思うの」
震えることのない声帯を、指先でなぞる様は、ラジオの輪郭を追っていた光景を思い出させました。そこから、音を拾おうとする指先。
「次って?」
「次は、次よ。今日は金物と当たった声。次は何でどんな声が出せるかしら。なるべき、大きいのがいいわ。蓋がかちゃかちゃいうようなのじゃなくて、今日みたいなのがいいの」
「……もう、休んだほうがいいわ」
私は、そう言うのがやっとでした。みっちゃんは逆らわずに、そうね、と軽く応えて、その日はお開きになりました。




