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千猫の語る「あの子の声」、二

そうそう、私の声に応える人もいるのよ。昔むかしの主人のひとりなんかは、私が歌うととてもうれしそうに言葉を返してくれたものです。その人は、少しくたびれた小間の茶室にひとりで座って、お気に入りの道具でのんびり茶を喫するのを好む性質でした。自分のためだけに自分の好きな道具を集めて自分の好きに点前をする。気ままな人でしたよ。それでね、ふ、ふうと私が口ずさむと、彼もにこにこしはじめるのよ。

ーそうだな、今日は昨日よりずいぶんと寒いなあ。

ー分かっているよ、あの花は少し横を向きすぎたね。

ー雨漏りなんてしやしないよ。君の勘違いだろう。

ー確かに日に日に暖かいが、まだ桜には早いだろうよ。

私が何を歌おうと、そんな風にてきとうなことを返してくるので、噛みあわないのがかえっておかしくって、おかしくって。私もいろいろはなしかけたものです。

ーふつふつ。

ーきゅうきゅう。

ーしゅしゅう。

なんて、ね。でも、何でしょうね。そんなことを何度も何度も繰り返せば、不思議となんとなく言葉が通じていくのね。こちらが天気を問えば出先で雨に降られたはなしが始まったり、新しい道具のことを話題に出せばあれはいつ使おうかなんて思案をはじめたり、梅がひとつほころんだことを教えれば今日は寒さが和らいだ気がするなんて言われたり。

何年も、そうしていろいろ会話をしていましたけれど、いちばん最期にはなしをしたのは、彼が病を得て、すっかりやつれて医者から戻ってきたときでした。命って不思議ね。いつもは意識なんてしないけれど、消えようとしているときにはありありとそこにあるのが見えるのね。

いつもしていたように私にたっぷり水を入れてしまうと、彼には重くてもう運べませんでした。だから半分よりもっと少なくして、それでも覚束ない手つきで、彼は私を炭に掛けました。そのときは私、あなたとお茶をするの、楽しゅうございますって伝えたのです。彼は目を細めて、おれも君と茶をするのが楽しかったと、そう言っていましたよ。

そりゃ、みなさん茶席で松風が話題に出れば褒めてくださるわ。それも十分嬉しいの。けれど、彼のようにここまで私の声が好きなのは、今後いやしないでしょうね。

そういう気持ちから、私はいまも、なんとはなしに、彼の命日に手を合わせています。もちろんそのおうちからはとっくの昔に手放されました。お墓も位牌もなんにもないし、私はお経のひとつもあげられない。でも、私は彼を覚えていますからね、その日は彼との会話を思い出しながら、まあこちらは元気でまだ湯を沸かしていますよ、なんて心の内で報告しながら、手を合わせます。

みっちゃんがそれを見て、誰のご供養ですか?と聞いてくれたの。彼のはなしをすれば、みっちゃんは彼とおなじように、自分も私の歌が好きだと言ってくれました。慰めやその場限りの何かではなくて、真実「あら、あたしだってとても好きよ」とあっけらかんと。そして思い返してみるとその言葉の通り、私が湯を沸かしながらるるると歌うのを、みっちゃんはいつも楽しみにしてくれていました。「姉さんの御声って、すてきよねえ」と、正面からすなおに褒めてくれたこともありました。

もともとね、彼女は音や声というもの全般にとても興味を持っていたんですって。人でもものでも、何をどう好きになるかって分からなくって、面白いわ。何故かもいつからかも良く分からないけれど、とにかくどんな音でも気がひかれるんだそうなの。

みっちゃんは、庭に猫がくればちょっかいを出して鳴き声に笑っていたし、風が吹けば葉や窓の揺れる音に耳を澄ませていたし、雨が降ればあちこちの屋根の下で音を比べていました。人のはなしている様子には興味津々、どこかの家のラジオやテレビが風に流されて聞こえてくると、それにも一心に聞き入っていた。それだけだったら、平和な趣味ねって思うところだけれど。彼女のそれは、もう少し……なんというのかしら、そうね、切実なものに見えました。

そうそう、珍しく主人が茶室に小さなラジオを持ち込んだ時に、こんなはなしをしました。主人は何かどうしても聞きたいものがあって、茶室の準備をしながらそれを聞いていたのですが、普段はそんなことをしないものだから、ラジオをつけっぱなしにしながら出かけてしまったのです。みんな主人のうっかりに、あらあら賑やかなことねと苦笑していたのですけれど、みっちゃんはずっと、その消し忘れたラジオの前に正座をして、すっかり聞き入っていました。

「姉さん、これずっと誰かが誰かにしゃべり続けているのよ。面白いわねえ」

私がとなりに座っても、こちらを見ることなくラジオを見つめたままで、みっちゃんはそう言いました。

「これは、人にとって聞くための道具ね。人には五感というものがあるのでしょう?」

目、耳、鼻、舌、皮膚。それらから得る、視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触るという感覚。彼女はほっそりとした指を、ラジオの音が出ている部分に当てました。

「人はあたしのことを目で見て手で触れられるけど、それだけだわ。姉さんは良いわね。姉さんは、人に美しいかたちを見せて、ずっしりとした重みやざらっとした釜肌を感じさせて、湯気で少し湿った鉄の匂いを嗅がせて、沸かした湯を味合わせてあげて、そして、声も聞かせられる。あたしにも、声があったらよかったのにな」

うらやましいわって、少し笑った顔は、ちょっと寂しそうでした。彼女に描かれた青い模様のはしの、白と薄青の滲んだような雰囲気。

「どうしてそんなことを思うの? あなたが人の耳に届く声を持たないのは、それがあなたという道具にとって必要のないものだからだわ。あなたは香合で、私は茶釜よ。お互い違うものなのに、羨む必要も比べる道理もありゃしないわ」

「それは、そうよ。あたしだって、姉さんになりたいわけじゃないの。ただね、ときどき、人ってあたしたちに呼びかけてくるでしょう。姉さんが前におはなししてくだすった人ほどではなくたって、ちょっと声を掛けてくる人が」

「ええ、あれやこれや、はなしかけてくる人は少なくないわね」

そりゃもう、きれいだとかかたちが良いだとか、私たち自身のことを誉めそやしてくれる人もあれば、挨拶をしてくる人や今日の出来事や予定をはなす人、今日のお点前で失敗しませんようになんて願掛けをしてくる人まで、いろいろと。

「おはようって返したいとき。相づちを打ちたいとき。貴女も綺麗よとか、ちゃんと見ててあげるわとか請け負ってあげたいとき。ありませんこと?」

あるわ。ね、みなさんあるわよね。

「姉さんは、そういう時に、歌って答えられるでしょう。意味は分からなくたって、人はそれを聞けるんだわ。あたしだって、声を掛けてもらったらその都度いろいろ言うけれど……でも、人の耳に聞こえるわけじゃない」

みっちゃんは、音を「聞く」のが好きなだけではないことに、私はその時気付きました。みっちゃんは音に憧れていて、自分でも人に音を届けたいのだ、と。

「人が呼びかけるってことは、声で返してほしいってことじゃないかしら。ありがとうって思うだけじゃ伝わらないんだわ。それを悲しいと、思う時があるのよ。あたしのおはようやありがとうが、ちゃんと人にとって声と思えるものになればいいのにって」

そうなのかしら。ほんとうに、みっちゃんの声、人にはぜんぜん聞こえてないのかしら。私にはわかりません。ラジオからは、明るい女性の声が響いていました。確かに、その女性の声を聞こえているというのなら、みっちゃんの声は聞こえないのだけれど。

いくつも穴のあいた部分から出てくる声を掬い取るように、みっちゃんの指がラジオをなぞっていました。なんだかね、あんまりその姿が切ないものだから、私、何も言えなくなってしまって。ごまかすみたいに、お化けの手をしておどけてみせたの。

「あなた、考えてご覧なさいな。あなたの声がはっきり聞こえたらね、人によっちゃあ、その場でワッと飛び上がって、二度とあなたに近寄らなくなるわよ」

そうしたらやっと、みっちゃんはこちらを見てくれました。ラジオから、細い指先が離れて、唇の下に添えられます。

「それもそうだわ。お寺か神社へ、お祓いにやられちゃうかも」

「お経か祝詞を、たっぷり聞けるわね」

「それも面白そうだけれど、ここにいるのが楽しいから止めておこうっと」

ころころと笑う姿はいつもと変わらぬものになっていて、私はたまらなく安心しました。

彼女はそういう風にして、音や声に、好きとは少し違うような、好きを少し超えたような思いを抱き、それはゆっくりと深くなり続けていたの。隣町の花火、茶碗を打つ茶杓、子どもの吹いた口笛、畳を擦る雑巾、空き瓶に当たる雨だれ、車のブレーキ、うっかり破かれた障子、灯篭に落ちた枯れ葉。いろいろな音を彼女は熱心に聞き続け、それは彼女のなかにひとつまたひとつと降り積もって重なっていきました。

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